ニャンちゅうと津久井さん

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独特のダミ声は、聞いたことがある人ならきっと思い当たるに違いない人気キャラ・ニャンちゅう。演じる、声優津久井教生さん(きょうせい・60)は還暦まぎわに難病・ALSに。治療法の見つかっていない病気だからこそ、自ら情報を発信する毎日を送る。

だが、いずれは呼吸も満足にできなくなる日が来る。気管切開、人工呼吸器を選択すれば一定期間長く生きられるが、ほとんどは声を失うことに。しゃべることが生きること、という津久井さんの選択とは――。

■キャリアのはじめ、神谷明さんや中尾隆聖さんにかわいがられた

津久井教生さんは、’61年3月27日に、東京都新宿区に生まれた。幼いころから一貫してのめり込んだのが読書。江戸川乱歩やエラリー・クイーンなどの推理小説、クイズ本、漫画が好きで、歩きながら本を読み、電柱にぶつかるような体験もした。“本の虫”といわれた高校時代は、友人から誘われた漫画研究会に所属した。

「父親が新しもの好きで、コマ撮りできる最新型の8ミリカメラと映写機がウチにあったものだから、みんなで“アニメを作ろう”ということになって。高校生や大学生らのショートアニメの出品会に参加したとき、『今度、プロの声優とアニメを作る。一緒に出られる、高校生役の声優を探している』とメンバーが聞きつけ、ボクを紹介してくれたんです」

そこで出会ったのが、のちに『パタリロ!』でバンコラン役の声を演じた曽我部和恭さん。その縁で、声優界では飛ぶ鳥を落とす勢いの、『それいけ!アンパンマン』でばいきんまんを演じることになる中尾隆聖さんを紹介してもらった。

本好きだったため、台本から役の心情を読み取れたし、物おじしない性格も気に入られ、現在の所属事務所81プロデュース社長の南沢道義さん、キン肉マンなどの声で有名な神谷明さんらにかわいがられた。

「だからこそ、自分の力のなさも痛感。もっと勉強したくて、高校卒業後は日藝(日本大学藝術学部)のアナウンスコースに進学したんです。同コースには16人中、男子が2人だけだったので、先生方からは親身に教わりました」

教壇には人間国宝となるような伝統芸能の家元を筆頭に、各分野の第一人者が立ち、日本語のアクセントやイントネーション、演劇論などもたたき込まれたという。美しい日本語を身につけたが、一時期、セリフ回しが硬くなり、舞台に上がったときのしゃべり言葉がぎこちなくなってしまった。

「そのため、若気の至りもあって『基礎なんて忘れてやる』って、3年で100単位も取ったのに、大学を中退してしまったんですね。 でも、一度身につけた基礎はしっかり残っていて、どんなに早口でしゃべってもよく聞き取れる声を出せるんです。当時は気づけなかったけど、ボクの声優人生の大切な武器になりました」

プライベートでは89年、劇団の勉強会で出会った雅子さんと結婚。一人息子・悠生さん(29)にも恵まれた。80年代に入ってからは、仕事も順調で、『ちびまる子ちゃん』『それいけ!アンパンマン』などで、複数の役で呼ばれるようになり’92年には、ニャンちゅうの役を射止めた。

「オーディションのとき、米国の人がいたものだから、米国の短波放送のDJの声をイメージして、思いつきで出した声がウケてしまったんですね。それがニャンちゅうの声。完全に習得するまで3年ほどかかりましたが、今では長ゼリフや早口でも対応できます。基本的にはビブラートを利かせていて、声優としてのプロの技が使われているんですよ」

こうした技術を後進に伝えようと、32歳からアミューズメントメディア総合学院で、声優志望の若者の育成にもあたっている。

■突然の体調不良。転ぶことが多くなったのが始まりだった

「音楽や芝居、声優など、“声”を武器に好きなことを追い求めていました。還暦後にはライブ中心の活動をしようと、50歳くらいから準備も始めていたんです」

だが、還暦を目の前にした19年3月、突然、体に異変が出始めた。

「ナレーションのスタジオへ向かう途中、ゆるい坂道で走ってくる自動車をよけたら、つまずくだけでは済まず、ゴロンと一回転する勢いで転んでしまったんです。近くの人も駆け寄って『大丈夫ですか』と心配されるくらいでした」

特段、気に留めることもなかったが、その後も平坦な道でつまずくことを繰り返した。状況は改善せず、1〜2カ月もすると、家から最寄り駅までの徒歩10分の距離を、1回休みを入れないと疲れて歩けなくなった。その休みが2回に増えたとき、近所のクリニックを受診。

「血液検査をすると、炎症を示す数値が異常に高くて、総合病院の整形外科を紹介されました。でも、骨に異常は見られませんでした。1カ月の経過観察中に、杖がないと歩けなくなるし、うんこ座りから立ち上がることもできなくなりました。妻と“名なしの権兵衛病”と名付け、何かしら病気があることは覚悟していました」

整形外科から神経内科へ回され、今度は1カ月の検査入院。皮膚を切開し、麻酔なしで筋肉の一部を取り出す検査、体に針を刺して電気を流す検査などで、病名を探った。ひととおりの検査が終わったころ「ご家族も同席してください」と言われ、夫婦で面談室に行った。

「机の上には、7〜8枚にまとめられた報告書が置いてあって、1枚ずつ丁寧に説明をしてくれるんですね。それで最後のページをあけると『ALS、筋萎縮性側索硬化症の可能性が高い』とありました」

担当医からは「現状では治療法はありませんので、すぐに退院できます」と告げられた。

「悲観的にならざるをえない状況なんでしょうが、病名を聞いたときは、なぜかホッとしました。それまで“名なしの権兵衛病”で、何と向き合っているのかも知りませんでしたから。検査入院中から“もしかしたら”という思いもあったので、心構えはできていたのかもしれません」

普通なら、食事も喉を通らなくなりそうだが、

「1カ月ほど病院食だったので、退院した日はおいしいものをおなかいっぱい食べたくて、おすしとピザのデリバリーを頼みました」 ようやく患者のスタートラインに立ったことが、津久井さんの心を奮い立たせたのかもしれない。

■声か、命か。問うと、まっすぐな言葉が返ってきた

これからも、さまざまな機能を失い、いずれは呼吸すら危ぶまれ、気管切開して人工呼吸器をつけるかどうかの選択を、迫られることになるだろう。

人工呼吸器を選択すれば、ほとんどが声を失うことになるが、一定期間、長く生きられることが期待できる。若い人、子供が小さい患者は選択するケースが多い。一方、気管切開、人工呼吸器を選択しない場合、近い将来の死を意味することになる。

「どちらを選択するか、まだ決めていません。でも、ボクとしては、生死を選択するつもりはないんです。“どう生きるか”の選択です」

声の仕事をしてきて、多くの人とつながり、社会とつながってこられた。信頼できる友人は『口から生まれた口太郎なんだから(人工呼吸器は)つけなくてもいいんじゃないか』とアドバイスしてくれた。

だが一方で、あらかじめ録音した声を機械がつなぎ合わせ、意思を伝える技術が発達している。

「テクノロジーがより進化して“しゃべれる”のであれば、まだ生きたいって思い、人工呼吸器をつけるかもしれません」

津久井さんの中で、日々、考えは揺れているが─。

「じつはALSを発症する3年前に弟をスキルス性胃がんで、2年前、ALSの検査入院中に母親を亡くしているんです。胃ろうで命をながらえることを拒否すると言っていた弟は、その選択を迫られる間もなく、診断からわずか7カ月半で亡くなりました。

母は心臓病を患い、入退院を繰り返しながら、最後は人工呼吸器につながりました。危篤から持ち直したときの『あれ(人工呼吸器)がなければ逝けたのか。もう何もしなくていいからね……』という言葉が、心に残っています」

こうした経験が、津久井さんの死生観に影響を与えている。

「気管切開、人工呼吸器の選択をどうするのか、100対0のようなはっきりした答えは出ません。でも、今のところ僅差の闘いで、51対49で、“しない”という答えです」

それが現時点での、津久井さんにとっての“生きる”という選択肢なのだ。