「私の顔と上原亜衣さんの首から下を…」の被害を明かす。AKB48の最終審査に残ったことも(撮影・徳重龍徳)

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 かつて「神童」と呼ばれアナウンサーを目指していた少女が、なぜ“炎上上等”のグラビアアイドルになったのか――。グラビアだけでなく、報道番組「ABEMA Prime」にコメンテーターとして出演する麻倉瑞季は、SNSやnoteでの歯に衣着せぬ発信も話題を呼んでいる。小学生で東大判定Aを叩き出し、高校では平和活動や社会活動にも没頭。コロナ禍での挫折やミスマガ受賞など、その濃すぎる半生を聞いた。

【写真23枚】「ほかに大きい子がいなくて…」ミスマガは“勝てるな”と確信。生脚と吸い込まれる視線の撮り下ろしカット

――今回は麻倉さんの半生をお聞きしたいと思います。

麻倉:半生……そんな大したことないですけど。ただ、そこらの23歳よりは面白い人生を送ってきたとは思います(笑)。

「私の顔と上原亜衣さんの首から下を…」の被害を明かす。AKB48の最終審査に残ったことも(撮影・徳重龍徳)

――長崎県諫早市の出身ですが、幼い頃はどんな子だったんですか。

麻倉:2歳から公文をやってましたね。親はいろいろな習い事を私にやらせたんですが、その中で「ここが一番楽しそう」って言ったのが公文だったらしいです。親が、医者になって欲しそうだったので「医者になりたい」と言う子でした。そうしたら喜ぶので。「お医者さんになって、おばあちゃんがご病気になった時に、助けてあげられるようになるのー!」って言ってましたが、打算でしたね(笑)。

――勉強はすごくできたそうですね。

麻倉:小学校で「能力開発センター」っていう塾があったんですけど、テストを受けると400点満点中400点ばかりで、四谷大塚のテストを受けたら東大判定がAでした(笑)。全国で何番みたいな感じでした。子供の頃、「ドラえもん」とか「サザエさん」とか見た記憶がないですもん。火水金が公文で、土曜日が能力開発センター。暇な日は自習に行ったりと遊んだ記憶がないです。

――その様子だと、みんな周りはもう東大に行くと思っちゃう。

麻倉:神童って言われてました。

コラージュを作られ…

――中学校は中高一貫の進学校に進みますね。どんな風に過ごしていたんですか。

麻倉:なんか、入学した時から嫌われていて。

――えっ、なんでですか?

麻倉:かわいかったからかな。

――ああ(笑)。そう書いときますね。

麻倉:でも目立っていたとは思います。中学校に入る時点で「D」あったんです。あと男子とも仲が良かったので。男子って性の目覚めってそのくらいの年代じゃないですか。うちの中学校には伝統的に男子しか入れないグループLINEがあって、そこで私の顔とその時全盛期だった上原亜衣さんの首から下を合体した“コラージュ”がすごく流行していたみたいで。その噂を聞いた女の子は私のことをよく思わないから「嫌い」と言われてました。

――被害者なのに、酷い......。部活動はしていたんですか。

麻倉:中高、放送部です。中学の時に「NHK杯全国中学校放送コンテスト」アナウンス部門で長崎1位になったことで、アナウンサーになろうと思いました。得意なこと以外はやりたくなかったです。あと中学の時点でOLには絶対向いてないとも思ってたんです。パソコンの前にずっと座っている自分を想像できなすぎて。

並行して「平和活動」

――高校では社会活動もされていたんですよね。

麻倉:平和大使と国際協力団体「おこしWings」というのをやっていました。

平和大使は小学校ぐらいから、毎週日曜日の長崎駅まで通って署名運動をやっていました。寒くても手袋禁止、帽子を被るのも禁止と結構厳しくて。 最初は「何の意味があるんだろう」とかは考えずにやっていたんです。ただ高2のタイミングで政治家に会いに行くんですが、活動の裏で大人がいろいろよくないことをやっているのが分かってフェードアウトしました。

「おこしWings」はもともと同級生の子が立ち上げた団体だったんですが、彼女が「私、ちょっとインド行ってくるわ」と言っていなくなったので、副代表だった私が代表になりました。団体では音楽フェスを開いたり、地元の諫早を盛り上げるためにレシピを開発しようと、知り合いだった野菜ソムリエの方と一緒に「いさハヤシライス」を共同開発したりしました。

AKA48は最終審査だった

――学生時代は芸能界に興味はあったんですか?

麻倉:高校の頃にはアイドルになりたいと思っていました。オーディションも受けていて、AKB48のチーム8は最終審査に進みました。WACKのオーディションも2次審査までいったんですが、どちらも次の選考場所が東京だったんですよ。

私は「これは行くしかない」と思っていたんですけど、ちょうどコロナ禍で母が「東京には絶対行かせられない」と言ってきて。諫早は田舎なので、東京に行っていたという話は一瞬で広まって、当時バイキン扱いされていたんです。実際に別の人が出張で東京から帰ってきたら卵をぶつけられることもあったので。だから、そこで諦めました。

アナウンサーを目指して人生設計も…

――コロナじゃなきゃアイドルグループにいたかもしれないんですね。そこからどうやって芸能の道へ?

麻倉:SNSで写真をアップしていたら、DMで「ヴィレッジヴァンガードのアパレルモデルを探しているからモデルをやってみないか?」と連絡があって。卒業旅行も兼ねて東京に遊びに行って撮影したんです。その時、竹下通りで今の事務所にスカウトされました。

大学の合格も決まったんですけど、ママは芸能をやらせたいと思っていたようで、上京させてこの仕事につきました。ただパパは知らなくて、単身赴任から帰ってきたら私がいなくて「大学に行ってるんだよね」「いや、なんか東京いるみたい」みたいな感じだったみたいです。

――ただ、もともとはアナウンサーを目指してたんですよね。

麻倉:私の人生設計は大学で経営を学んで、ミスコンで優勝して、アナウンサーになることでした。上京して大学を辞めたらアナウンサーにはなれないけど「番組のMCだったり、アナウンサーっぽい仕事もあるし、なんとかなるっしょ」と考えていて。乗り掛かった船は全部乗るタイプなんです(笑)。

最初は嫌だったグラビア…オーディションに行って「勝てるな」の確信

――事務所に入るとアイドルグループ「Girl's Time」に所属。さらにグラビアオーディションである「ミスマガジン2022」にも挑戦します。グラビアに抵抗はなかったんですか?

麻倉:グラビアは最初は嫌でした。アイドルが一番したかったし「よっしゃ、アイドルやりますぜ」という気持ちの時に「ミスマガに出ませんか」と事務所の人から連絡がきて。「ミスマガ? 何それ?」と無視していたらリマインドが来たので、しぶしぶ書類を出したらミスマガに通ったんです。それでベスト16まで進んで。

記者会見で16人集まるじゃないですか。パッて見て「勝てるな」って本当に謎の自信が働いてました。ほかに胸が大きい子がいなくて。実際はもう一人大きい子がいたんですけど、その子が会見を欠席したので「勝ちました」と思ってました。

――実際「ミスマガジン2022」でミスヤングマガジンに選ばれましたし、予想通りですね。水着自体はその頃はもう嫌じゃなかったんですか?

麻倉:ベスト16の時には慣れてました。あとプロのメイクさんがやってくれるメイクが可愛すぎて「俺、かわいい」となってました。

グラビアやってる人間にはセクハラしてもいいと思ってる?」

――グラビアをやってみて反響などはどうですか。昨年は週刊プレイボーイで花咲楓香さん、白濱美兎さんとともに表紙になりましたし、4月14日発売のSPA!では初表紙も飾りました。

麻倉:思ったよりもコンビニの雑誌ってよく見てるんだなと思いました。長崎に帰省した際、シーシャ屋でシーシャを吸っていると店員さんに「失礼なんですけど、芸能やられてますか? この間コンビニで見かけました」と言われてビックリして。グラビアをやっている間に紙の写真集を出したいです。

――麻倉さんとグラビアでいえば、2023年6月にXでゲーム配信中にセクハラコメントをしてくる輩に「グラビアやってる人間にはセクハラしてもいいと思ってる?」と苦言を呈したことも話題となりました。

麻倉:それがファースト炎上ですね。グラビアファンはその時に結構離れましたね。「グラドルごときが」みたいな人も多いので。その発言の時に離れた人もいましたけど、逆に残ってくれたファンは「こいつ、おもろいやん」ってなったんです。今はそうした人がコアなファンになってくれていますし、そこからですね、思ったことは基本言うようになったのは。

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【記事後編】ではファン層を広げた“むき出しすぎる”noteの執筆秘話や、高すぎるコミュ力が生んだ「初対面の相手と温泉」等おどろきのエピソードの数々を聞いた。

徳重龍徳(とくしげ・たつのり)
ライター。グラビア評論家。ウェブメディアウォッチャー。大学卒業後、東京スポーツ新聞社に入社。記者として年間100日以上グラビアアイドルを取材。2016年にウェブメディアに移籍し、著名人のインタビューを担当した。その後、テレビ局のオウンドメディア編集長を経て、現在はフリーライターとして雑誌、ウェブで記事を執筆している。著書に日本初のグラビアガイドブック「一度は見たい! アイドル&グラビア名作写真集ガイド」(玄光社)。noteでマガジンを連載中 X:@tatsunoritoku

デイリー新潮編集部