【特別寄稿:倉本聰】「そしてコージは死んだ」
その記憶が僕には強烈にあった。だが富良野にはそういう施設はない。北海道全てを見渡してみても、数える程しかホスピスはない。
大学病院の緩和ケアの先生は、判りましたと言ってくれた。それでも心配で内科の医師に相談した。その時返された医師の答えは、しかしまだ新薬ができる望みもありますから最後まで希望を捨てないように、だった。札幌の麻酔科医に電話したら、今頃内科はまだそんなことを言っているンですか!と怒った。
86歳になり、死が現実のものとして近づいてきた今、僕は心底から考えている。
死はもう恐くない。だが苦しむのは絶対にいやだ! ホスピスが欲しい! 誰か近くにホスピスを作ってくれないか!
1月。彼の癌は骨に転移した。それでも彼は苦しみに耐えながら、在宅での闘病を懸命に闘っていた。
去年の11月の自殺未遂が、彼自身に相当響いているようだった。自分の始末をつけられなかったこと。周囲に迷惑をかけてしまったこと。大きな恥をかいてしまったこと。
以前にも増して彼は無口になり、在宅のままステロイドの投与を受けていた。麻薬の投与も始まっているらしかったが、彼の苦痛の表情からは明快な効果は認められなかった。97から98あるべき血液中の酸素濃度がどんどん下がり、酸素ボンベは使っているものの、彼の形相はどんどん変わっていた。
3月14日。酸素濃度が60まで下がり、耐えかねた彼は救急車を呼んで、富良野協会病院に自分から入院した。病院はコロナの臨戦態勢で、完全に面会禁止だったが、頼みこんで限定したスタッフの1名を、つき添いとして24時間、病室にはりつけてもらうことを許された。
何もすることのできない僕は、彼に長文の手紙を書いた。永いつき合いのこと、愉しかった想い出、そして感謝。最後に俺は今君の苦痛が一刻も早く去ることだけを祈っていると書いた。書きつつ今自分はまだ生きている本人に向かって弔辞を書いているという錯覚に陥った。
つきそいから翌朝電話があり、読み始めてコージはもう1枚目で泣き出して後が読めなかったという。そして最後の一行を読み終えると、〝先生は俺の気持ちを判ってくれてる〟と呟いたそうだ。
そのスタッフからいきなり電話で叩き起こされたのは17日の午前1時である。コージが苦しんで先生の名前を必死に呼んでるから、すぐ来て下さい! ということだった。夜勤の看護師さんには内緒で話を通してあります!
かけつけた時、コージはベッドの上で、半分のたうちまわっていた。酸素吸入のマスクと鼻からの管は入っていたが、いくら吸っても酸素が体内に入っていかないようだった。一息々々を全力で吸おうとして、声にならない声をあげていた。手を握ってやると握り返そうとしたが、その手に力はもう残っていなかった。労働で鍛え上げたコージの荒れた手を、僕は必死にさするだけだった。僕に向かって何か訴えるコージの声はもう声にならず、只胸を精いっぱい上下して空気を吸おうとする空しく荒い呼吸音だけが病室の空気を震わせていた。
血中酸素濃度は何と、40まで下がっていた!
楽にできませんか! 何とか楽にしてやって下さい!
看護師さんに懇願したが、看護師さんはさっきから既に枕元の機械のダイヤルをいじっていた。いじってはいたがコージの様態に変化はでなかった。夜勤の若い看護師さんには、それ以上の麻薬の増量にふみこむ資格はないにちがいない。彼女たちには恐らくそれ以上の医療判断は許されていないのだ。僕は彼女たちに頼むことを諦め、コージの荒れた手を必死にさすりながら、空しい嘘を叫ぶしかなかった。
