【林 壮一】「予想勝率は井上51%、中谷49%」…5月2日の日本人頂上決戦で、中谷潤人が大波乱を起こす納得の理由
中谷潤人のキャリアのなかで最も複雑な試合
5月2日の日本人頂上決戦が迫ってきた。WBA/WBC/IBF/WBO統一スーパーバンタム級チャンピオン、“モンスター”井上尚弥に挑む中谷潤人。挑戦者のチーフセコンドであるルディ・エルナンデスも、万全を期して5万5000人が待つ東京ドームのリングに上がる。
その、エルナンデスに胸の内を聞いた。
「ずっと言ってきたが、ナオヤ・イノウエという選手は日本ボクシング史上、最高のファイターだ。今日のボクシング界でパウンド・フォー・パウンド・ナンバーワンは彼だよ。そのイノウエを超えるために、ジュントは厳しいトレーニングを積んできた。
コーチの仕事は、選手をベストな状態で当日のリングに上げてやること。そして勝たせることだ。精神的にも肉体的にも整えるという作業は決して容易ではない。イノウエ戦はジュントのキャリアのなかで最も複雑で、これまでとは違う難しい試合だ。とはいえ、私は前回の試合も、その前の試合も、同じように捉えてきた。どんな試合だろうと、簡単に勝てるなんて露ほども思わない。常に『いかに圧倒すべきなのか』『どうすれば勝利できるか』を熟考している。その折、『100%勝てる』なんて思わないことが重要だ。困難な瞬間も想定しているからな。苦しい局面が訪れた際、自信過剰になっていると思考が止まってしまう。だからこそ、最悪な展開をイメージして備えておくべきなんだ」
3月18日から4月17日までの1ヵ月間、中谷はこれまでと同じように、LAでキャンプを張った。プロボクサーとして嶺を目指して単身渡米してから、エルナンデスの教えを受けている。師は愛弟子の歩みついて、こう話した。
「ジュントは3階級で世界タイトルを獲得した。そして今回、秀英なチャンピオンに挑む。一人の少年が成長している物語は、まだまだ進行中だ。だから、私たちは過去を語るべきではない。道半ば、作業の過程にあるのだから。ジュントが引退したら、良いこと、素晴らしいことについて言葉を交わそう。でも今はまだ、その時期じゃない。ストーリーは執筆途中で、章が残っている。だから、これまでを振り返る余裕などない。
ただ、これだけは言える。我がチームはゆっくりと、正しい方向に進んでいる。毎日ジュントを指導し、前進している。おそらく、試合当日は満足できるだろう。が、今は違う。なぜなら、我々は相応しいタイミングで、特定のことをある方法で行わなければならない。ジュントは、そのための準備をしているんだ」
井上尚弥に勝つために必要不可欠なもの
―――特定のことを、ある方法とは?
「イノウエのパンチを躱す、あるいは殺す。そして、こちらのパンチをヒットする。言葉にするのは容易いが、繊細な動き、駆け引きが必要になる。今回のキャンプでもジュントは非常に良いコンディションを作りながら、課題をこなした。だとしても、“やり過ぎ”“もう十分だ”と私は考えない。
イノウエがどう出て来て、ジュントがいかに動くか。闘いの中で、私たちコーナーがジュントの力を最大限に発揮させてやれるかどうか、そんな作業になる。イノウエに勝つためには、ディフェンスの強化が不可欠だと感じ、それに費やす時間を多く割いた」
エルナンデスは人差し指で、何度かこめかみを叩きながら述べた。
「コーチとして忘れちゃならない事がある。選手は一人一人特徴が違うし、個人差もある。だから、『このやり方ならいつだって上手くいく』なんて考えるのは間違い。いくつもの選択肢を持つべきだ。プラス、私は変化を加えたい。そのためにトライさせる。上手くいくか、あるいは上手くいかないかを見詰め、選手に問い掛ける。そして別の策もやらせてみて、できるか、できないかを鑑みる。さらにチョイスを繰り返す。ジュントは最強のボクサーになるためにトレーニングしているからね。
イノウエの足の運び、パンチ、視線、タイミングなど、実際に試合が始まってみて、ジュントが何を感じ、次の瞬間どう狙いを定めるか。あるいは、イノウエが足を使って打ち合わないとしたら、いかに対応するか。当日、何が起こるかは誰にも分からない。だからこそ、ベスト・ジュントを築くんだ。ゴングに向けて最大の努力をする。他はどうでもいい。私は今、ジュントのことだけを考えている。
イノウエもプランを持っている。彼は、状況を見極める能力が高い。我々も相手を観察するが、あちらもジュントを理解しようとする筈だ。序盤の攻防は互角となるだろう。どちらが先にヒットするかがカギになる。言うまでもなく、これは日本ボクシング史上最大の試合だ」
異国で成長してきた逆輸入ボクサー・中谷潤人の歩み
2025年3月末日に中谷が井上尚弥から対戦オファーを受け、2人の対戦が実現に向けて動き出していた昨年9月、エルナンデスは、井上の勝率が51%、中谷は49%と話した。今の時点で、その数字はどう変化したかと訊ねると、メキシコ系アメリカンのトレーナーはニヤリとして応じた。
「変わらないね。イノウエが51%、ジュントは49%。イノウエの方が掛け率で上なのは分かっている。彼はとても偉大なチャンピオンだ。でも、我々は逆境を覆すために仕事を重ねてきた。パウンド・フォー・パウンドを倒したい。彼を下せば、あのポジションを奪える。そう、すべてが変わる。これは大きなことだ。私たちは、勝利への強い意志を持ってこの試合に臨むよ」
「49パーセントの勝率」と口にするものの、エルナンデスの顔には自信が覗く。それ以上に、中谷は己の勝利を確信している。練習中はこれまでと同じように一瞬も集中力を切らさずにメニューをこなし、リングを降りると朗らかな表情になる。ジムメイトであるWBOフライ級王者のアンソニー・オラスクアガや、実弟でマネージャーを務める龍人らと談笑し、平静を保っている。大一番ではあるが、自然体で東京ドームに登場しそうだ。
そんな愛弟子を、エルナンデスは評する。
「年を重ねるに連れ、ジュントは物事を違った角度から見るようになった。人というのは、18歳、21歳、24歳と考えが変わる。当然のことだし、ずっと同じ思考というのはあり得ない。28歳になったジュントは、ファイターとして成熟しつつある。だからこそ、勝利へ計画を練ることができるのさ。我々の想いは現実のものとなろうとしている」
剃髪した頭を少し撫でた後、トレーナーは早口で語った。
「我々は特別なファイターであるイノウエに対し、どう闘って勝つのか。彼の攻撃に反応して、いかにパンチを入れるか。つまり、ペースを握る必要がある。イノウエのことを『顎が弱いから、倒れた』なんて主張する人間もいるが、私はそうは感じない。ダウンを喫しても起き上がって試合をひっくり返す男だ。彼だから成し遂げられたキャリアだ。実に素晴らしいチャンピオンだ。
そんな彼から白星を挙げるのに、まず対策したのがディフェンス。もらわずに打つ。そこはジュントも理解しているよ」
エルナンデスは、「5月2日は、ビッグ・サプライズを起こそう」と、中谷に繰り返している。自分たちが不利だという予測を耳にするが故の発言だ。
「サプライズを起こす」ためのトレーニングは、今回も高い質、かつ量だった。エルナンデスはキャンプ中、月、水、金、土をスパーリングの日とし、計192ラウンドをこなさせた。このうち、世界タイトルマッチと同じ12ラウンドを、9回組んだ。しかも、「自分からは仕掛けずに、ディフェンス主体で」「頭の位置を考えろ」「重心を意識して」等、各ラウンドにテーマを作った。
「イノウエ勝利の予想を立てている人が多い。誰にだって個人的な見解があるのだから、色々な意見があるのは当然だし、自由だ。私に意見があるように、何人(なんぴと)にも考えがある。私たちが勝てば大きなサプライズになるだろう」
井上尚弥は挑戦者と自分を比較し「やってきたことが違う。格の違いを見せる」と発言した。一方の中谷にも、15歳からボクシングの本場で研鑽を積んできた自負がある。
中谷はエルナンデスが生まれ育った地にホームステイしながら、アメリカ社会に飛び込んだ。エルナンデス家の目の前にある公園では、2002年4月に10歳の少年がギャングによって銃殺され、40歳の男性も重傷を負う事件が発生している。同じ頃、18歳のギャングメンバーが8歳の少年を撃ち殺してもいる。15年が経過し、多少治安が良くなったかと思われた2017年5月にも、複数の銃弾を浴びた20代前半と思われる遺体が同公園で発見された。今月頭には、ギャングの抗争で2名が銃弾に倒れている。
中谷はそんな環境に身を置きながら、強いボクサーになることだけを目標とし、邁進してきたのだ。
中谷が井上戦に向けたLA合宿を終えた4月17日の14時過ぎ、キャンプの活動拠点となったジムから徒歩1分の場所、サードストリートは通行止めとなった。横転した車が道を塞いでいたからだ。日本では、滅多にお目にかかれない光景だ。
この辺りは「スキッド・ロウ」と呼ばれ、夥しい数の路上生活者が何とか命を繋いでいる。薬物に溺れている者、精神に異常をきたしている者の共通語は貧困と犯罪だ。筆者が事故現場を通りかかった折、逆さまになった車のワイパーが動いていた。現場に佇む背の高い中年男性の口から、ドラッグという言葉が漏れた。
異国で成長してきた逆輸入ボクサーと、モンスターの歩みは確かに異なる。その差を見せつけるのは、どちらか。
ボクシング世界3階級制覇王者・中谷潤人――。本人はじめ家族、日米の多数関係者に取材を重ね、その強さの源泉に迫る渾身ノンフィクションはこちら。
