「投手の15勝」と「打者の3割30本」どちらが難しいか…「巨人監督」就任当時の王貞治の考え
プロ野球史上最大のミステリー「KKドラフト」から41年、いま初めて明らかになる物語――。あのとき、球界に渦巻く虚々実々に翻弄されたのは桑田真澄と清原和博だけではなかった。脚光を浴びた2人の周縁で、誰が動き、誰の運命が書き換えられたのか。本当の主役は誰だったのか。
連載『1985 英雄たちのドラフト』
第6回「打高投低」(前編)
「攻撃野球をやってみたい」
王貞治が巨人軍の監督に就任したのは1983年11月のことである。
現役を退いたのが1980年11月。この年の8月頃から「王引退」は既成事実として報じられ、10月に監督の座を追われた長嶋茂雄に代わって新たに指揮を執るかと思われたが、監督の椅子に座ったのは藤田元司だった。巨人監督としては藤本英雄以来35年ぶりの投手出身者である。
王は「一度ユニフォームを脱いで外から野球を勉強したい」と懇願したが聞き入れられず、助監督という新しいポストを与えられた。「ベンチに座って藤田の采配を学べ」ということだ。これら一連の動きはいずれもオーナーである正力亨の意向というが、おそらく、現役を引退してすぐ監督に就任しながら、初年度は最下位に沈んだ長嶋茂雄の失敗が正力の脳裏をよぎったものと思われる。
巨人軍監督に就任した藤田元司は「長嶋解任」で吹き荒れる世間の逆風をまったく問題にせず、むしろ「長嶋の遺産」とも言うべき戦力を使いこなし、シーズン序盤から順調に勝ち進んだ。結果、4年ぶりのリーグ優勝をはたし、日本シリーズもパリーグ覇者の日本ハムファイターズを破って8年ぶりに日本一の栄冠を掴んだ。
翌82年は土壇場で中日に追い越され2位に終わったが、契約最終年の83年は再びリーグ優勝、日本シリーズは前年日本一の西武と球史に残る死闘の末に、惜しくも日本一奪還はならなかった。王貞治が監督に就任したのはこの直後である。球団創設50周年という節目の年である1984年のシーズンから指揮を執らせるというのは「世界のホームラン王である王貞治に花を持たせよう」という読売グループ全体の総意でもあったはずだ。
1983年11月8日、九段下のホテルグランドパレスにて、オーナーの正力亨、前監督の藤田元司も同席して、王貞治の巨人軍監督就任会見が開かれた。日本テレビは午後4時から特番を組んで会見の模様を生中継している。会見冒頭で新監督の王貞治は次のように抱負を述べた。
「いまのうちのチームは投手力が70%を占め、攻撃力が不足している。ボクは打高投低を目指し、攻撃野球をやってみたい」(『報知新聞』1983年11月9日付)
当時、小6だった筆者は件の生中継を視聴していたが、子供ながら右の発言に強い違和感を覚えたことを記憶する。なぜなら藤田巨人の3年間を支えたのは、抜群の投手力だったのは小学生の目にも明らかで、であるのに「打高投低を目指す」とは投手の存在を軽視しているように映ったからだ。「それを言うなら“打高投高”と言えばいいのに。江川や西本はいい気はしないだろう」と子供心に感じ入ったものである。
「打高投低」発言につながった背景
発言に違和感を抱いたのは筆者に限ったことではなかったらしく、当時の報知新聞の巨人担当記者の山内豊もこう書いている。
《“攻撃野球”のキャッチフレーズは意外だった。しかし、これは新監督自身の信念が無意識のうちに出た言葉だ、と解釈すれば納得がいく》(同)
もし、山内の書く通りであったとすれば、助監督としてベンチに座ってきた3年間、王が何を考えながら藤田の采配を見てきたかわかる。王はこうも述べている。
「いまの15勝が昔の20勝の価値があるというのは、間違っている。15勝より、打者の3割、30本の方が、ボクはむずかしいと思います」(『報知新聞』1983年11月29日付)
いかにも打者出身らしい発言と言うしかないが、83年のシーズンにおいて、エースの江川卓は16勝9敗3S、防御率3・27。2番手の西本聖は15勝10敗、防御率3・84。彼らに対する当てつけとまでは言わないが「これからの巨人は打のチームでいく」という宣言にほかならず、当時小学生だった筆者が感じたように「投手軽視」と見られても仕方がなかった。同時に、右の発言を聞き知ったと思しき江川卓や西本聖の心情は想像するに余りある。
また、王貞治の一連の発言からは「藤田が整えた戦力をそのまま委譲された」という評判に対する反発心の大きさも窺える。これらの複雑な心境が「打高投低」発言につながったのかもしれない。
かくして始まった1984年のシーズンだが、危惧した通りの展開が待っていた。
【後編に続く】「江川卓の特権」を許さなかった「巨人監督時代の王貞治」に起きた誤算
