【Mr.tsubaking】順風満帆の時期に「事務所を退社」4年半の「不妊治療」…「メガネっ娘アイドル」歴20年を迎える時東ぁみの《現在地》
芸能界で活躍する人々は、それぞれがウリにする個性を持っている。そんな世界において、唯一無二のキャラクターで一世を風靡したタレントがいる。2005年に「ミスマガジン」のオーディションで「つんく♂賞」を受賞しデビューを飾り、メガネキャラで大ブレイクした時東ぁみだ。
来年で「メガネっ娘アイドル」歴20年を迎える時東に、紆余曲折あった芸能人生を振り返ってもらった。
メガネと関係ないオファーから芸能界入り
――芸能界に入ったきっかけから教えてください。
時東ぁみ(以下、同):高校時代、読者モデルとして活動していた親友が、あるグラビア事務所から「胸が大きくて背の小さい子いない?」と話しが来たそうなんですね。それで、私を紹介してくれたんです。なので、最初はメガネは全然関係ない(笑)。紹介してもらった事務所でミスマガジンのオーディションを受けて、「つんく♂賞」をいただいたのがデビューのきっかけです。
――「メガネっ娘アイドル」はどのようにして誕生したのでしょう?
私が通っていた学校は、当時、偏差値の高い学校ではなかったんです(笑)。そこで、『伊達メガネをかけたら、頭良く見えるんだけど〜!』みたいなノリで普通にかけていました。
――芸能界でのキャラではなく、日常でもメガネをかけていたんですね。
そうなんです。学校から直接オーディション会場に行くような生活だったので、制服もメガネもそのままという感じです。ミスマガジンのときは最終オーディションで初めて、つんく♂さんと対面したのですが、そこでメガネをつけた状態と外した状態の両方で歌うように言われて、合格しました。
――当時の鮮烈デビューは記憶に残っています。とても忙しかったのではないでしょうか?
最初の5年間くらいは、ところどころ記憶が抜け落ちているくらい忙しかったです(笑)。
――その頃、忙しすぎてきつかったと感じたエピソードはありますか?
今となっては絶対にダメなことですが、ひとつのミュージックビデオを作るのに、26時間ぶっ通しの撮影をしたことがあります。スタッフさんが立ったまま眠っているし、私も意識が半分くらいになってフワフワしていました(笑)。
正直、メガネは邪魔な時もありました
――それだけ「メガネっ娘アイドル」の需要は高かったということですね。
正直に言うと、グラビアをやっているときはメガネが邪魔な時もありました。ベッドにゴロゴロするシーンがあるとズレてしまうし、フレームと黒目が重なるとNGになっちゃう。Tシャツを脱ぐような動作の撮影もグラビアではよくありますが、本当にめちゃくちゃ邪魔です(笑)。グラビアの醍醐味の場面で、メガネが邪魔になることが多かったですね。メガネをかけたままシャワーを浴びたりだとか(笑)。
――本来、メガネを外してやる動作ばかりです(笑)。
他には、メガネブランドさんからCM契約のお話がたくさんきていたのですが、悔しい思いをしながらお断りさせていただいたこともありました。
――どういうことですか?
当時はグラビアもかなりの数をやっていたので、メガネの個数が必要になります。さらに、ハート形や星型のフレームが必要になることもあって、特定のブランドだけでは足りない。どこのブランドのどんなメガネでもかけられるようにしていたので、契約するとそのブランド以外のメガネが使えなくなる。だから、広告関連の仕事はお断りせざるを得なかったんです。
順風満帆の時期に事務所を辞めたワケ
――CM出演は幻に終わりましたが、メガネ=時東さんのイメージが定着していたエピソードだと感じます。
でも、デビューから5年くらい経って振り返ったときに、「良くも悪くも大人の期待通り仕事をやってきたな」といった葛藤が芽生え始め、「自分がやりたいと思った仕事もやってみたい」と考えるようになりました。そこで、「今のレギュラーの仕事を置いていく覚悟で事務所を離れたい」と申し出ました。止められはしましたが、最終的には私の考えを理解してくださり、円満に退社しました。
――勇気のある決断だと感じます。次の事務所は決まっていたんですか?
いえ、決まっていません。サンミュージックともう一社がいいなと思いながら、フリーとして1週間ほど過ごしただけで、スケジュールがぐちゃぐちゃになって手に負えなくなってしまったんですよ(笑)。
――それまで、マネジメント経験は?
ないです(笑)。なので、管理がうまくいかなかったのと、フリーになったことを周りにポロっと言っちゃったせいで、たくさん仕事の依頼がきたんです。それまで自分のギャラなんて知りませんでしたし、自分で仕事を受けたことも、クライアントと連絡を取ったこともなく、どうしていいかわならずぐちゃぐちゃになりました。ギャラの交渉もできないので大混乱でした。
――その状況からどうやって脱却したのですか?
次に入りたいと思って連絡をしていた、今の事務所のマネージャーから「契約はまだですが、僕がみます」と言われ、契約を結ぶ前からその方にマネジメントしてもらって。かなり危ういことをやっていたんだな、と今は思います(笑)。
落ち込んだ時代にかけてもらった「恩師」からの助言
――ほんの一瞬のフリー時代も仕事がたくさんくるという状況で、事務所を辞めた後も芸能活動自体は順調だったんですね。
仕事に関してはそうかもしれません。ただ、心の部分では必ずしも順調だったとは言えませんでした。実は、芸能界に入る前は体の不自由な方やお年寄りにスポーツを教える人になりたいと思っていて、体育大学に進む予定でした。でも、受験直前にミスマガジンに合格して、「体育大学との両立は体が持たなくなるからやめてくれ」と事務所からNGを食らったんです。
芸能活動を始めたら、確かに体育大学との両立なんてできないスケジュールだったので、選択が間違っていたとは思いません。でも、やりたいことを残したままだったので、落ち込んだ気持ちになることも頻繁にありました。
――その気持ちをどのようにして乗り越えたのでしょう?
私の落ち込んだ姿を見たつんく♂さんが、「人助けをしたいなら、防災士っていう資格があるよ」と教えてくれたんです。それで、2007年に防災士の試験にチャレンジして合格しました。
――精神的に苦しい時期に手を差し伸べてくれたのは、時東さんの「生みの親」だったわけですか。
当時もそうですし、20年近く経った今、その防災士が仕事の中心になっているので、つんく♂さんには本当に感謝しています。先週(取材時点)まで、日曜日は4週連続で防災関連の仕事で、すべて地方に行っていました。防災士としてのラジオ2本や配信もやっていますし、消防に特化した雑誌でインタビュアーも受けています。防災に特化したオンラインサロンも行っていて、防災と本気で向き合っている最中です。
4年半に及んだ不妊治療の経験
――一方、プライベートでは29歳のとき(2016年)に結婚され、2022年には第一子となる男の子を出産されました。長い不妊治療も経験されたと聞いています。
結婚を機に妊活をはじめました。半年間、タイミング法を続けましたが妊娠せず、そこから不妊治療が4年半続きました。
――一般的に不妊治療は辛いと聞きますが、時東さんはどうでしたか?
実は、私にとって不妊治療は辛くなかったんです。「旦那さんにタバコをやめてもらってくださいって、病院で言われたんだけど」と、旦那に話をすると「あ、わかった〜」とストレスも見せずやってくれたりしたので、彼には感謝しています。周りのサポートがあったので、辛さを感じたかったのだと思います。
――旦那さんも協力的だったのですね。不妊治療は孤独感もあるとよく言われますがその点はいかがでしょう?
周囲に言えずに隠す方が多いようですね。私は、マネージャーをはじめ仕事関係の方や友人に「なかなか子どもができないんだよ〜」と話していたので、孤独さを感じたことはありませんでした。不妊治療は決して恥ずかしいことではないので、今、不妊治療していて隠している方も、可能なら周囲に話した方が楽になることもあるよ、とは伝えたいです。
――それでも、治療が4年半も実を結ばないのはやっぱり辛いのでは?と思ってしまいます。
人工授精を6回やっても(子どもが)できなくて、(次の段階である)顕微授精にチャレンジしたんです。そのときに色々調べてみたら、あるべき成功率や卵の数に私が当てはまらなかったことが分かったんです。そこで、「自分自身をもう一度見直さないといけないな」と思い「まずきちんと体を整えてみよう」と、トレーニングや骨盤矯正を始めたんです。
そして、改めて顕微授精をしてみると、最初のときより年齢を重ねているのに卵の数が増えていたり、受精卵の育ち方がよくなっていました。そうやって、結果が目に見えるようになってから、むしろ楽しくなったんですよ。
――時東さんの「ポジティブな妊活」は、今困っている女性たちの救いになりそうです。
実は今、4年半の経験を伝えていく活動を始めたんですよ。今後は、これまでよりもさらに「人のためになる仕事をしたい」と考えています。
後編記事では、20年の間で時東が感じたメガネに対する社会の変化の意識と、時東が考える「人のためになる仕事」について語ってもらう。
(取材・文/Mr.tsubaking)