初めてhideさんと対面し、記念撮影する真由子さん(右)(1995年12月)(c)HEADWAX ORGANIZATION CO.,LTD.

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 東京・築地本願寺は深い悲しみに包まれていた。

 1998年5月7日。ロックバンド「X JAPAN」のギタリストだったhideさん(本名=松本秀人、当時33歳)の棺(ひつぎ)を乗せた霊きゅう車が正門をくぐった。

 葬儀には、2万人以上のファンらが詰めかけた。叫ぶような泣き声が、霊きゅう車の後ろに続くマイクロバスの中まで響いたときだ。車内にいた貴志(きし)和子さん(74)=当時46歳=は、それまで感情を押し殺していた傍らの次女・真由子さん=当時17歳=の目から涙があふれているのに気がついた。

 難病を患う娘にとってhideさんは生きる支えだった。慈善団体を通じて知り合い、ことあるごとに励ましてくれた。娘の震える肩を抱き、和子さんは不安を感じずにはいられなかった。「これから先、どう支えていけば……」(教育部 大舘匠)

「今の医学では…」

 娘の主治医から告げられたのは、聞いたこともない病名だった。

 「GM1ガングリオシドーシス」

 先天性の遺伝子異常で代謝がうまく機能せず、徐々に体の自由がきかなくなる難病。症例は極めて少ないという。

 「今の医学では治せない」「恐らく20歳までしか生きられない」。貴志(きし)和子さん(74)は、主治医の言葉に体の震えを抑えられなかった。

 横になってぐったりすることが多くなった次女の真由子さんを心配し、病院に連れて行ったのは小学5年の冬。1年にわたる検査の末、1993年、当時住んでいた和歌山市の和歌山赤十字病院(現・日本赤十字社和歌山医療センター)でようやく診断が出た。

 夫の政人さんから「あの子の前で泣いちゃいけない」と言われ、しばらくは病院の廊下で泣いた。回復が望めないなら一日でも長く笑える日を作りたい。1か月ほど泣き明かし、気持ちを切り替えた。

 できることは何でもした。ニュースで難病関連の会合が大阪であると聞くと、急いで家を出た。東洋医学に望みを託し、中国を訪ねたこともある。夫も2歳上の長女も仕事や学校の帰りにほぼ毎日病院を訪ね、真由子さんをさみしがらせないようにした。

 病はゆっくりと、だが確実に娘の体をむしばんでいった。中学に上がると、つえや車いすに頼ることが増えた。発話も徐々に遅くなっていった。

「20歳までの命」せめて夢かなえ笑顔の日々を

 骨髄バンクの推進団体の会報誌に目が留まったのは95年秋のことだ。難病の子どもの夢をかなえるプロジェクトに取り組む「メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン」という団体の記事だった。

 その頃、真由子さんはロックバンド「X JAPAN」に夢中で、病室にCDを持ち込んでよく聴いていた。お気に入りのメンバーが、hide(本名=松本秀人)さんだった。ピンク色に染めた髪を振り乱してギターを奏でる。「ビジュアル系」という言葉を世に広めた人と言われていた。

 「メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン」に電話すると、担当者がやってきた。「一つだとかなえられない場合もあるから」と希望を複数聞かれた真由子さんの答えのほとんどが、hideさんと会ってしたいことだった。困り顔で帰っていった担当者から2週間後、連絡が来た。先方から面会のOKが出たという。日時と場所は、大みそかの東京ドームでのライブ後と決まった。

 当日、上京した一家はドームの控室でその時を待った。真由子さんはうまく動かせなくなっていた手で2か月かけて編んだ黒色のマフラーを握りしめた。さっそうと現れたhideさんは、受け取ったマフラーを首に巻き、「どう、似合う?」と笑ってくれた。

ライブの打ち上げ、思いもしなかった「ダチの真由子」

 少し話して、写真を撮って。時間にしたら15分ほど。スターの慈善活動の一環。和子さんはそう割り切っていた。「それでもいい。あの子が喜んでくれるなら」。ところが、思いもしないことが起きた。

 hideさんが真由子さんの手を引いてライブの打ち上げ会場に連れ出した。他のメンバーに「ダチ(友達)の真由子」と紹介して回った。

 「また会いに行くからな……がんばんだぞ……」。夢のような時間を過ごしてドームを後にする時、hideさんは、IDカードの裏に走り書きして真由子さんに渡してくれた。

 年が明けた3月、hideさんは病室を訪ねてきてくれた。それから間もなく、骨髄移植を受けた真由子さんが危篤に陥った。急いでhideさんに連絡すると、また駆けつけてくれた。

 5月に洋服店を開くから好きな服を選ばせてあげる、9月のソロツアーに来てほしい――。hideさんは、そんな思いをつづった手紙を残した。手紙は、真由子さんの好きなチーズケーキの話で締めくくられていた。

 「それからそれから……チーズケーキな……チーズになるかと思う位、すっごいの喰(く)おうな」

 hideさんはなぜここまでしてくれたのか。真由子さんに送った手紙の一節にこうある。「真由子のおかげで、思い出さなきゃいけなかったいくつかの事が頭にやきつきました。ありがとうな」。弟で、マネジャーも務めた松本裕士さん(58)は言う。「一生懸命生きている真由子ちゃんと出会ったことで、初めてのライブとか、最初にレコードを出した時のこととか、初心を思い出せたのだと思う」

 容体を持ち直した真由子さんだったが、体が食事を受けつけなくなり、食べても戻すようになった。それでも、hideさんとの約束を果たす日を夢見て、スプーン1杯のみそ汁を口に流し込む毎日を送った。

 入退院を繰り返す中でも両親は、医師と相談しながら、真由子さんを車に乗せ、ライブに連れて行った。憧れの人に会っても言葉を継げずニコッとするだけだったが、そんな娘の顔が見たかった。

 約束が果たされる日は来なかった。

 98年5月2日。大学病院を受診しに神奈川まで来ていた時。政人さんの携帯電話に連絡が入った。「hideが死んだ」。やり取りを聞いていた真由子さんは、わっと泣き出した。

 和子さんには直後の記憶がほとんどない。覚えているのは翌日、東京・築地本願寺に憔悴(しょうすい)しきった娘を連れて行ったことだ。葬儀を待つhideさんの亡きがらが安置されていた。事務所の厚意で毎日通わせてもらい、棺(ひつぎ)のそばで何を語るともなく一日中、娘と一緒に過ごした。「hideちゃん、悪い冗談だよね?」。現実を受け入れることができなかった。

 葬儀の後、hideさんのバンド仲間やファンら、2人の交流を知る人が代わる代わる和歌山に来てくれた。みんなに励まされ、娘は少しずつ元気を取り戻していった。

 娘を支えてくれた人たちへの感謝は尽きない。一方、和子さんは「気持ちの強い子だった」とも考える。

 本人に病名を伝えるか迷っていた時、「なんで隠すの」と強い口調で責められた。医師から説明を受けると検査データも見たがり、「自分の体のことは自分で決めたい」と言ってきた。

 hideさんの死後、せがまれて大阪まで連れて行った。hideさんの人形が手に入るクレーンゲームがあった。8000円かけて取れた人形は3体。肌身離さず持ち歩いた。

 「病気を持って生まれたから、神様は強い気持ちを与えてくれたのかな。あの子はあの子で、『生きなきゃ』と考えていた」

カフェを開いた母、娘がつないだ縁に今も励まされ

 2005年、政人さんが勤め先を早期退職し、夫婦は和歌山市内でカフェを開いた。真由子さんは気管を切開し、もう声も出せない体になっていた。家族で一緒にいられる時間を少しでも増やしたい――。カフェの開店にはそんな願いが込められていた。

 体調が悪くない日は真由子さんを連れ出し、店内を見渡せる店の奥に座らせた。訪ねてきたhideさんのバンド仲間やファンから冗談交じりに「社長!」と声をかけられ、ほほ笑む娘をみて、この時間がいつまでも続いてほしいと願った。

 開店から4年半が過ぎた09年9月30日。真由子さんは28年の生涯を閉じた。覚悟していたつもりだが、「もう駄目です」と言われても医師に心臓マッサージをするよう食い下がった。「やめてくれ」。最後は夫の言葉で我に返った。

 店は以前にも増してにぎやかになった。「お母さんを一人にさせちゃいけないと思って」。娘を支えてくれた人たちが、そう言って訪ねてきてくれた。

 店の行き帰りの車でバックミラーに娘が映らないのがつらかった。それでも忙しく働くうちに気持ちが紛れていった。「全力でやった。20歳までと言われたけど8年延びたじゃん」。そう思えるようになった。

 「ずっと介護に追われ、自分を犠牲にしてきたけど、本人はそう思っていない。hideちゃんと真由子のおかげで出会えた人たちへの感謝の気持ちのほうが強い」。病と闘う妹を見て薬剤師になったという長女の仁美さん(47)は、母の思いを代弁する。

「真由子とhideちゃんのため」約束のチーズケーキ

 和子さんが店のチーズケーキを「約束のチーズケーキ」と名付けたのはそれからだ。「約束を果たせなかった真由子とhideちゃんのために焼きたい」

 高齢になったこともあり、22年1月、仁美さんの暮らす神奈川県藤沢市に移住した。4月にカフェを再開し、店の名も「約束のチーズケーキ」にした。政人さんは昨年2月に74歳で他界し、今は一人で店に立つ。

 「hideと娘を『だし』にして」。人づてにそんな陰口を聞くことがある。だから、店のSNSではhideさんには触れない。hideさんに関連するイベントにはなるべく顔を出さないようにしている。

 「もうけるつもりなんかない。2人を知るお客が来てくれ、『あんなことがあったね』と話せるだけで幸せなの」

 娘のことを悲しまずにしのぶことができるのは、そうした人たちのおかげだ。最近は、「お母さん」と呼んでくれる孫世代のファンも訪れる。

 娘のためにつないだ縁に、今は自分が生かされていると感じる。その縁を大事に守り、育てていきたい。ここでチーズケーキを焼きながら。

 おおや・たくみ 2011年に入社し、東京社会部を経て、現在は教育部中高生新聞編集室に所属。和子さんへの取材から母親の愛情の深さを強く感じた。きょうは「母の日」。四国に住む母にプレゼントを贈りたい。37歳。