山口百恵さん(左)と藤圭子さん(右)

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「百恵さんは歌、表情、ボディアクションのすべてに素晴らしい表現力がありました」

 かつて筆者の取材に対し、そう語っていたのは音楽プロデューサーの酒井政利さん。山口百恵さん(62)や郷ひろみ(65)、松田聖子(59)らを担当した希代のヒットメーカーだが、7月16日に心不全のため都内の病院で逝去した。85歳だった。

 筆者が初めてお会いしたのは30年以上前。以来、昨年までアイドル論や歌謡曲論を繰り返し教えてくれた。その一部を再録したい。(文/高堀冬彦)

【写真】赤ん坊の宇多田ヒカルを抱っこする藤圭子さん

百恵さんのデビュー曲に
フォークソング調が選ばれたワケ

 酒井さんは350人以上のアーチストを担当したものの、中でも百恵さんは思い出深かったようだ。

「初めて百恵さんとお会いしたのは彼女のデビュー前の1973年でした。礼儀正しく真面目な人でしたね。それは1980年の引退時までずっと同じでした」

 出会ったときの百恵さんはまだ13歳。だが、既にプロ意識を感じたという。百恵さんは自分と5歳年下の妹を女手1つで育ててくれていた母親に楽をさせたくて歌手になったことで知られる。それも背景にあったのだろう。

「いつも私たち大人の話を真剣に聞いてくれていたのを覚えています。だから、私たちもいい加減なことは言えませんでした」

 ただし、酒井さんたちは売り出しには苦労した。「デビューした当初は音域がやや狭かった」からだ。

 このため、1973年5月デビュー曲にはフォークソング調の『としごろ』を用意した。

「あの歌は音域が狭くても歌えるのです。もっとも本人が積極的にレッスンを受けてくれて、すぐに音域を広げましたけどね」

 それを見極めた上で酒井さんが2枚目に用意したのが同年9月の『青い果実』だった。10代の性をテーマにした際どい歌詞だったが、百恵さんは躊躇せずに歌った。これにもプロ意識を感じさせたという。

 未だ人気がある百恵さんの最大の魅力は何なのか。この問いに酒井さんはこう答えた。

「光と影の両面を持つ人であるところです」

 高い歌唱力を持っていたし、哀愁ある低い声も魅力的だったものの、光と影があったから伝説の人になったと解説した。

「光と影を併せ持った歌手には立体感が生まれ、人を引き付ける力が増すんです。なにより、光も影もあると、明るい楽曲もドラマチックな楽曲も合います」

 たしかに百恵さんは歌う楽曲の幅が広かった。阿木燿子さん(76)が作詞し、夫の宇崎竜堂(75)が作曲した『乙女座 宮』(1978年)や同じ夫妻がつくった『しなやかに歌って』(1979年)、などは明るく軽快。光を思わせた。山口百恵

 一方、さだまさし(69)が作詞・作曲した『秋桜』(1977年)や谷村新司(72)による『いい日旅立ち』(1978年)などは哀感に満ちていた。影を強く感じさせた。

 さまざまな楽曲を歌えた理由はほかにもある。「大変な努力家だった」という。

「新曲のレコーディングの際、『あんまり勉強できませんでした』などと言いながらスタジオ入りするのですが、いざ歌い始めると、どの楽曲も完璧に自分のものにしていました」

 音楽的センスも良かった。百恵さんは阿木さん、宇崎さんの楽曲で数々のヒットを飛ばしているが、2人の起用を提案したのは百恵さん自身だった。

「あるとき、私のアシスタントに対し百恵さんが『きのうの夜、(宇崎さんがリーダーの)ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを聴いたんですよ』と話したのです。それを伝え聞いた私は『なるほど、ダウンタウンの突っ張ったイメージも百恵さんには合うな』と思い、さっそく宇崎さんに連絡を入れたのでした」

 あとになって酒井さんは気づいた。

「百恵さんは、阿木さんと宇崎さんに楽曲をつくってもらいたかったから、アシスタントにダウンタウンの話をしたんです。百恵さんは出しゃばるようなことをしない人でしたから、間接的に自分の考えを伝えたんですよ」

 阿木・宇崎夫妻による第1弾『横須賀ストーリー』(1976年)は記録的ヒットになった。

「プロデューサーの私としては、売れてくれたら横須賀でも横浜でも良かったんですけどね(笑)」

 その後、百恵さんは引退。人気絶頂時の1980年のことで、活動期間は僅か8年。まだ21歳だった。酒井さんはさぞ残念だったのではないか。

「いいえ。残念とか惜しいとかの思いは全くありませんでした。さまざまな楽曲がつくれて、プロデューサー業を満喫させてもらいましたからね。百恵さんとの仕事は実に楽しかった。だから『幸せになってほしい』という気持ちしかありませんでした」

 この言葉に偽りはなかっただろう。酒井さんは誰にもやさしい人だった。だからアーチストが直接プロデュースを頼んできたこともある。8年前に62歳で亡くなった故・藤圭子さんもそうだった。

「天才だった」藤圭子さん

 藤さんは1979年に1度は芸能界を引退したが、1981年に藤圭似子の名前で復帰すると、酒井さんにプロデュースを依頼した。

「すべてお任せします」

 藤さんはそう言ったが、結局ヒットは出なかった。1974年に喉のポリープを切除し、魅力だったハスキーボイスが失われていたことが大きな痛手となった。

「でも天才でした。デモテープを一度聴かせるだけで、すぐに歌をおぼえてしまった。しかも絶対に音をはずさなかった。驚きましたね。類い稀なる才能の持ち主でした」

 それから約8年後、藤さんの愛娘・宇多田ヒカル(38)が5歳になるころ、酒井さんは母娘とアメリカで会った。その時、藤さんが「この子は天才なのよ」としきりに訴えるので、「意外と親バカなんだな」と内心で笑っていたという。

 だが、藤さんの言葉は本当だった。

「天才には天才が分かるんですね。恐れ入りました」

 酒井さんはまだプロデューサー業を続け、昭和のアイドル、歌謡曲を語るつもりだった。

 酒井さんの最初の大ヒットは前回の東京オリンピックと同じ1964年に発売された『愛と死をみつめて』(歌・青山和子)。このため、酒井さんは「次のオリンピックまでは頑張りますよ」と口癖のように言っていた。だが、その直前に惜しまれつつ逝った。

高堀冬彦(放送コラムニスト、ジャーナリスト)
1964年、茨城県生まれ。スポーツニッポン新聞社文化部記者(放送担当)、「サンデー毎日」(毎日新聞出版社)編集次長などを経て2019年に独立