運転の楽しさは不要になる……と考えるのは早計!

 自動車業界では100年に一度の大改革が訪れているといわれている。クルマが所有からシェアリングになり、内燃機関から電気駆動にシフトし、自動運転のレベルもどんどん上がっていく可能性が大きい。シェアリングや自動運転にはネットワーク接続も必須となり、そうした技術を含むコネクテッドも近未来の自動車には欠かせない要素といわれている。

 つまり、クルマの価値観がドラスティックに変化しつつあるのだ。クルマに求められる機能も変わってくるだろうし、その評価軸も現在とは異なるものになるだろう。完全自動運転になるとステアリングやペダルといった操作系はなくなるわけで、リニアリティやレスポンシビリティといったドライバー目線での指標に価値がなくなるという見方もできる。すべてのクルマが自動運転になればルールどおりに走るのが大前提であるから、制限速度を大幅に超えるようなパフォーマンスも不要になると考えるのが妥当だ。

 だから、自動運転になると、ファン・トゥ・ドライブ的な評価軸や開発指標は不要になってしまう……と考えるのは早計だろう。自動運転というのはユーザーからすると、運転手のついたクルマに乗っているようなもので、単純に移動だけではなく快適さを求めることになる。そして快適さには適度のパフォーマンスが必要といえる。

 移動することに対してギリギリのパフォーマンスであれば、どうしても加速の余裕がなくなり、車体が前後にゆすられるピッチングが大きくなってしまったり、駆動系などに由来するノイズも大きくなってしまったりする。ある程度は運動性能に余裕を持たせることが快適性につながるのだ。

 本質的に、パワーやトルクは加速でのスムースさに貢献する。自動運転であっても、目標速度までの加速感というのはユーザーの満足度につながる。背中がシートに押し付けられるほどの加速感は不要だが、トロトロと加速しているようではユーザーのストレスになる。またブレーキングでもいかにもギリギリの制動力で止まっているのでは心配になる。不満のない加速性能や減速性能というのは、ユーザーの安心感につながるものだ。

完全自動運転になっても走りの性能が求められる

 さらにいえば、加減速性能の余裕は、運転のバッファ領域を増やすことにつながり、自動運転制御における幅を広げることにもなるだろう。すでに、AIを進化させることによりユーザーの感情に寄り添う走らせ方まで考慮されているわけだが、そうしたバリエーションを実現するにもパフォーマンス全般の余裕は大いに役立つはずだ。

 結論としては、完全自動運転になったとしても加速性能などはある程度重視されると考えられる。また、自動運転であってもそこそこの速度を出すわけだから、サスペンションのセッティングにおいても乗り心地重視でフワフワな足まわりにすればいいとはいかない。ある程度は引き締めたシャシーにする必要がある。パワートレインやシャシーの作り込みについていえば、現在のノウハウはそのまま活かされるであろうし、そこでの差は依然としてメーカー(ブランド)の差別化ポイントとなるだろう。

 ほかにも静粛性については、いままで以上に要求性能が高くなると考えられる。レベル2程度の自動運転(運転支援システム)であっても、ドアミラーなどが発する風切り音は、自分が運転しているときよりも気になってくるものだ。運転に集中しなくてもいいぶん、感覚が研ぎ澄まされる。

 人によってはノイズや振動が気になってくることもある。そのためノイズ・バイブレーション・ハーシュネス(NVH)への要求はますます高まっていくと想像できる。内装材などが発するカタカタ音も自動運転になると余計に気になるかもしれない。

 電気自動車で自動運転になると、これまでのような差別化しづらくなるので、新規参入のプレーヤーでもシェアを奪えるという意見もあるが、トータルでの快適性という視点から考えると従来からのさまざまなノウハウを持ったメーカーの優位は簡単には揺るがない、そう思えてくるのだ。