ヘルステック・スタートアップのOlive(オリーヴ)をショーン・レインが創業したのは、2012年のことである。このときレインは、シリコンヴァレーの巨大テック企業たちのことを参考にした。

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グーグルが社内にシェフを擁していたので、Oliveでもシェフを雇った。アップルはキャンパス内にジムをもっていたので、Oliveも同様の施設をつくった。オハイオ州コロンバスにある本社に理髪店を開設し、手づくりのゲームコーナーも設置した。

レインはこのコロンバスで、いつか摩天楼の一角にそびえるオフィスを建てることを夢見ていた。「成功しているほかの企業を参考に、成功パターンを取り入れようとしていたのです」と、レインは振り返る。

そして、2020年がやってきた。本社の拡大は、率直に言うとばかげた計画となった。社員がリモートワークに移行したことで、オフィスのゲームコーナーは使用されないまま鎮座し、ほこりが降り積もっている。ところが、レインがOliveの社員に調査したところ、本社施設という福利厚生がなくなったことについて、社員はそれほど意に介していないことがわかった。

代わりに社員が欲していたのは、休暇だ。そこでOliveでは、本社施設の拡大に割り当てていた予算を使い、別荘を借りることにした。予約制で、従業員が必要なときにいつでも無料で利用できる施設だ。「1、2カ月おきに新しい施設を増やしていく計画です」と、レインは話す。「最初はビーチの近くに、次は田舎のほうを予定しています」

福利厚生は、人材獲得の重要要素

ホワイトカラーの世界では長い間、職場の福利厚生は人材を勧誘するための手段だった。

特に米国のテック企業は、この手法によって引く手あまたの求職者を確保し、長く自社で働いてもらおうとしてきた。スタイリッシュな本社、無料の食事、一流の社内イヴェントで新しい社員たちを驚かせるのだ。いまではテック企業で働く誰もが、会社負担の卵子凍結や無制限の有給休暇といった福利厚生を期待するようになっている。

キャリア情報サイト「Glassdoor」の2016年の調査によると、回答者の半数以上が、職場の福利厚生は「内定を受諾する前に最も考慮することがらのひとつ」だとしている(この調査で見つかった最高の福利厚生のひとつは、Airbnbによる年間2,000ドルの旅行費支給だった)。どこの内定を受けるか選ぶとき、そうした福利厚生があれば、オフィスが“仕事場”ではないように感じられるからだ。

ところが、新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的大流行)で社員が在宅勤務を余儀なくされているなか、Oliveのようなスタートアップは、職場施設のインセンティヴもオフィス外へとシフトさせている。

無料ランチ、マジックショー、ペット手当

グルメなランチを提供するシェフはいなくなり、代わりに料理配達大手Grubhubのギフトカードが支給されたり、無料のランチデリヴァリーを使えたりするようになった(現在Oliveは社内で食事を提供していないが、同社のシェフへの支払いは続けており、シェフは地元の保護施設で食事を提供している)。

会社主催の野球観戦やワイン産地へのツアーといった行事は、ヴァーチャルのスカヴェンジャーハント[編註:借り物競争のようなゲーム]やマジックショーに代わった。いまではZoomを使った定期的なハッピーアワーも一般的だ。

オースティンに本拠地を置く保険スタートアップのZebra(ゼブラ)は、在宅勤務中の社員が新しくペットを迎えるための手当を支給している。

休暇の付与に力を入れている会社もある。なかには、有給休暇の取得を必須にしているスタートアップもあるほどだ。

「今年の5月に、誰も休暇をとっていないことに気がつきました」と、ITソリューションスタートアップのElectric(エレクトリック)最高経営責任者(CEO)のライアン・デニーは言う。「バハマまでヴァカンスに行くことはできないかもしれませんが、それでも休暇をとってほしいのです」。以来、Electricは毎月第1金曜日を特別休暇としている。

「Slack」の運営元であるスラック・テクノロジーズもまた、月に1回、金曜日に休暇を付与している。同社ではこの方針のことを「Fri-yays」と呼ぶ。

育児やメンタルヘルスへの気遣いも

ツイッターは、働きながら子育てする人に新しく休暇手当を設け、新型コロナウイルスの感染が拡大するなか、メンタルヘルスデーの啓発活動を展開している。同社は社員に向けて、マインドフルネスアプリ「Happify」のコーポレートサブスクリプションの提供も開始した。

個人向け金融サーヴィススタートアップのSoFi(ソフィ)は最近、遠隔セラピープラットフォームのModern Health(モダンヘルス)と契約し、社員が受けるセラピーセッション6回分の費用を負担している。

また、福利厚生サーヴィスを手がけるBlueboard(ブルーボード)では、通常のアクティヴィティー(スカイダイヴィングやシュノーケリングなど)よりも、心身の健康にフォーカスした福利厚生を求める企業からの声が増えている。

「企業は、社員が心身ともに疲れ切っていることに気づきました」と、Blueboardの共同創業者で最高執行責任者(COO)のケヴィン・イップは話す。

「顧客のなかには、PelotonのエクササイズバイクやMirrorのフィットネスマシーン、瞑想サーヴィス『Chorus』の瞑想セッションやライフコーチングといったサーヴィスを取り入れ、社員にウェルビーイング体験をもたらす個別の福利厚生プログラムをつくった企業も多くあります」

男性向けの福利厚生からの脱却

こうした特典は、いまや新規採用よりも既存の社員のモチヴェイションを保つために重要になっているのかもしれない。

求人情報サイト「Indeed」の調査によると、テック業界では募集中の求人数が昨年と比べて大幅に減少しており、コロナ禍における別の業種と比較しても落ち込みが激しいという。テック業界のスタートアップで何千人もの社員が仕事を失い、ヴェンチャーキャピタルからの投資も枯渇したことで、若いスタートアップが規模を拡大することも難しくなっている。

特別休暇の付与や瞑想アプリのサブスクリプションといった低コストのインセンティヴを提供することは、競争の激しい転職市場ではあまり印象的とは思えない。しかし、ストレスを受け、燃え尽きて疲れ果てた人には有効になりうるのだ。米国ではいま、こうした人が通常よりも多くなっている。

「とはいえ、企業は社員から利益を得られるようこうした福利厚生を設計できますし、実際にそうしています」と、オレゴン大学のロースクールで行動倫理学と労働法を研究するエリザベス・ティペットは言う。

ティペットは、こうした福利厚生を「福祉資本主義」の現代版だと説明する。20世紀初頭の企業城下町と似ており、社宅や学校、公園、スポーツイヴェントなどを企業が提供し、それと引き換えに生産性の高い労働力を暗黙的に求めているのだ。こうした均衡は労働者にとって有益になりうるが、企業にとっても社員が離職しづらくなるメリットがあるとティペットは話す。

ティペットによると、歴史的にスタートアップの福利厚生は、若い独身男性のニーズによってつくられてきた部分が大きいという。終業後にハッピーアワーを設け、無料のディナービュッフェを提供するのもいいが、こうした福利厚生は「独身者や、家族の世話をする義務のない人、あるいはそうした義務を担ってくれる配偶者がいる人のニーズによってつくられた」と言う。

例えばゲームコーナーがそうだ。オフィスで仕事に専念したい人や、子どもを保育所に迎えに行く必要があって夜まで会社に居られない人にとっては、ほとんど無意味だ。

「このような時代は、立ちどまって公平さの意味について考えるいい機会です」と、ティペットは言う。「企業はあらゆるタイプの社員たちを同じように支援できているでしょうか?」

より実用的な福利厚生へ

一部のテック企業は、社員に長く働いてもらうために何が必要なのか、パンデミックによって再考させられているようだ。「社員が本当に必要としているのは育児の支援なのです」と、ミシガン大学ロス・スクール・オブ・ビジネス教授のスーザン・アシュフォードは指摘する。

アップルのように、17年に本社を新設した際に広大なジムは設けた一方で保育所などのデイケア施設を設置しなかったことで有名な企業も、いまでは家族の世話をしている社員に特別休暇を付与している。今年はアマゾンとネットフリックスも、ベビーシッターを手配できる「Care.com」などのサーヴィスを社員に提供し始めた。

コンシェルジュサーヴィスを利用可能にすることで、社員の家庭を手助けする新しい福利厚生を追加したスタートアップもある。

「家事や雑用の負担を減らすことで心にゆとりができ、ストレスが少なくなり、時間の余裕ができます。企業がその点に気づけば、特にいまは非常に大きな違いが生まれます」と、ジェシー・リマ・ボリンは言う。ボリンは、コンシェルジュサーヴィスを手がけるBest Upon Request(ベスト・アポン・リクエスト)のコミュニケーション担当ヴァイスプレジデントだ。

こうしたサーヴィスは、「自室の掃除を面倒くさがる、スタートアップで働く若い独身男性」というステレオタイプを助長するかもしれない。一方で、こうしたサーヴィスによって、家に家族の面倒を見なくてはならない社員の助けにもなるだろう。パンデミック中に、在宅勤務に加えて子どもの世話したり、祖母の用事をしたりする必要がある社員だ。そして家事のバランスは、いまでも女性のほうが多くなりがちである。

スタートアップの勤務体制がオフィス中心に戻ったとしても、こうした福利厚生の多くが継続されると考えられる。そして、全体としてさらに素晴らしく、快適な職場環境がつくられるだろう。幸運なことに、少なくともテック企業で働く人はその恩恵を受けられる。

こうしたなかOliveのレインは、コロンバスの本社を巨大にするという夢を諦めた。「完璧なオフィス」に関するスタートアップの考えの大半が、自分自身のエゴ、そしてほかの成功しているテック企業のように見られたいという願望によるものだったと認めたのだ。

「いまではそうしたことよりも、すべての社員にとって実用的であることのほうに重点を置いています」とレインは語る。

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