マズロー「自己実現」の誤解と「ありのまま」
■自分の存在価値を求める「成長欲求」
お陰様で、連載を通じて年をひとつまたぐことができました。本年もよろしくお願いいたします。
さて、「やる気がない」「さめている」とか、「草食系」「さとり系」などと表される近年の若者たち。社会環境は激変し、企業組織や大人たちは「夢は?」「やりたいことは?」「達成したいことは?」「目指すべき姿は?」などと問いかけてきます。僕たちはそれを、しばしば「自己実現」と説明され、そのぼんやりとした何かを追いかけてきました。
「自己実現」というと、多くの人は、心理学者アブラハム・マズローの5段階欲求のピラミッドを思い浮かべると思います。自己実現はその「段階の頂点」として描かれていますが、これは本人によって記されたものではなく、多くのマズロー研究者たちによって「自己実現論への誤解」が指摘されています(※本稿では、先行研究論文や文献の引用は割愛しています)。
そもそもマズローの理論は、組織経営や人材マネジメントのために説かれたものではなく、「人間の成長と心理的健康の実現」を問うたものだと言われています。そしてこれは、僕のこれまでの実験や活動を支えてきた重要なコンセプトでもあります。
マズローの段階欲求説は、4段階の欠乏欲求と、その上の「高次元」な成長欲求とに分けて考えることができます。欠乏欲求とは、不足・欠損しているものを満たそうとするもので、満たせば、それ自体が意識下から消えていくものです。ただし、人間はある欲求段階には滞留できず、その段階を上がり続けようとし、これが社会活動や仕事の「モチベーション」にもつながります。
この段階や内容についてはさまざまな見解がありますが、いずれにしても一度すべての段階をそれなりに満たす経験をすると、人間はそれまでとは根本的に次元の異なる「成長欲求」へ向かおうとする、と説明されています。これは足りないもの・欠けているものを満たそうとするものではなく、自分自身の存在意義や価値を求めよう・示そうとするものであり、「存在欲求」とも呼ばれています。そしてここに、「自己実現」が位置づけられています。
「存在」というと、下位の次元である「承認欲求」との違いがよく論じられるのですが、こちらは、「社会や環境への適応」が前提となっています。つまり、「こうなるとすごいよね」「こうなれば評価されるよね」という設定されたゴールを追い求めている状態です。しかし、自己実現は「適応」することではありません。ある状態に到達したり、達成したり、ここまでいけば満たされる、というような性質のものではなく、絶えず広がりや変化を求めようとするもので、「絶え間ない傾向」に動機づけられたものです。
■自己実現とは「成長の過程」そのもの
しかし、この「自己実現」は、特に組織経営や人材育成の現場の多くでは、長く誤解されて用いられてきました。
そもそも、「自己実現」とは日本の学者によって訳されたものであり、マズローの原書では、Self-Actualizationと記されています。日本語訳の「実現」という言葉には、「計画や期待などが現実のものになる」という「結果の状態」を指すような性質が強く含まれるため、本来の意図が正確に伝わらなかったのかもしれません。Actualizationをそのまま訳せば「実際のものになること」ですが、真の自己実現とはつまり、社会的な要求や自分の思い込みの理想を現実化することではなく、人間本来の自然で多様な姿、「ありのまま」の状態を体現し続けることです。
「ありのまま」とは、これまたなんともぼんやりとした言葉ですが、マズローの理論を頼れば、それは結果ではなく、「過程そのもの」ということです。マズローやマズロー研究者によれば、自己実現とは、単なる自己中心ではなく、自分の欲やエゴも認めながら、他人の存在や様々な環境、想定外の出来事や変化などを受け容れ、その関わり合いや複雑な日常の体験を通じて、自分の可能性や潜在能力を発揮していこうとする、成長過程そのものだということです。そして、自己実現は、その変化や成長を通じて、社会性や他人の利益をも含んでいくと説明されています。
僕は、従来の欠乏欲求が「コップに水を満たす」ようなものであったとすれば、この自己実現という成長欲求は、「コップから水が溢れでていく」ようなものだと考えています。溢れでた水がどのようなかたちに広がっていくかは、溢れでてみないと分かりません。
しかし、その「行き先不明」の複雑なプロセスの中には、偶然の出会いや想定外の素晴らしい経験、他から溢れでてきた「誰か」との接触、結合が待っています。これこそが、僕たち人間の持っている「多様性」です。そして、溢れでた水同士が結合されれば、どこまでが自分で、どこまでが他人かという境界も曖昧になってきます。自己犠牲などではなく、他者の利益が自分の一部となっていく。
マズローは、成長欲求には、自己実現のさらに上に、「自己超越欲求(コミュニティ発展欲求ともいう)」があるとも説きました。近年のボランティア指向や「シェア」の文化には、もしかするとそれに通じるようなものが含まれているのかもしれません。
■「ありのまま」は理想論か
この、最終的には自己超越にすら向かうかもしれない「ありのまま」の状態を自己実現とするなら、そんなものは理想論に過ぎない、その前にやるべきことや、日々の生活や環境の中で妥協したり、何かに追われたりしてしまうことがほとんどではないか? という批判もあるかと思います。事実、明日食べるものにも困るような社会環境では、そんなものはただの幻想に過ぎず、欲求として意識することすらないかもしれません。
しかし、多くの若者が「欠乏欲求」をある程度は満たせてしまうような、現代の成熟した日本社会では、それが顕著に現れてきたのだと思います。そして、それが次元の高いものだったとしても、一度出現してしまった(覚えてしまった)以上、その欲求を満たすことができなければ、心理的な健康は阻害されてしまうとマズローは指摘しています。
しかし、この「成長欲求」が「欠乏欲求」とは根本的に質や次元の異なるものであるために、自己実現を支援できるような教育・人材育成プログラムが、多くの学校や企業組織においてほとんど備わっていないということが深刻な問題なのだと思います。自己実現とは、成長という「過程そのもの」であり、「達成をマネジメント」することでは決して可能になりません。従来の過度な目的合理主義・目標管理主義を前提とした人材・組織マネジメントの中では、むしろこれは激しく妨害されてしまうものだと思います。
ここには、「企業の成長」と「個人の成長」の間における大きなジレンマがありますが、その過程において、「無気力」「草食系」「さとり系」などと揶揄されるような価値観の“ズレ”が生じてしまっているのではないでしょうか? 実にもったいないことです。
僕にもまだ、どのような場所や機会が、一人ひとりの成長欲求を満たし、自己実現という心理的健康の実現を支援していけるのか、答えは分かっていません。それでも、「根本的に次元が異なる」ということをいつも念頭において、人材育成・組織開発の活動やコミュニケーション開発の実験を続けています。
「マネジメントしない」ということは、ただ放棄することではありません。ルールやヒエラルキーを一度排除し、結果をコントロールせずに混沌を歓迎するニートだけの会社(http://neet.co.jp/)。「先生」を排することで、教えず、支持せず、管理せずに、感情に寄り添い、おとなとこどもが従来の関係性を越えて共に変化し続けることを偏重した鯖江市役所のJK課(http://sabae-jk.jp/)。これまでにも何度か記事にしてきたように、そのすべては、当事者同士が人間性をぶつけあうことで、僕たちの生々しい変化や成長と「ありのまま」の何かが、これからの社会と新しく接続していくかたちを模索しているのです。
(若新雄純=文)
