【穂積 昭雪】神奈川の団地で母と女児2人がメッタ刺しに…「住人間の悲劇の騒音トラブル」が注目され続けているワケ
騒音が原因で殺人事件に発展
現代社会において、誰しもが遭遇する可能性のある「騒音トラブル」。今回は騒音が招いた衝撃的な事件を二つ紹介したい。
一つ目の惨劇は、神奈川県平塚市の県営団地で発生した。
1974年(昭和49年)8月28日朝9時10分ごろ、団地の4階に住む46歳の男性・大山武夫(仮名)が「ピアノの音がうるさい」と階下3階に住む竹田家(仮名)へ乱入。その場にいた母親と女児2人の計3人を次々と包丁を使って殺害した。
犯行現場は凄惨そのものであった。3人は左胸部や頸動脈を刃物で突き刺され、首には衣類を使って絞められた形跡もあった。さらに何度も包丁で身体を切り刻んだのか、現場は血しぶきで真っ赤に染まっていたという。
犯行を終えた大山は駐車場に停めてあったバイクにまたがり、その場から逃走。途中でバイクを棄てた後は付近で野宿を重ね、事件から3日後の8月31日の深夜に平塚署へ出頭した。
以上が、一般的によく知られている「ピアノ騒音殺人事件」のあらましである。
悲劇のはじまり
本事件は二つの視点から論じられることがある。それは「騒音問題」および「死刑問題」である。
まずこの事件は、大山が近所のピアノ演奏に悩まされていたことに起因する。
当時の報道によると、竹田家は音楽教育に熱心な家庭であり、子供たちには幼稚園の頃から楽器を学ばせ、長女が小学校にあがる頃にはピアノを買い与えていたという。その姿は戦後社会を象徴する慎ましく平和な家庭そのものであった。
一方、竹田家の階上に住んでいた中年の大山武夫はたった一人で「戦争」を続けていた。連日のように演奏されるピアノにストレスを抱えており、たびたび竹田家に文句を言いに行っていたのだ。
大山が竹田家から聞こえてくるピアノの音にストレスを受けていたのは、彼の持病が大きく関わっている。
大山は1929年(昭和4年、昭和20年3月に旧制中学卒業の経歴から逆算)に東京都内で書店を営む家庭に生まれた。ただ、戦後に駅員などいくつかの職を転々とするなかで、20代前半頃から神経症による頭痛に苦しみ始める。
加えて、大山は結婚や離婚、就職や退職をたびたび繰り返し、将来に対して不安を抱えていた。40代を迎える頃には彼の神経症はますます悪化していったという。
後に惨劇の舞台となる平塚の団地に移住した頃の大山は、勤めていた会社をすでに退職しており失業保険暮らしだった。また当時結婚していた妻は大山からの家庭内暴力から逃げるため実家へ帰省していた。
そのような悲惨な状況のなかで階下からは日曜大工や楽器などの騒音が鳴り響き、かつ竹田家とは近所付き合いが上手くいっていなかったため、次第に「騒音は自分に対する嫌がらせではないか」と考えるようになっていく。もちろん、これは大山による回想であり、実際のところはわからない。
団地住民に殺される恐怖
ただし、竹田一家もピアノによる騒音対策は常識の範囲内で十分に行っていたとされている。ピアノを演奏する時間帯は勤め人や学生が出払っている「平日の午後4時から1時間」、および夏休みは「午前9時から10時までの1時間」と決めていた。
だが不幸なことに、竹田家のこの気遣いは失業中で毎日自宅にいた大山には届かなかった。毎日ピアノの音にさらされてしまったことが本事件の悲劇のはじまりだったのだ。
ちなみに、「ピアノ騒音殺人事件」は「日本初の騒音殺人事件」と称されることがある。
実際は騒音トラブルをきっかけにした殺人事件は戦前から存在しているため日本初ではないのだが、本事件が「日本初」と称されたのは後に与えた社会的影響があまりに大きかったからである。
事件が発生した1974年(昭和49年)という時代は「第2次ベビーブーム」の末期にあたり、国内人口の増加の影響で住宅事情も大きな変化が起きていた。特に多くの家庭が安く住める「団地」の需要は60年代中盤から高まり、当時ピークを迎えていた。
そのため「同じ団地の住民が包丁を持って襲ってくる」というピアノ騒音殺人事件は、当時の日本人にとって「身近な恐怖」として認識されたのだ。
また、ピアノを扱う楽器業界に関しても本事件が与えた影響は大きかったようで、60年代まで高度経済成長期の象徴としてピアノは比較的裕福な家庭に置かれていた。だが、本事件の発生によりピアノに対するネガティブイメージが植え付けられ、一時的に売上が低下している。
一方、ヘッドフォンなどで外に音が漏れないようにする、電子ピアノ(デジタルピアノまたはサイレントピアノ)の需要が高まるきっかけにもなった。
死刑が確定したものの…
では、もう一つの論点である「死刑問題」とは何なのか。
大山は前述の通り自首したために事件は早期解決となっている。その後の第一審にて大山は「残虐性が極まりない」「自己の犯した罪に対し悔悟(かいご)の情を示していない」として、死刑判決となった。
その一方で大山は重度の神経過敏であり、当時の精神鑑定で「精神病質者」と認められている。裁判でも減刑となる可能性があったことから、弁護人による控訴申し立てが行われた。
だが、拘置所生活を経て精神状態が事件当時より悪化しており、「懲役よりも死刑を選びたい」と控訴を自ら取り下げた(控訴を取り下げて死刑を選択する受刑者は非常に珍しいため、大山の裁判は法曹界でも大きな注目を集めた)。
その後、1977年(昭和52年)4月16日に大山武夫は殺人罪による死刑が確定となった。
しかし2026年現在、「ピアノ騒音殺人事件の犯人の死刑が執行された」という報道は伝えられていない。つまり、大山武夫は98歳を迎える現在も、東京拘置所のなかで「死刑執行の日」を待ち続けている可能性が高いのだ。
こうした状況について公式な理由は語られていないが、大山が重度の精神病を患っていることで執行が延期ないしは停止されていると思われる。
事件発生からすでに50年以上が経過した「ピアノ騒音殺人事件」は、日本の死刑制度のあり方を含め、未だ解決に至っていないのかもしれない。
つづく記事〈暴走族を狙った“見えないロープ罠”が17歳少年の首に食い込み…「葛飾区の騒音トラブル」が招いた悲惨な未解決殺人〉では、騒音トラブルに関わる二つ目の惨劇「葛飾区水元公園事件」を紹介する。
【参考文献】
・毎日新聞
・読売新聞
・判例タイムズ No.329(判例タイムズ社)
・明治・大正・昭和 事件・犯罪大辞典(東京法経学院出版)
・狂気 : ピアノ殺人事件 (文春文庫)
【つづきを読む】暴走族を狙った”見えないロープ罠”が17歳少年の首に食い込み…「葛飾区の騒音トラブル」が招いた悲惨な未解決殺人

