【井戸まさえ】深刻な緊急事態でも政治家が会食をやめられない「残念なワケ」 菅首相の限界も見えてきた…

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新型コロナウイルス感染拡大により、一都三県に緊急事態宣言が発せられた。

飲食店に対しては午後8時までの営業時間短縮、酒類の提供も午後7時まで、また国民に対しては午後8時以降の外出自粛を要請しながら、政治家は「仕事柄」、会食等についても全面自粛とはならない。

どんなときでも「会食」も「コンパニオン入り宴会」もやめられない政治家たち。彼らはなぜそこまで「会食」にこだわるのだろうか。

会食で批判を受けた二階幹事長は「会食自粛令」を出した〔PHOTO〕gettyimages

「男芸者」の勝ち組たち

国会議員の会食について、自民党国対委員長の森山裕衆議院議員は「国会議員が全く人と会わないというのは無理がある。人数を決めておいたほうが分かりやすい」と述べていたが、結局、議院運営委員会でのルールづくりは見送られた。

国会議員は「人の意見を聞く仕事」であるから自然に会食という流れができる場合もある。全面禁止は実行しがたい、というのがその理由であろう。

しかし、言うまでもなく、会食しなくとも有権者や識者の意見を聞くことはできる。それを言うと今度は「議員は忙しい、どうせ三食食事はするのだし、その時間を有効活用しようと会食の機会を利用しているのだ」とくる。

ウイルスは晩だけ活動するというわけでもないし、万全の対策をとっていたとしても、罹患しない保証はない。飲食業ほかの国民に不便と犠牲を強いる以上は国会議員自らが範を示すべきだし、食事抜きの面談時間を確保できないはずはない。にもかかわらずこの期に及んで、「あえて」会食にこだわるのは、そこに政治家が「価値」を見いだす効能があるからである。

政治家が参加する会食の場合、同僚議員とのフラットな会以外、割り勘は少なく、どちらが負担してもそこに「貸し借り」の関係が生まれる。会食の効能のひとつは、そこに起因するのではないか。

飲み食いしておごったりおごられたりする関係や、はたまた「お互いの羽目を外した姿を知っている」というレベルにならないと、何かルール外の対応が必要となったときの「無理」が効かないのではないかという強迫観念があるのだと思う。

「オレとお前の仲だから」というやつである。当然ながらそれは、これまで会食や酒を通じた人脈によって「無理」が通ってきたという成功体験と表裏の強迫観念である。

ふたつに、酒が入らないとお互いに本音が言い合えないとか、コンパニオンがいないと場が盛り上がらないといった、そもそもそのコミュニケーション自体が貧弱で幼稚なため、宴席や会食が必要になるという点がある。

一方で、二世等以外の「地盤、看板、鞄」が揃っていない人間が政治家になろうとする場合、有権者との会合では、徹底的に「男芸者」として酌をしまくり、盛り上げ役として人の懐に入る努力をして勝ち上がってきたケースも多い。

いわば「男芸者」の勝ち組なのだ。だからこそ、その反動として、「会食」に対して過剰な価値付けをしてしまう傾向もあるのだろう。いわゆる「料亭政治」は表面的には終焉したかにみえて、実は、ところを変えて「会食文化」は続いているのである。

言論の府にいるにもかかわらず、弁が立たないとか、昨今ではSNS等での発信もできないような政治家でもなぜ国会議員でいられるかといえば、こうしてひたすら公認権を持っている党の権力者と飲食を繰り返すか、あるいは地元で飲食を伴う会合を回り、地元の飲み屋で合法的に「地元経済に貢献」しているかのいずれかである。

スナック周りは「夜の戸別訪問」、カラオケは「夜の街頭演説」と言われるが、朝の街頭演説には姿を現さないが、別の分野で自らの存在をアピールするのが得意な政治家というのが、それなりに存在する。

さらに言えば、コロナ禍で話題になった「やめられない会食」のほとんどが、議会の打ち上げや地元議員との会合といった内輪のものである。ここには「赤信号、一緒に渡れば怖くない」という甘えがある。加えて、選民意識とすら思える「自分だけはかからない」という根拠のない確信があるのだ。

「ソープをおごり」「視察で羽目外し」でさらに醸成

「○○(大物政治家)にはよく、ソープに連れて行ってもらってねえ。おごってもらったんだよ」(政治評論家)

先般、論座でも紹介したが、おごりおごられ、というのは会食だけではない。その先にはソープランドや「視察」と称した買春ツアー等があり、「オレとお前」の共犯関係は熟成されていく。また、そこに登場するのは議員だけではなく、この政治評論家のように、メディアの人々もいる。

海外視察に行けば、空港にはコンパニオンが待機。男性議員のお相手を決めるマッチングが行われ、2泊3日の行程中、朝から晩まで決まったコンパニオンがずっと帯同、という例もあった。その視察についておかしいのではないかと声を上げた議員には、「団の結束を乱した」として、役職から外したり希望する委員会に入れないなどの制裁が行われたという。議員が視察で羽目を外す、ということが度々報じられるが、実はその後の議会の人事等についてまで影響が出ているのだ。

議会で発言力を強めるためにはより多数を押さえ、束となって闘う必要がある。もちろん個人でも活動できるが、本気で政策を通そうと思ったときには、他の議員を説得し、賛同を得るといった手間が必要になる。つまり、政治はチームプレイという側面が大きいために、こうした制裁が続くと、見て見ぬふりをせざるを得なくなるのである。

結局のところ、そうした「共犯関係」を持つことで、議会という「村社会」は成り立ってきたとも言える。オープンスペースではなく、「食事」というプライベート空間に入り、秘密を共有することで、仲間として認められるのである。

一強政治が強化した「会食文化」

コンパニオン入り宴会も料亭政治も、以前ほど盛大に行われることはなくなってきているが、ここ数年、安倍長期一強政権の中で「会食文化」の重要度は増してきている。インスタグラムやツイッター等SNSで、権力者やそれに近い人々と会食している写真をアップすれば、自分は特別な関係だとアピールすることができるからだ。

Facebook等では、安倍昭恵氏と一緒にご飯を食べた、といった書き込みがよく見られたが、それは、単なる記念撮影ではなく「一緒に食べた」ことで、さらにつながりをアピールできるという、自己PRである。おもてなしをしたり、されたりという行為こそが、金銭には変えられない価値なのだ。その最たるものが「桜を見る会」であったとも言えるだろう。

政権は安倍政権から菅政権への受け継がれたが、「会食文化」は健在である。「オレとお前」の共犯関係は非公式な場で醸成されていく。「会食文化」が跋扈するのは政治的決定が不可視の場でなされていることに他ならない。そして菅総理はまさに「裏」で力を発揮してきた政治家なのだ。

菅首相の成功体験、ふるさと納税の宿痾

この機においては愚策と言ってよいだろう「Go Toキャンペーン」は、政治が税による再分配機能を使って、行ける余裕のある人には割引価格で旅行や飲食を楽しんでもらい、行けない人々にはその割引分を負担させるという政策である。

この「ゆがんだ再配分システム」の原点は、菅総理が自らの功績として掲げる「ふるさと納税」であろう。

ふるさと納税は、「納税」というネーミングがされているが、実際は「寄付」という形で行われる。寄付をすれば寄付金控除が受けられ、さらにはご当地の名産等が来るという形だから、通常の寄付や税とは違っている。

さして政策的イデオロギーもない菅総理が発する政策の根本には、人は「損得で動く」という信念があるように見受けられる。「おまけ」をつければ動くと思っているのである。

しかもそれは「お米券」「お肉券」、「Go To Eat」のように、常に食べることが基本にある。もちろんそれらの業界からの働きかけはあったとしても、一方では「お得に食べる」ことに対してこだわる、人の心理につけ込んだ政策なのだ。

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菅総理は、政治人生の中で「人のさもしさ」をいやというほど見せつけられてきたのかもしれない。通常の価格を払うよりもより安く、もしくはより高価な付加がつければ、人はなびく。安くなった分、得になった部分は当然ながら誰かが支払っているのだが、それが見えなければ、負担する側の痛みを感じることはない。

もちろん都市と地方における格差の是正や、被害を受けた業界への支援は必要である。しかし、ふるさと納税やGo To政策がその答えなのだろうかと言えば、決して根本的な解決ではない。

菅総理はこうした人の「さもしさ」によるインセンティブを肯定し、コロナ禍でダメージを受けた日本経済への牽引のきっかけにしようとしたのだろう。しかし、「ゆるみ」も含めて、感染拡大を後押しする結果となり、急速に支持を下げる結果となった。

「間」をもたせるための「会食」に意味はあるか

菅総理は危機に対応できる政治家でないことは、今や誰の目にも明らかとなっている。個別の「会食」で自らの味方につけていたはずの人たちも態度を変え始めている。

批判をしても大丈夫、安倍氏のような「仕返し」への怖さはない、むしろ、批判することで自分たちの人気が上がるとなれば、それまでの立ち位置を変えて、あっさりと菅批判に転じる。橋下徹元大阪市長や田崎史郎氏もそうであろう。メディアコントロールも効いていないという意味では、期待された柿崎氏は官邸内で動けていないとみるべきだろう。

菅総理は、官房長官以外、財務や外務等の主要閣僚を経験していない。結局、総理大臣となっても、発想が総務大臣以上でも以下でもないのである。「ふるさと納税」の宿痾が「Go To」を生み出し、コロナ危機にある日本を苦しめることになっていることに、誰もが気づき始めている。

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会見は棒読み、しかもその朗読すら下手。原稿から目を上げてようやく出た言葉が、100万の言葉を熟考した上に出された渾身のワンフレーズではなく、「お答えを差し控える」。危機において語らないのは、慎重さでない。そもそも語る言葉を持たないということが露呈してしまったのだ。

どんなに会食を重ねても、貧弱な会話の「間」を持たせるための「会食」には意味はない。しかし、むしろ菅総理はじめ政治家が単なる面談でなく、「会食」を好む一番の理由はそこかもしれない。

実際、再度の緊急事態宣言の発出初日に報道番組に出演した菅総理は、質問にまともに応えることもなく、国民へのメッセージを促され一番重要なのは「マスク、手洗い、三密回避」であると述べた。

コロナ危機が取り沙汰されて早一年、感染爆発ともなる今、これが最高責任者の総理から出る言葉であること自体に衝撃を受けた。

総理は「表」で国民に対しての言葉を持たなければならないはずだ。「会食文化」のような「裏」の力学によって、コロナ対策が後手になることがあってはならないのである。

国民は見ている。