シリーズ第8回は江本孟紀氏にインタビュー(時事通信フォト)

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 シーズン401奪三振、両リーグでのMVP獲得などの大記録を残し、「プロ野球史上最高の左腕」と評される江夏豊氏。その江夏氏が78歳の誕生日を迎えた5月15日、『江夏の遺言』(江夏豊・松永多佳倫の共著、小学館刊)を上梓し、刊行から半月で重版が決定するなど話題を呼んでいる。同書では「オールスター9連続奪三振」「江夏の21球」など、球史に残る名場面を振り返ったほか、各球団での衝突と軋轢の真相、さらには引退後に起こした「過ち」からの再起の日々が赤裸々に明かされた。

【写真を見る】1981年、当時は珍しく長身ピッチャー(188cm)だった江本孟紀氏

「球界のヒール役」として鮮烈な印象を残した名投手を、同時代に活躍した選手たちはどう見ていたのか。

 シリーズ第8回は、当時は珍しい長身ピッチャー(188センチ)として南海、阪神で活躍した江本孟紀氏(78)。法政大学では田淵幸一の1学年下で活躍するも監督に反発してベンチ入りから外れる。社会人の熊谷組を経て1971年にドラフト外で東映に入団した。わずか1年で南海にトレードされるも、捕手兼監督の野村克也氏との出会いで才能が開花し、4年連続(1972〜1975年)で2ケタ勝利を挙げる中心投手に成長した。

 転機が訪れたのは1975年のオフ。南海が江夏氏を阪神から獲得するにあたり、江本氏はトレード要員として阪神に移籍する。まさにエース同士のトレードだった。

 引退後は"辛口解説者"として人気を博し、政界に転じて参議院議員を2期務めた江本氏が、プロ野球選手人生の"因縁の相手"となった江夏氏を語る。(文/松永多佳倫 文中敬称略)

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 江夏評を訊ねると、早速"エモやん節"が飛び出した。

「あの時代のスーパースター特有の性格なんですが、江夏は周囲の選手を"下"に見るという特徴がありましたね(苦笑)」

 別に江夏を貶めているわけではない。"昭和のスター選手はそういうものだ"、あるいは"そうあるべきものだった"という江本流の表現である。

 江夏はしばしば「プロ入りが先の者がこの世界では上だから、俺より後に入ってきた選手は年上であっても呼び捨てにしていた。昔はそういうしきたりだった」と語っているが、その真偽を江本に訊いてみた。

「そんなこと、江夏しか言ってませんよ。あり得ない(苦笑)。そういうところに"俺が一番だ"っていう意識が表れるんだよね。大学出に対するコンプレックスみたいなものもあったと思う。まぁ、ノムさん(野村克也)ほどではなかったけどね(笑)。

 とにかく"先にプロで実績を残している俺が上だ"という意識だったんでしょう。江夏だけでしたよ。ひとつ、ふたつ年上の選手を呼び捨てにするのは」

 江夏と筆者の共著『江夏の遺言』で詳しく触れているが、高校3年生の江夏は阪神に入団するつもりはなく、「俺は東海大学に行くことが決まっていた」と振り返っている。そのエピソードを江本に伝えると、"待ってました"と言わんばかりに笑みを含みながら語る。

「高卒ルーキーの連中はみんな言うんですよ。『俺は本当はどこどこ大学に決まってた』とか、『誘われたけど断った』って(笑)。別に大卒選手への悪意や僻みじゃなくて、虚勢を張るっていう感じでね。"入団までの経歴なんてどうでもいい、野球の実力は俺が一番だ"っていう雰囲気を出そうとするのは仕方ないですよ」

 虚勢を張るのもスターの役割、ということだろう。

「スター選手になると、やっぱり扱いが違うじゃないですか。高校を卒業したての18歳とか19歳でたくさんのカネをもらって、周りもヨイショしてくれる。そりゃ、調子に乗るのが当然でしょう。むしろ"俺なんてまだまだ……"と謙虚になってしまう奴はスターになれないし、すぐ潰れてしまいます」

 魑魅魍魎が蠢く昭和のプロ野球界を生き抜くだけでも大変なのに、そこでスターになるためには並の神経ではもたない。特に江本や江夏ら団塊世代は、"出る杭"にならなければ埋もれていくという危機感が常にあったという。

先発として3イニングを投げ合ったオールスターゲーム

「南海・江本」と「阪神・江夏」が両先発として投げ合った貴重な試合がある。1974年のオールスターゲームの第2戦だ。

「江夏は3イニングをパーフェクト。私も無失点だったけど被安打は2つ。しかもそのうちの1本は江夏に打たれました」

 舞台となった西宮球場は、江夏にとって1971年オールスターで9連続奪三振を記録した験のいい球場。江本と江夏の"直接対決"は江夏に軍配が上がった。

 ちなみにオープン戦でも一度だけ"直接対決"があったという。

「当時、3月最終週のオープン戦は"阪神南海定期戦"が組まれていて、甲子園で投げ合いました。まだパ・リーグに指名打者がない時代だったので(採用は1975年から)、私もバッターとして打席に立ちました。

 ボールが速くて見えなかったですね。外角の低めの真っ直ぐでいつでもストライクを取れるピッチャーだった。当時のパ・リーグにも名だたる投手がいたけれど、私が対戦した中では一番球が速かった」

 1975年シーズン後のトレードで江本は阪神に移籍し、江夏は南海に入団した。新チームでの初年度となる1976年の成績は、江本が15勝9敗、江夏が6勝12敗9セーブ。こちらは「阪神・江本」の"圧勝"だった。

「なんで江夏がダメだったかっていうと、クセが読まれやすかったから。パ・リーグはそういうクセをもとに江夏の球種を見抜いていましたね。

 だからノムさんが『ボール(の握り)が見えてるから、セット(ポジション)で投げろ』とか、『パ・リーグではクセを読まれるぞ』って、ずいぶん注意していたんです。でも、プライドの固まりのような江夏は、おいそれと言うことを聞かない。

 それでも江夏はクセを読まれてもそれを上回る力があって、リリーフ転向してからもその力を注ぎ込んだわけですよね。むしろ相手が読んでいることを逆手にとって崩していたこともあった。広島に移籍してからの『江夏の21球』(1979年日本シリーズの第7戦)を映像で確認すると、江夏の投げ方は全部同じタイミングです。キャッチャーからボールもらってセットポジションに入ったら、"1、2、3"、"1、2、3"って投げるんですよ。そんな単調な投げ方でも打たれない。江夏豊という名前と、圧倒的な技術でバッターをねじ伏せたんでしょうね」

 マウンドさばきを含め一定のリズムで投げるのが江夏のスタイル。打者をそのリズムに引き込むことで、タイミングを狂わせる。対戦の主導権は江夏が握る。それは一流ピッチャーだけが持っている"極意"だったのだろう。

「陰で練習していた? そんなの後付けの話だよ」

「先発だけでもあれだけの成績を残したのは、江夏が天才だから。練習をロクにしなくたって、凄い球を投げられる。そういう選手が稀に現れるんですよね」

『江夏の遺言』で本人は、〈俺は堂々と「練習は嫌いだ」と公言していた。練習をやらないわけではない。"練習は人前でするもんじゃない"という意味だ。(中略)その代わり、誰も見ていない場所では練習していた〉と語っている。そう説明すると、江本は呆れ口調で一笑に付した。

「陰で練習したとかいうのは後付けの話だよ(笑)。陰でやっていたのは麻雀ばかりだったんだから(笑)」

"発明王"トーマス・エジソンは「天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの努力」と言った。この名言の解釈には諸説あるようだが、江本の目に江夏は「ひらめきだけで投げている天才」に映っていた。

 そんな天才は往々にして、常識外れの行動をしても、傲岸不遜な言動をしても、"江夏だから仕方ない"許されてしまう。「周囲の選手を"下"に見る」という江本の江夏評には、やはり畏怖の念が多分に含まれているのだろう。

【第9回】へ続く

〈プロフィール/松永多佳倫(まつなが・たかりん)〉
1968年生まれ。琉球大学卒業。出版社勤務を経て沖縄移住後、ノンフィクションライターに。プロ野球界の重鎮のインタビューをはじめ、スポーツ取材に定評がある。『怪物 江川卓伝』(集英社)、『92歳、広岡達朗の正体』(扶桑社)、『沖縄を変えた男 栽弘義』(集英社文庫)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『最後の黄金世代 遠藤保仁』(KADOKAWA)など著作多数。5月15日に江夏氏との共著『江夏の遺言』(小学館)を刊行した。