明智光秀は本能寺の変の後に亡くなっていなかった説。天海になって生き延びたのは本当なのか?

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明智光秀は主君である織田信長を本能寺で討ち取り、その後、落ち武者狩りにあったとも自害したとも伝わっています。

しかし、実は明智光秀は生き延びて別人となり、生涯を閉じたという説があることは、日本史ファンならどこかで聞いた経験があるでしょう。

その別人とは、徳川家康の側近として活躍した天海という天台宗の僧でした。

明智光秀が天海だと言われている理由

光秀の死後、家康の周囲には光秀の関係者やそれに関わるような名前が出ています。そして天海は謎が多く付き纏う人物です。

出自や年齢がハッキリしていないこともあるのですが、光秀との関連性を窺わせる点があるところも、「天海=光秀」をイメージさせる要因なのでしょう。

日光の名所「明智平」は、天海が名付けたという伝承。天海が深く関わった日光東照宮にある、光秀の家紋「桔梗紋」の存在。豊臣方で戦った光秀の孫・織田昌澄は大坂の陣の後、家康によって助命。徳川秀忠・家光の名前と、光秀という字の共通点。徳川家光の乳母に、光秀の重臣だった斎藤利三の娘・春日局が採用。

などの理由が挙げられます。これらのエピソードと謎が多い天海の存在と合わさって、天海は光秀ではないのかと言われるようになったのでしょう。

明智平(写真ACより)

謎が多い天海の人生

天海の前半生は不明な部分が多いです。

天海の直弟子である胤海が記した「東叡山開山慈眼大師縁起」によると、天海は陸奥国の蘆名氏の生まれだと書かれています。しかし、足利将軍の落胤説があるとも記されており、当時から謎が多い人物だったのでしょう。

そんな天海に弟子が尋ねたところ、「生まれも年齢も忘れてしまった」と語っているそうです。身近な人にさえ自分の出自を語ろうとしない天海の存在は、神秘的なものだったのではないでしょうか。

また、天海の年齢も諸説ありますが、かなりの長寿であったと伝わっています。現在では1536年生まれ、没年が1643年が定説となっており、なんと数え年で108歳だったそうです。

天海像(wikipediaより)

天海が家康と出会ったのは、家康が江戸城に入る前年(1589年)だったと言われています。そうして高齢ながら家康・秀忠・家光と、天海は徳川三代将軍に仕えたのです。

徳川幕府を江戸に置いたのも、天海の意見を家康が尊重したからだと伝わっているので、まさに徳川幕府の礎を築いた立役者なのでしょう。

「天海=光秀」説は否定されている

明治から大正に掛けて小説家として活動した須藤光暉は、1916年に発表した著書「大僧正天海」内で、「光秀が生き延びて天海となり、豊臣家を滅ぼした」という説がある事を記しています。

光秀山崎の一戦に敗れ、巧みに韜晦隠匿して、出家して僧となり、徳川家康に昵近して、深く其帷幕に参し、以て豊臣氏を滅亡し、私かに當年の怨を報ひたりといふ奇説を唱道する者ありと聞く。

この事実から、大正の頃から「天海=光秀」説が囁かれていたことが分かります。

明智光秀像(wikipediaより)

天海には素性が分からない部分がありますが、天海と名乗る以前は「隋風」という名前だった記録があるそうです。

だから天海は光秀ではないと、須藤光暉は著書で語っています。すでに100年前に、「天海=光秀」説は否定されていたのです。

織田信長が「人間五十年〜」と詠んだことからも、戦国の世の中は寿命が現代よりも遥かに短い事実はよく知られていますよね。

そんな時代に100歳を超えるだけで、それはもう人間を超越したような存在だったのでしょう。そういった背景から、「天海=光秀」という図式が成り立ったのかもしれません。

参考文献:須藤光暉「大僧正天海」(1916年)