【山本譲二 我が道9】父と2人でキャンペーン 泣きそうになった1枚しかないワイシャツの手洗い
奥村チヨさんの「終着駅」や堺正章さんの「街の灯り」、内山田洋とクール・ファイブの「そして、神戸」などヒットを連発していた作曲家の浜圭介さん。全く無名の自分のために「夜霧のあなた」(詞・千家和也)という作品を作ってくれただけでなく、所属事務所やレコード会社も決めてくれました。
クリント・イーストウッドがハリー刑事に扮して大ヒットした映画「ダーティハリー」をもじり、芸名は「伊達春樹(だて・はるき)」になりました。とんとん拍子に1974年7月25日に歌手デビューが決まり、やっと自分の時代が来ると思いました。24歳の時でした。
しかし、大きな勘違いでした。バックも何もない無名の新人歌手など、誰も相手にしてくれません。テレビの歌番組などに出られるはずもなく、宣材と呼ばれるレコード店などに貼られるポスターすらありません。広島に行きなさいとのレコード会社の指示で広島営業所に向かうと「自分の力でレコードを売ってきてください」と、レコードを300枚ぐらい渡されました。途方に暮れて父に電話しました。「どうした?」「自分でレコード売らにゃいけんのよ」と泣きつくと、父はタクシーの仕事を休んで移動用の車を借り、下関から4時間かけて広島まで来てくれたのです。
父と2人きりの10日間に及ぶキャンペーンが始まりました。広島、岩国、柳井、徳山、宇部、そして最後は下関。2日ぐらいずつ滞在して、昼はレコード店回り、夜はスナックなどの店に飛び込み営業。一枚一枚売り歩くしかありません。やたら暑い夏でした。夜中、疲れ果てて安いビジネスホテルのベッドに倒れ込みました。ふと目を覚ますと、父が風呂場で洗濯しています。「何しよるがね?」「襟が真っ黒で格好悪いから、洗いよる」。たった1枚しかないワイシャツを手洗いで洗ってくれていたのです。「パン、パン」と布を手で叩き、シャツを引っ張ることを何度も繰り返しました。アイロンがなくてもシワを伸ばす方法を海軍の軍隊生活で培ったそうです。見ていて泣きそうになりました。
キャンペーンの最後は下関。高校時代にジュークボックスで歌を聴いたレコード店「中国電波」でした。マイクで呼びかけても誰一人集まりません。「オレ、この町で生まれ育ちました。甲子園にも行きました。歌手になって戻ってきたので、歌聴いてください」と必死に叫んでも誰も来ませんでした。「売れていないと屁(へ)みたいな商売だな」とつくづく実感しました。
8月18日は下関市文化会館でコンサートでした。日吉ミミさんがゲストでしたが、公演直前になって、日吉さんのギャラは本人持ちだと言われました。デビュー曲1曲しかない自分だけでは、約1000人収容の会場を埋められるわけがありません。家族会議で相談しても大金を急に用意できません。ところが精肉店を経営していた早鞆高校の野球部の仲間が「譲二、オレが出すよ」と出してくれたのです。本当に涙が出ました。
◇山本 譲二(やまもと・じょうじ)本名同じ。1950年(昭25)2月1日生まれ、山口県下関市出身の76歳。早鞆高3年の67年、夏の甲子園出場。74年に「伊達春樹」として「夜霧のあなた」で歌手デビュー。北島三郎に師事し、78年「山本譲二」として再デビュー。80年発売の「みちのくひとり旅」が81年にかけてロングヒット、ミリオンセラーに。NHK「紅白歌合戦」に計14回出場。
