デポルティボへの完全移籍が決定した柴崎。左がパコ・サス会長、右がデル・ポソSD。(C)RCDEPORTIVO

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「ガクは一度約束したことをどんなことがあっても守ってくれた。20年以上サッカーに携わってきたが、彼のような責任感の強い選手は初めてだ」
 
 柴崎岳デポルティボ・ラ・コルーニャに移籍した経緯を聞くと、強化責任者のカルメロ・デル・ポソSDからこんな答えが返ってきた。
 
 中盤の強化が急務だったデポルティボは、今冬にも柴崎の獲得に動いていた。実際、柴崎サイドとはすでに条件面で合意に達し、所属元のヘタフェとも交渉は最終段階まで入っていた。しかし冬の移籍市場がクローズする1月31日の時点になっても最終的な回答が届かず、そのまま棚上げになったという経緯があった。
 
 クラブのオフィスには柴崎がサインした書類が大切に保管されていたが、泣く泣く諦めざるを得なかった。そしてデポルティボは昨シーズン、プレーオフ決勝でマジョルカに敗れ1部昇格を逃した。デル・ポソは、柴崎を獲得できなかったことがその一因であると考えている。
 
 ただその後も、柴崎とのコンタクトが途絶えることはなかった。この日本代表MFは、前述のマジョルカ戦をはじめデポルティボの試合をチェックしていた。
 
 デル・ポソによれば、もし1部昇格を果たせば、一旦棚上げとなった移籍オペレーションが決行される運びになっていたという。しかし既述したとおり、デポルティボは降格から1年での1部復帰に失敗。元々、19-10シーズンの予算が大幅にカットされる予定だったクラブにとって、資金繰りはさらに厳しくなった。当然、サラリーも抑えられる。しかし、それでも柴崎の考えは変わらなかった。
 
「1部のクラブよりも2部であってもうちでプレーしたほうがアピールになる、と考える選手は今までにも何人かいた」とこのSDは語る。しかし、柴崎の場合は状況が違う。ラ・リーガ1部の複数クラブからアプローチを受け、メキシコのプーマスからはヘタフェに支払う移籍金に加え、高額のサラリーが提示されていた。それらのオファーを全て蹴ってまで、デポルティボでプレーすることを選んだのだ。
 
「ボランチで起用する考えがあると聞かされたことが、入団の決め手になった」
 
 22日に行なわれた入団プレゼンテーションで柴崎自身がこう語ったように、首脳陣は中盤の司令塔をこの日本代表MFに任せる意向だ。
 
 最近10年で3度の2部降格を経験し、近年はエレベータークラブと化しているデポルティボだが、過去2度はいずれも1年で1部に復帰しており、こうして2シーズン連続で2部を戦うのは実に1990-91シーズン以来のことだ。
 
 その後、チームは「スーペル・デポル」と呼ばれた黄金時代を経験。99−2000シーズンにはラ・リーガ初優勝を成し遂げた。その間、ベベット、マウロ・シルバ、ジャウミーニャ、ロイ・マカーイ、フラン、ディエゴ・トリスタン、フアン・カルロス・バレロンら名手がホームスタジアムのリアソールを沸かせた。
 
 それだけにデポルティボのファンにはプライドがあり、選手たちに熱い声援を送る一方で、要求も時に厳しくなる。新プロジェクトの目玉である柴崎にも当然それだけの期待と重圧がのしかかるだろう。
 
 女子チームのデポルティボ・アバンカには昨シーズンから山本摩也が在籍しており、柴崎はデポルにとって日本人選手第2号となる。彼女もまたトップ下とセントラルMFを本職とし、攻撃をオーガナイズする司令塔で、プレースタイルは柴崎と相通じる部分がある。

 新シーズン、1部昇格が至上命題の名門クラブの命運は、このサムライのタクトに委ねられた。
 
文●ファン・L・クデイロ(エル・パイス紙ガリシア地方のクラブ担当記者)
翻訳●下村正幸