多部未華子

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脚本家が共通

 朝ドラことNHK連続テレビ小説「風、薫る」で、主人公の1人である一ノ瀬りん(見上愛)の父親・信右衛門(北村一輝)はコレラに罹って他界した。りんともう1人の主人公・大家直美(上坂樹里)を看護婦に導く大山捨松(多部未華子)と信右衛門は出会えなかった。だが、捨松と信右衛門はくしき縁で結ばれている。【高堀冬彦/放送コラムニスト、ジャーナリスト】

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 栃木県那須地方を舞台の一部とする「風、薫る」と福島県会津地方で物語の前半が展開した大河ドラマ「八重の桜」(2013年)。2つのドラマには重なり合う部分がある。まず、どちらにも大山捨松が登場する。朝ドラでは多部未華子が演じ、大河では水原希子が扮した。

多部未華子

 捨松は幼少期の試練を乗り越え、常にノブレスオブリージュ(高い地位には義務が伴う)を体現しようとした極めつけの偉人。日本の看護教育史、高等教育史、社会貢献史を語るとき、その存在は欠かせないから、看護教育を描く「風、薫る」からは絶対に外せない。教育が大きな題材だった「八重の桜」は捨松を抜きにして描けなかった。

 違う作品に同一人物が登場すると、人格やイメージに差異が生じる恐れがある。だが、今回はその心配がない。「風、薫る」の脚本を書いている吉澤智子氏は「八重の桜」の脚本の一部も書いていたからだ。捨松の人格や偉業は知り尽くしているに違いない。

「風、薫る」は物語の冒頭から那須と会津が関わり合っていた。信右衛門が家老を務めていた藩のモデルは那須の黒羽藩。同藩は外様の小さな藩ながら、徳川家の信頼は厚く、幕府に要職も出していた。

 だが、1867(慶応3)年に大政奉還がある。世の中がひっくり返った。1年後の68(同4)年1月には戊辰戦争が起き、それが同4月に会津戦争に進展すると、黒羽藩は激しく動揺する。

 会津藩主・徳川容保は、新選組を擁したことで知られる元京都守護職で、幕府の中心人物だったからだ。しかも会津藩と黒羽藩はほぼ隣接しており、親藩の間柄だった。狼狽したのも無理はない。

 黒羽藩は戊辰戦争の序盤では旧幕府軍に属していたが、途中で新政府軍に転じる。会津戦争にも新政府軍として参加した。藩の民を守るためだった。

 ただし、変節の責任を取り、上級藩士が何人か切腹している。今回の物語の中では藩主が腹を切ったことになっているが、実際には銃で自死したと伝えられている。藩主は「兄弟と思う会津藩を攻撃するのは忍びない」と言い残したという。

 信右衛門はりんに対し、第3回(1日)でこう言った。

「わが藩は新政府軍に属すると殿がご決断された。お陰で戦火を免れた。その一方で殿は徳川様のご恩を裏切る自分がどうしても許せないと腹を召された」

 ほぼ史実である。信右衛門は切腹こそしなかったが、1868(明治元)年の明治期を待たずに武士を捨てた。土を耕して暮らすことにした。

 会津戦争で多くの血が流れたことも影響したのだろう。会津藩の死者は男性2390人以上、女性201人以上。新政府軍からも180人の死傷者が出た。

8歳で戦った捨松

 会津戦争時の捨松はまだ8歳だったが、戦いに加わっている。容保の居城・鶴ヶ城で約1か月行われた籠城戦に参戦した。家老・山川家の娘として、逃げ惑うわけにはいかなかった。この物語では籠城戦が捨松の追想として第15回(17日)に放送された。

 捨松の役割は城に飛び込んできた砲弾に濡れた布団を持って飛びつき、火を消すこと。「焼玉押さえ」と呼ばれた。抱きついた直後に爆発する砲弾もあり、危険極まりなかった。

 なぜ、子供までが戦ったのか。当時の会津藩の教育水準は高く、特に公共心や道徳心を徹底的に教えた。卑怯な言動や弱い者いじめなどを厳に禁じる「什の掟」もあった。子供であろうが、逃げ隠れするのは卑怯だと思ったのではないか。

 捨松の長兄でのちに東京高等師範学校(現・筑波大)校長になる山川浩の妻・トセも捨松と同じ焼玉押さえを担った。しかしトセの抱きついた砲弾は爆発。亡くなってしまう。まだ19歳だった。

 捨松の次兄・健次郎は、19人の少年が自決した白虎隊に参加した。自決した部隊とは別だったが、刀を持って戦った。健次郎はのちに東京帝大の総長になる。兄弟で日本の高等教育を背負った。そもそも会津藩は教育熱心だったが、山川家には「学問は決して裏切らない」という家訓があった。

 会津藩の悲劇は敗戦後も続く。新政府軍は遺体の埋葬を許さず、放置させた。信右衛門は会津藩への仕打ちに憤るような言葉も口にしている。

「誰かが負けた者、弱った者の側に立ち、手を差し出せる世にならないと、淋しい。淋しすぎる」(第3回)

 元家臣の中村が信右衛門をずっと敬い続けたのも分かる。

 捨松は1871年から米国に官費留学する。期間は10年だった。このとき捨松は12歳。それまでの名前は「さき」だったが、母親・えんが「捨松」と改名する。留学期間が長期だったので、えんは「捨てたつもり」と考えた。一方で「学問を修めて帰る日を待つ」という思いも込められていた。

 留学させたのは官庁の1つだった北海道開拓使。定員は女子5人。競争率は1倍だった。希望者がほかにいなかったのだ。留学というものがそれまで存在しなかったし、期間があまりにも長すぎた。

 5人のうち1人は津田梅子。のちに津田塾大を創立し、女子高等教育の先駆者となる。留学時は8歳だった。もう1人は帰国後に東京音楽学校(現・東京芸術大)教授などを務め、日本に音楽教育を根付かせた永井繁子。こちらは9歳だった。そして捨松である。あとの2人の留学生は日本を出てから10カ月後に帰国した。ホームシックに罹ったためだ。

 米国での3人は小中高とも成績優秀。捨松はコネチカット州ニューヘイブン市の宣教師宅で暮らした。宣教師は黒人差別反対運動の推進者だった。この家で捨松は自由と平等を学ぶ。

 19歳になった捨松は米国女子高等教育の最高峰だったヴァッサー大学に進学。学年3番で卒業する。卒論は「英国の対日外交政策」。それに基づく講演を『ニューヨーク・タイムズ』などが絶賛した。

 一方で捨松は「人道」「公平」「中立」などを原則とする赤十字に共鳴。ニューヘイブンのコネチカット看護婦養成所で看護婦資格を取る。トレインドナース(教育を受けた看護婦)になった。第16回(20日)で多部が演じる捨松が、りんと直美に説明したとおりである。

 留学は1年延び、帰国は1882(明15)年。捨松はここで酷く落胆する。官費によって学んだことを社会に還元しようと思っていたが、仕事がない。北海道開拓使は消滅していた。

 捨松は女子高等教育機関をつくることを願ったが、政府は協力しなかった。大学で教鞭をとることも望んだものの、これも政府が難色を示す。女性だったからだ。多部が演じる捨松もやるべきことがなく、何度か苛立ちを見せた。

那須に眠る捨松

 翌1883年、捨松は陸軍卿の大山巌と結婚する。物語での巌は高嶋政宏(60)が演じている。留学生仲間の永井繁子と海軍武官・瓜生外吉の結婚祝賀会に出席した捨松を、巌が見初めた。

 だが山川家はこの結婚に猛反対する。巌は43歳で捨松は24歳。しかも巌には病死した先妻との間に3人の娘がいた。なにより巌は会津藩の仇敵・薩摩藩の出身。会津戦争で鶴ヶ城に砲弾を撃ち込んだ砲兵隊の隊長だったのである。

 それでも最終的には捨松が巌の求愛を受け入れる。巌は誠実な紳士だった。一方で捨松は政府側の女性への冷たさを痛感し、自ら社会のためにやらなくてはならないことを探し始める。

 教育を受けた看護婦がいないことを知ると、1885(明18)年に日本初の看護学校「有志共立東京病院看護婦教育所」(現・慈恵看護専門学校)を設立した。

 その資金はやはり日本初だったチャリティーバザーで集めた。場所は社交場であることが常識だった鹿鳴館。捨松は告知から品物集め、販売まで陣頭指揮を執る。鹿鳴館で3日間で約1万2000人が訪れ、約1万6000円(現在の8000万円前後)の浄財が寄せられた。

 一方で捨松と津田梅子、永井繁子は終生にわたって姉妹のような関係だった。梅子が1900(明33)年、津田塾大の前身である女子英学塾を開学した際、捨松は開学資金集めの責任者を引き受けた。

 のちに理事や校長代理も務める。無論、無給である。大学側はその功績を決して忘れず、今も成績優秀な海外大学院への進学者に「大山捨松賞」を授与している。

 捨松は巌との間に男子2人、女子1人を儲けた。巌と先妻の間に生まれた3人の女子もいたから、子供は計6人。巌が家族思いのやさしい人だったので、幸せに暮らしていた。

 しかし、後年は不幸が重なる。海軍少尉候補生だった長男・高が、巡洋艦「松島」の爆沈事故で1908(明41)年に亡くなった。1916(大5)年には巌が胆嚢炎で他界した。74歳だった。以来、捨松はあまり家の外に出なくなってしまう。  

 3年後には捨松も亡くなる。1919(大8)年だった。世界中で大流行し、日本でも約45万人が死亡したスペイン風邪に捨松も罹った。58歳の若さだった。ドラマでは、捨松を看護するのは、りんと直美しかいないと見ている。

 巌と捨松はりんの故郷付近の那須塩原市に眠っている。巌が1901(明34)年に農場を開き、別邸も建てた地だからである。公園化された墓所はモミジの名所としても知られる。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年にスポーツニッポン新聞社に入社し、放送担当記者、専門委員。2015年に毎日新聞出版社に入社し、サンデー毎日編集次長。2019年に独立。前放送批評懇談会出版編集委員

デイリー新潮編集部