「限界集落」とされる人口309人の広島県竹原市田万里(たまり)町に、年間3万人が訪れるドーナツ専門店とファームステイの宿「田万里家」がある。仕掛けたのは、44歳で広告業界から農業に飛び込んだ、井本喜久さん(50歳)だ。井本さんは田万里家で、何を実現しようとしているのか。ライターの山口ちゆきさんがリポートする――。
撮影=山口ちゆき
田万里について語る井本喜久さん。左手の黒い建物が田万里家 - 撮影=山口ちゆき

■限界集落に突然現れたドーナツ

65歳以上の人が全体の50%を超える集落を「限界集落」と呼ぶ。ジブリ映画の世界のような、穏やかな田園風景が広がる広島県竹原市田万里(たまり)町も、そのひとつだ。かつては山陽道の宿場町として栄え、「田が万ある里」の名の通り稲作が盛んな地域だった。しかし、現在の人口は309人。耕作放棄地が増え、保育所も小学校も今はない。町を貫く国道2号線には1日約2万3000台の車が通るが、ほとんどが止まることなく通り過ぎてしまい、田万里はただの通過地点に過ぎなかった。

その集落の中に、次々と車が入ってくる店が1軒ある。米粉ドーナツを販売するカフェ「田万里家(たまりや)」だ。店の前にある駐車場は、平日も県内外のナンバーの車で埋まる。

2023年2月のオープンから3カ月間、行列が絶えず、売り上げは2000万円に達したという。以来、田万里家には年間3万人が訪れる。

ショーウィンドウに並ぶドーナツの原料は、スタッフが栽培期間中、農薬や化学肥料を使わずに栽培した米だ。すべてのドーナツは卵を使っておらず、一部の商品は乳成分などのアレルゲンや添加物を極力控えて仕上げている。食物アレルギーを持つ人やグルテンフリーの食生活に関心のある人はもちろん、一般の人にも人気があり、閉店時間を待たずに売り切れることも多い。「もっちりとした食感でおいしい」「トッピングがかわいい」と、はるばる遠くからリピーターが訪れる。

田万里家ではドーナツの販売だけではなく、ドーナツ作りのワークショップや、田植え・収穫のイベント、陶芸作家の個展なども開催している。イベントを楽しむために人々はまた田万里へ足を運ぶ。カフェと同じ建物にある農業体験ができる宿「田万里家ファームステイ」には、オープンから2年半で約1500人が宿泊した。

田万里家を立ち上げたのは、華やかな広告業界から44歳で農業に飛び込み田万里に移住した、井本喜久さんだ。

撮影=山口ちゆき
田万里家本店の外観 - 撮影=山口ちゆき

■農大を出て、華やかな広告業界で活躍

井本さんが生まれたのは1974年。父は竹原市の中心部に勤めていたが、週末は故郷である田万里で稲作をしていた。井本さんもしぶしぶ父を手伝っていたものの、心の中では田んぼに行くより野球がしたいと思っていた。稲作で得られる収入を知った井本さんは「こんなに大変な思いをして、それしか稼げないのか」と愕然としたという。

それでも東京農業大学へ進んだのは、塾の先生から言われた「これから人口爆発が起こり、食料危機の時代が来る。そのとき農業をしていれば、ヒーローになれるかもしれない」という言葉に背中を押されたからだ。

上京した井本さんは、華やかな世界に憧れて広告業界でアルバイトを始め、そのまま就職。26歳で結婚したのを機に広島にUターンして起業したが、事業に失敗し、30歳で東京に舞い戻った。そして再び広告業界で、広告プロデュースや中小企業のブランディング支援などに力を注いだ。求められているものを提供すれば成果が出る。家庭のことは妻に任せきりで、仕事に夢中になった。

撮影=山口ちゆき
田万里家の井本喜久さん - 撮影=山口ちゆき

■手掛けたジンジャーシロップがヒット商品に

そのうち、自分自身のブランドを作ってみたいという思いがふつふつと湧いてきた。38歳になった2012年、井本さんは友人のレストランプロデューサーと共に、東京・表参道にフライドポテトとジンジャーエールの店を開く。

井本喜久さんが友人と東京・表参道に開いた「BROOKLYN RIBBON FRIES」 提供=田万里家

「最初の店は屋台でした。文化祭のノリみたいな感覚でしたね。“商品”ではなく“ブランド”を作ることがおもしろくて、どんどんのめり込んでいったんです」

ブランド化を手掛けたのは、ジンジャーシロップだ。店のジンジャーエールの味を家でも手軽に再現できることを全面に打ち出し、ジンジャーシロップの販売に乗り出した。最初にパッケージを含めた商品イメージを作り込んでから、1本およそ2000円と高めの値段を設定し、シロップを製造してくれる会社を探した。そして、1本も売れていない段階から営業担当者を立て、自分たちが積み上げた思いを客に伝えていった。

井本さんの狙いは当たり、このジンジャーシロップは、全国200店舗以上の小売店で販売されるようになり年間3000万円を売り上げるヒット商品となる。後に自社製造に切り替えると原価は6分の1以下になり、利益率は大きく上がった。

■妻のがんをきっかけに農業に関心

しかし、事業を拡大しようとしていた2014年、井本さんの人生は一転する。妻にがんが見つかったのだ。すでにかなり進行していて、余命は1年と告げられた。なんとか妻を治したいと本を読み漁り、片っ端から健康に関する勉強会に参加した末に気づいたのは、食の大切さだった。

さらに同じ頃、ジンジャーシロップ販売のために参加した各地のマルシェイベントで、さまざまな農家に出会った。彼らは作物を作るだけでなく、それを商品に加工して販売する“6次化”を進めていた。たとえば、牛乳をそのまま販売する場合と、ミルクジャムに加工して販売する場合を比べると、売り上げは数十倍になるという。衝撃を受けた。

父が農業で苦労する姿を幼い頃から見ていたため、日本に多い小規模経営の農家は効率化が難しく儲からないと思っていた。しかし、商品イメージを作り込み、ブランドを確立することで利益率を上げることができたジンジャーシロップ販売の成功体験と、目の前の農家の姿が重なった。

「農業って実は、楽しくて健康的で、カッコよくて儲かる仕事なんじゃないか?」

井本さんの興味は、ここから、次世代があこがれるような農業の形を探求することへと急速に傾いていく。日本中の魅力的な農家の話を全国に伝えることも、井本さんのビジネスに加わった。

■「周りに頼る生活」で人生観が変化

妻の病気で、一人で家事や育児に向き合うようになったことも、井本さんの人生観を変えた。

妻に代わって家事に取り組むようになってみると、「やらなければならないこと」は膨大だった。

当時、2人の息子は小学生。学校行事に習い事、友達の親との付き合い、毎日の食事作り、掃除、洗濯……。気が遠くなった。ひとりではとても無理だ。子どもたちの夕食づくりの一部は友人の料理研究家に、掃除は長男に、洗濯は次男に任せることにした。

「俺達の人生は毎日がキャンプなんだ! キャンプだから父ちゃんはメシを作るし、子どもも役割を分担する。それでいいじゃねえか」

子どもたちと家族会議を開き、周囲に頼りながら、一緒に暮らしを楽しむことに気持ちを切り替えた。

「広告業界にいたときの人付き合いの基準は、お金になるかならないか。けれども妻が病気になって、家族とともに、農とともに、生きたいと思うようになりました」

妻は3年間病と闘い、2017年12月、井本さん43歳の誕生日前日に旅立った。

■災害ボランティアで気付いた田万里の魅力

2016年には父が他界して、田万里の田畑と築150年の家を相続した。しかし、東京にいながら管理するのは困難だ。継ぐつもりがまったくなかった井本さんは、自分が戻らなくてもいいように更地にしようとしたが、母に「私の目の黒いうちは、そんなことさせん!」と止められた。

2018年7月、もうひとつの転機が訪れる。田万里を西日本豪雨が襲ったのだ。惨状を聞いて、東京の友人たちとともにボランティアに駆けつけた。祖父母の家や地域のお寺に寝泊まりしながら、田んぼの水路に溜まった泥の掻き出しなどに汗を流した。

「それまで、田万里はいずれ廃れるところだから、放っておけばいいと思っていました。町に残るのは高齢者ばかり。神社の祭りといった行事も廃れていく。未来が見えない町でした。けれども、このとき田万里に初めて2週間も滞在して地域の人と関わったことで、考えが変わりました。採れたての野菜のうまさや人の温かさ、地域の文化、山に抱かれた風景。すべてが、都会の暮らしで疲れた自分の心を癒やしてくれました。相続した土地を残すのなら、地域全体のためになることをやりたいと思うようになったんです」

撮影=山口ちゆき
広島県竹原市田万里町の風景 - 撮影=山口ちゆき

■作って商品化、体験もできる宿を

ここで自分に何ができるだろうか。農業を軸にしたカフェと宿はどうだろう。米と野菜は、農薬や化学肥料をできる限り使わないものを提供しよう。幸い、田万里は交通の便がいい。国道があるし、新幹線の駅まで車で10分、空港までも10分だ。田万里が都会と農村をつなぐ場所になる。

2019年春、田万里に絶景を作りたいと菜の花を植えた。母と笑顔を見せる井本さん(右) 提供=田万里家

水路の修復を手伝った田んぼの持ち主に話をすると「うちの田んぼを貸してやる。やってみろ」。さらに、「米を作るのならぜひうちの休耕田を使ってほしい」という人も現れた。相続した田畑と借りた土地を合わせて2.4ha、東京ドームのおよそ半分の農地が確保できた。

農林水産省が山村活性化対策のための事業を募集していることを知った井本さんは、子どもの頃、田万里の景色を見て「ここが全部花畑だったらキレイだろうなあ」と夢想したことを思い出した。そうだ、花畑を作ろう、多くの人が見に来てくれるように。

仲間とともに構想を練った。ジンジャーシロップの経験やこれまで出会った農家の話から、6次化が鍵だと考えた。作物のまま売るのではなく、加工して販売するのだ。

耕作放棄地の開墾、菜の花や米などの栽培と商品化、農村体験ができる宿。これらを盛り込んだ「田万里『有機あぶらの里』プロジェクト」は見事採用され、3年間、毎年1000万円の交付金を受け取れることになった。

■咲かなかった菜の花、3年間に24種類試作

2019年、井本さんは東京でブランド支援や農に関する事業などを続けながらも、月の半分は田万里に通い、仲間たちと菜の花や大豆、米を育て始める。

「都会と農村には、それぞれの良さがある。2つの拠点を行き来する中で、両方の豊かさに気づきました」

その年の春、田万里は一面の黄色い菜の花で彩られた。

しかし、うまくいったのはこの年だけ。翌年、その次の年と菜の花は咲かなかった。連作障害と悪天候に、栽培技術の未熟さも重なった。わずかに採れた菜種から油を絞ったところで、まったく採算が合わない。

安定して作れて採算が取れ、お客様に受け入れられてブランドとして掲げられる商品は一体何か。豆乳からチーズを作ったり、米粉で揚げパンを作ったりと試行錯誤は続いた。3年間で試作した品は、パンやシフォンケーキなど24種類に上る。

仲間とともに思いつく限りのことを試した3年間の経験を基に、井本さんは勝負に出る。“稼げる農業”の成功事例を作り、田万里に人を集めるのだ。訪れた人に田万里の魅力や農業を十分に体験してもらうためには、宿も必要だった。宿があれば人を呼んで、都会と農村の交流も図れる。ファームステイの構想も固まってきた。

2022年、竹原市と地元の協力で集会所だった建物を借りられることになった。この建物なら、ドーナツの店舗と宿の両方を確保できる。事業は一気に実現に向けて進み始めた。

提供=田万里家
「有機あぶらの里プロジェクト」では大豆も栽培し、豆乳からバターやチーズを作った - 提供=田万里家

■米粉ドーナツに勝負をかけた

試作した24の品の中から、事業の核に選んだのは米粉ドーナツだった。米粉ドーナツならテイクアウトもできるし、何より米どころ田万里をアピールできる。コロナ禍に伸びた飲食業は、パン屋やケーキ屋などテイクアウト中心の業態だった。もしも今後また、社会環境が大きく変わったとしても、生き残っていける業態にしようと考えたのだ。

農薬や化学肥料にできるだけ頼らない栽培をすると、農薬や化学肥料を使ったいわゆる慣行栽培と比べ、採れる米の量は7割ほどになる。初めて本格的に農業に取り組む仲間たちと一緒に、作業中にけがをしたり、鹿に作物を食べられたりしながらの数年間を過ごしたのち、2.4haの田畑では、野菜と年間3トンの米が採れるようになった。

この米を粉にして、ドーナツを作る。宿泊客には自分たちが育てた野菜や米と、農業体験を提供する。帰ってきたくなる田舎の家。田万里家のストーリーは整った。

井本さんは田万里家の事業に集中するため、二拠点生活を辞めて田万里へ完全に移ることにした。東京のマンションを売り、ローンを返済して手元に残った6000万円はすべて、借りた建物のリノベーション費用に充てた。

「借りている建物に6000万円をつぎ込むなんて、今思えば狂気ですよね」と井本さんは振り返る。

自己資金だけで足りない分はクラウドファンディングに頼ったが、終了の1週間前になっても目標の金額に届かない。友人知人の一人ひとりに声をかけ、協力をお願いした。宿泊のリターン(返礼品)付きの寄付に加え、リターンなしの寄付もどんどん集まって654万円になった。友人たちの応援が、心にしみた。

撮影=山口ちゆき
祖父母から受け継いだ畑で、宿で提供する野菜を栽培している。夏はピーマン、トマト、青ナス、かぼちゃなど10種類ほど - 撮影=山口ちゆき

■前代未聞の大行列が生まれた

オープンの準備を進めている間、井本さんは地元の人たちの理解を得るため、約150世帯に毎月手紙を送り、自分たちが何をしようとしているのかを伝え続けた。

ショーケースにならぶ米粉ドーナツ 撮影=山口ちゆき

70代が「若者」と呼ばれる農村では、東京から来た井本さんたちの挑戦を冷ややかに見る人もいたが、次第に応援してくれる人が増えていく。スーパーもない田万里で「家の近くでおやつを買えるようになる」と、喜ぶ人も多かった。

周辺地域の3万世帯には折り込みチラシとポスティングでアピールし、SNSでも情報を発信した。

2023年2月の開店初日。のどかな田万里に前代未聞の大行列ができた。

その多くは、チラシやSNSを見て訪れた近隣都市の人たち。駐車場に入れない車が路上に列を作っている様子が、国道からもはっきり見えた。フル回転で対応したものの、用意したドーナツはわずか1時間で売り切れた。その日は400人に頭を下げ、帰ってもらったという。

噂は噂を呼ぶ。地元のテレビや新聞で紹介された影響で、また行列ができる。行列がようやく落ち着いたのは、開店から3カ月ほど経った頃だ。

撮影=山口ちゆき
田万里家店内の販売カウンター - 撮影=山口ちゆき

■もう素通りはされない

行列こそ落ち着いた現在でも、井本さんの想定通り、ドーナツを求める客の9割はテイクアウト利用だ。カフェを利用する客は1割ほど。回転率が高く、利益率の高さにつながっている。

宿は、クラウドファンディングの支援者で1年間予約が埋まった。その後も国内外から宿泊客が訪れ、企業の研修にも使われる。10回訪れた人は「田万里家で過ごすと心がリセットされる」と言った。7月の田万里は、虫やカエルが飛び跳ね、鳥たちの声が聞こえる、懐かしさをおぼえる場所だった。

田万里家ができた今、田万里はもう、素通りされる町ではなくなった。

提供=田万里家
田万里家のスタッフと井本さん(右端) - 提供=田万里家

■「大きくなったら田万里家で働きたい」

田万里家本店の売り上げは、現在、月に約350万円。2025年4月に広島駅にオープンした2号店も好調で、本店と同等の売り上げを出している。月替りの限定商品やかき氷など新しい味が次々と出るため、リピーターも多い。広島空港や、広島市内各地のポップアップストア展開、冷凍ドーナツの通販など、事業は拡大中だ。

ファームステイでの農業体験 提供=田万里家

「まだ田万里を大きく変えるところまではできていない。耕作放棄地は残っているし、人口が大幅に増えたわけでもない。けれども、田万里を知ってもらい、田万里を少し元気にするお手伝いはできているのでは」と井本さんは語る。

そして、嬉しそうに続けた。

「田万里の小学生に『大きくなったら田万里家で働きたい』って言われたんですよ」

田万里家のスタッフの参加で、田万里の祭りが賑やかになったと、地元の人は教えてくれた。自治会にも積極的に参加する井本さんを、頼りにする人も増えているそうだ。

かつて「農業をしていればヒーローになれるかも」という言葉に夢を抱いた少年は今、子どもたちのヒーローになった。そして、田万里家モデルを全国に展開するという次の夢に向かっている。

「農業はおもしろくて、稼げる仕事です。いえ、世界を農でオモシロくしたいんですよ」

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山口 ちゆき(やまぐち・ちゆき)
ライター
山口県出身。広島県在住。筑波大学・筑波大学大学院で生物学を学んだ後、農業系法人の研究開発職、塾講師、大学職員などを経て、2018年からライターとして活動。地域の魅力と課題を伝え、地域で活躍する人の想いを届ける記事を目指している。
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(ライター 山口 ちゆき)