【特別寄稿:倉本聰】「そしてコージは死んだ」
親しい友人が癌で死んだ。
62歳。日本尊厳死協会の会員だったが、その会員証は何の役にも立たなかった。僕は今、悲しみと空しさと、怒りの中でこの文を書いている。
友人。コージとだけ記しておこう。コージは僕の富良野塾の創設期からのスタッフであり、 40年近い付き合いになる。
ログビルダーに憧れており、カナダにも修業にやり、こつこつと一人技を磨いて塾の建築のリーダーとなった。丸太小屋を含む十数軒の家を作り、僕の今住んでいる石造りの住宅もアトリエと呼んでいる稽古場も全て彼の作りあげたものである。
九州男児。寡黙にして我慢強い。実にさわやかな男だった。
その彼が肺癌に冒されたのは、今から約2年半近く前のことである。既にステージ4と言われましたと、照れたような顔で報告に来た。あと2年くらいが限界だそうです。
彼はその齢でまだ独身であり、自分の柊の棲家となる家を一人コツコツと建てている最中だった。だからその家で死にたいです。病院に入ることは絶対厭です。彼は通院して治療を受けながら、苦しみの間を盗んで自の家を完成させようとした。僕は直ちに旭川の大学病院を紹介し、同時に、尊厳死協会への入会をすすめた。
富良野は人口2万2千。協会病院という総合病院があるが、ここには旭川の大学病院からの派遣医たちが主につとめている。
丁度数年前、『風のガーデン』という末期癌に冒された医師のドラマを僕は書いており、その時、膵臓癌のことと、緩和ケアの実情について、かなりの勉強を僕はしていた。殊に旭川の大学病院で緩和医療を主導しておられるI先生という麻酔科の教授には台本の監修をお願いして親しくさせていただいていた。先生は既に定年を迎えて、札幌の病院に移っておられたのだが、そのお弟子さんが旭川の医大で緩和医療室を継いでおられたので、その方に話を通していただき、緩和ケアの専門家のいない富良野の病院の担当医と密な連絡をとっていただくことにした。そういう形でコージは在宅のまま抗癌剤治療をし、調子の良い日はそれでも仕事を続けていた。
1年が過ぎ、2年目に入って抗癌剤の副作用が出始めて、治療はステロイドに切り替わった。この頃から苦痛はかなりのレベルに昴っていた筈だ。だが、無口な彼は周囲に決して弱みを見せなかったから、不覚にも僕らはその苦痛の激しさを見逃した。その年の11月。突然彼は自殺を計った。
刃物で首を2カ所切断し、死にきれず今度は電動ドリルを心臓に突き刺して穴を開けようとした。それでもうまくいかず、たまたま訪れた他のスタッフが血みどろの彼を発見し、救急車で搬送され一命をとりとめた。
僕は仰天し、旭川から飛んできてくれた緩和医療の担当の医師に、尊厳死協会の彼の会員証を示し、助からぬものなら麻薬を打って少なくとも彼を苦痛から楽にしてやってもらえないかと懇願した。
実は。僕の義弟、妹の亭主は骨髄癌で十数年前死んだ。彼らは大阪に住んでいたのだが、二人共熱心なクリスチャンだった。骨髄の癌は想像に絶する苦しみに見舞われる。夫妻は丸2年間、強烈な苦痛と闘った揚句、二人で話し合い、有馬温泉にあるキリスト教系のホスピスに入る道を選択する。
ホスピスでは大量の麻薬を投与される。苦しみからは解放されるが、死は確実に覚悟せねばならぬ。彼らは話し合い、その道を選んだ。僕はその時初めて、ホスピスというものの存在を知った。
入院直後に有馬に見舞うと義弟の顔はそれまでと全くちがい、信じられないぐらい明るく転じて人が変わったようによくしゃべった。時には麻薬の副作用らしくトンチンカンな会話もまざったが、苦しみは一切彼から消えていた。ウソみたいでしょうと妹は言い、昨夜は夜中まで二人で賛美歌を歌ったの、と涙をかくして笑ってみせた。それから何と9カ月も生きて、義弟は息を引き取った。何とも和やかな死に顔だった。
