《つらかった…》生涯独身貫いた政治家・井脇ノブ子さん、たった1度だけ28歳で結婚を打ち明けた母からの“まさかの言葉”
2005年の衆議院選挙で初当選し、"小泉チルドレン"と話題になった国会議員たちのその後はさまざま。「やる気! 元気! いわき!」のキャッチコピーがハマっていた井脇ノブ子さんは、2014年に政界を引退。80歳になった今はつつましい生活を送りながら、地道に市民の声を吸い上げ、政治家に届ける活動を続けている。
【写真を見る】現在80歳の井脇さん、貧困だった幼少期の頃、水泳で国体の選手になった思い出の写真など
そもそも女性政治家がまだ珍しかった時代、井脇さんはなぜ政治家になったのだろうか。驚くことに、政治家を目指した井脇さんの原点には、実兄が人殺しの嫌疑をかけられた過去があった。家族で闘った苦しい生い立ちを井脇さんに聞いた。【前後編の後編。前編から読む】(取材・文/中野裕子)
電気も水道も通らない…「人殺しの家」と言われて
井脇さんが生まれ育ったのは、大分県・東中浦村梶寄(かじよせ、現・佐伯市鶴見梶寄浦)。大分県南東部の海沿いの小さな村だ。実家は半農半漁で、井脇さんは9人きょうだいの末っ子。電気も水道も通らない貧しい暮らしでも、井脇さんは明るくたくましい子どもだった。しかし、彼女が小学校4年生のとき、1通の電報が人生を一転させた。
「次兄が出稼ぎに出ていた静岡で人を殺したから出頭せよ、という電報だった。両親は腰を抜かしてへたり込んだよ。次兄は他人のケンカの仲裁に入ったんだけど、急所を蹴られて気を失い、何も覚えていない間に死人が出て、疑いがかけられてしまった、ということだった。
私ら家族は、次兄が殺人なんてやるはずがない、と信じていたけど、正直者の次兄は記憶がないのだから『やったか、やってないかわからない』と裁判で言い続けた。ウチは『人殺しの家』と呼ばれ、私は『人殺しの妹』と言われてランドセルをぶつけられたりしたよ」
両親は次兄の無実を勝ち取るために駆けずり回った。姉は結婚話が破談になった。井脇さんは両親と一緒に村を回って裁判費用を借りて回ったが、裁判は5年に及んだ。疲弊しきった両親が幼い井脇さんとともに命を断とうとしたこともあったという。
「私は毎日、登校前と下校後、海に潜ってサザエやテングサを採って生活費を稼いでいたんだけど、追いつかない。こんな苦しいときこそ救ってくれるのが国会議員じゃないのか、なんで助けてくれないのか、と思ったんだよ。だから、私が中学2年のとき、真犯人がその父親に連れられ出頭して次兄が無罪放免になったとき、将来は人のために尽くす立派な国会議員になろう、と決めたんだ」
"苦労してこそ立派な人になる"という父親の教えに従い、井脇さんは中学卒業後、村を出て自活。佐伯市の日本文理大学付属高校に進学した。中学卒業後、岐阜の紡績工場で働く子が村には多かったが、毎日海に潜り水泳が得意になった井脇さんは、水泳の実力で同校に進むことができたのだ。
「でも、家にはお金がないから、生活費も授業料も自分で稼いだ。家を出るとき、両親が持たせてくれたのは布団一式だけ。その布団は今も使っているよ(笑)」
100メートル自由形で国体選手として活躍し、高校卒業後は別府大学に水泳推薦で進学。水泳に打ち込みながらも政治家の夢を持ち続け、拓殖大学大学院で国際政治学を学んでいる途中の1972年、26歳のとき、大分1区から無所属で衆議院選挙に出馬した。
「被選挙権は25歳以上だから、25歳を過ぎてすぐに立候補したわけ。落ちたけど『いつか見とけ』とまた東京へ戻って、大学院修了後、子どもたちを被爆地や沖縄、韓国、中国へ行く船の上で教育する『少年の船』などの活動を始めた。船は借りるにも買うにも、ものすごいお金がかかる。寄付を募ってイチから始めて、結局35年間続けたよ」
結婚を考えた「お相手」との別れ
生涯独身を通した井脇さんだが、結婚を考えたことはなかったのだろうか。
「あるよ。28歳のとき。相手は学生運動を一緒にやっていた人。母に電話で伝えたら、『バカだね。結婚して1人か2人の子どもの母親になるより、教育者としてたくさんの子どもの親になって、立派に育てて世に出すのがおまえの役目だ』と。
相手の男性とは泣く泣く別れた。つらかったね。その人は数年前に亡くなったけど、ずっと同士のような気持ちだったな」
悲しい別れを乗り越え、さらに教育に情熱を傾けた。大手企業のトップに直談判するなどして資金を集め、1985年には学校法人を起ち上げた。政治への挑戦も続け、1972年の最初の挑戦から数えて7度目の2005年、大阪11区(枚方市、交野市)から自由民主党の候補として出馬し、ついに当選した。
「文部科学委員や教育基本法特別委員、議員運営委員とか5つの委員会の委員を兼任し、朝8時から勉強。本会議にはいつも一番に出席していた。金土日は大阪へ入って、市民の声を聞いて高速道路を通したり、市民病院の建て替えに尽力したり。過労で、国会で何回か倒れたこともあった。がんばらしてもらったよ(笑)」
そうして駆け抜けた4年間だったが、2009年の選挙で落選。教育改革をもっと推し進めたかった、というのが心残りだ。
「選挙のとき、宗教団体などが『お手伝いしますよ』と私にも近づいてきた。票を金で買うようなことを言うから、『結構だ』と断った。それで落選しても後悔はないよ。
教育の3本柱は家庭教育、学校教育、社会教育。私が力を入れてきた『少年の船』とか、キリスト教の日曜学校とかは社会教育の一貫だけど、日本には社会教育が足らない。それで社会教育プログラムを考案したから、全国展開するシステムを作りあげるのが夢だった。もう一度議員になれるとしたら、その夢のために尽くしたい。実現は難しいから、本を書いて残そうと思っている」
国会議員になって苦しんでいる人のために尽くす──その人生の目標のために駆け抜けた50年。原点となった冤罪をかぶった次兄は、社会復帰後、地道に働き、数年前に88歳で亡くなった。
その兄も最期まで、井脇さんの奮闘を応援してくれていた。井脇さんは兄の応援を胸に、80歳の市井の人となった今も、多くの人に愛と力と生きる勇気を与えるために、「やる気! 元気! いわき!」でがんばっている。
(了。前編から読む)
取材/文 中野裕子(ジャーナリスト)
