岩手で生まれ育ち、岩手の高校からドラフト1位でプロ野球の世界へ--。

 2009年の菊池雄星(花巻東→西武→マリナーズ)、2012年の大谷翔平(花巻東→日本ハム→エンゼルス)に続き、大船渡高校の佐々木朗希は、その3人目となった。

「そのお二方は偉大な投手なので、追いつき追い越せるように頑張っていきたいです」

 同郷のメジャーリーガーに思いを重ね合わせ、佐々木はプロでの飛躍を誓う。


ドラフトでは4球団から指名を受けた大船渡の佐々木朗希

 10月17日のプロ野球ドラフト会議で、パ・リーグ4球団の競合の末に千葉ロッテマリーンズが交渉権を獲得した瞬間、それまで表情を変えずに小さなテレビ画面を見つめていた佐々木の顔には、わずかに感情が浮かんだ。

「ホッとしています」

 安堵した心の内が表情を変えた。岩手の三陸地区に位置する大船渡高校で送った日々について、佐々木はこう振り返った。

「入学当初、思い描いていたよりも順調に、思った以上に成長できたと思います」

 そう話す一方で、佐々木はこうも言う。

「けっして楽な道ではなかったですし、思うようにいかない時期もありました……」

 大船渡第一中学時代もそうだったが、高校入学後もケガと隣り合わせの日々を送った。1年秋には「立っているだけでも腰が痛かった」と、野球と向き合えなかった。それに肩やヒジに不安がなかったとも言えない。163キロをマークした今春でさえ、その時点で「球速に耐えうる骨や筋肉、靭帯、関節ではない」と語っていたのは大船渡の國保陽平監督だ。

 無理はさせられない--傍から見れば過保護に映るほど登板間隔が空けられ、球数も制限されるなど、佐々木は我慢の日々を送ることになる。そうした悶々とした”我慢の日々”は高校最後の夏まで晴れることはなかった。

 夏の岩手大会決勝は、マウンドに上がるどころか打席に立つこともなく、チームは敗れた。結局、佐々木は高校の3年間で甲子園に出場することはできなかった。その後、日の丸を背負って出場したU−18ワールドカップ(韓国・機張)でも、右手中指の血マメの影響で、わずか1イニングのみの登板に終わってしまった。

「佐々木にとって高校野球とは何だったのか……。高校野球をやりきったと言えるのだろうか?」

 試合後、そんな疑問を佐々木にぶつけると、小さな声でこう言った。

「半々です」

 ドラフト当日に語った「思い描いていたよりも順調に成長できた」という言葉に偽りはないだろう。ただその一方で、満たされなかった思いがあったのは間違いない。韓国の地で、どこか吐き捨てるように発せられた佐々木の言葉を思い出すたびに、そう思わずにはいられない。

 満たされなかった思い--。

 それは、地元の仲間たちと甲子園に行けなかったことへの悔恨とも言えるだろうか。常々、佐々木は「このメンバーで甲子園に行くことに意味がある」と言ってきた。そしてこう語ったこともある。

「つらい時だったり、悩んでいる時に相談に乗ってくれるチームメイトがいた。そのなかで、一緒に甲子園を目指すということが励みになった」

 だからこそ、本気で甲子園を目指した。だが、夢は潰えた。しかも甲子園が目の前に迫った岩手大会決勝で、出場することなく敗れたのだ。

 ドラフトの日、記者会見場となった大船渡市三陸公民館には野球部のチームメイト54人の顔もあった。彼らを目の前にして、制服姿で会見に臨んだ佐々木は緊張した面持ちだった。テレビ、新聞、雑誌を合わせて約20分だけの記者会見。そのなかで佐々木は「感謝」という言葉を5度使った。両親への思い、支えてくれた人々への思い、育った大船渡への思い、そして仲間たちへの思いを、その二文字に凝縮させた。

 大船渡高校野球部OBのひとりはこう言う。

「プロの4球団が競合するほどの選手が、大船渡から出たこと自体、すばらしいことです。これまでいなかったわけですから。仲間に対する思いが本当に表れた時に初めて、彼は成功すると思います。その時、本当の意味で佐々木朗希という選手の基盤ができると思っています」

「感謝」という言葉を体現する場となるプロの扉が開かれた今、佐々木はこう言うのだ。

「目標を立てて、ひとつずつクリアしていって、最後はしっかりと成長して日本一のピッチャーになれたらと思います。プロではチームを優勝に導けるようなピッチャーになりたいです」

 すべてが満たされたとは言えなかった高校時代に別れを告げた佐々木の、覚悟にも似た思いがその言葉に詰まっていた。