2019年10月の台風19号で、川崎市・武蔵小杉タワーマンションは大きな被害を受けた。住宅ジャーナリストの榊淳司氏は「今後、コロナ禍で住宅ローンを払えなくなった方々の任意売却が急増し、マンション市場の下落が見込まれる。そのようなトレンドになれば、武蔵小杉のタワマンはさらに売却しづらくなる」という――。

※本稿は、榊淳司『激震!「コロナと不動産」 価値が出るエリア、半額になる物件』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

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■「台風前のような価格で売りたい」と相談に来た男性

コロナ禍に関係なく、マンションというのはそもそも買うよりも売るほうが難しいといわれる。これはマンション業界に関わる人間たちにとっては半ば常識だろう。しかし、一般の方々(不動産業界では「エンド」と呼ぶ。エンドユーザーの略)は、そのことをまず知らない。

先日、筆者の事務所にマンション売却の相談に見えたエンドさんがいた。30代後半と思しきカップルだ。

「どうしたら、以前のような価格でマンションが売れるでしょうか?」

そのエンド男性は、かなり深刻な様子である。彼が相談を持ち込んだマンションは、2019年10月に台風19号が日本を襲った時に、内水氾濫で地下3階の電気室が冠水。建物全体に電力が供給できなくなったことで、エレベーターはもちろんトイレも使えなくなった川崎市・武蔵小杉にあるタワマンだった。

「ああ、あの物件ですか……」

筆者は内心、「困ったなあ」と思った。

このマンションには被災直後、テレビや新聞、雑誌などあらゆるメディアが殺到。業を煮やしたタワマンの管理組合は居住者たちに「メディアの取材を受けるな。何も話すな」と箝口令を敷いたといわれている。

■「武蔵小杉」の「トイレが使えないタワマン」は全国で有名に…

筆者は今でも、あのメディア対応はまずかったと思っている。当事者から情報がとれないなか、取材で現地に殺到した各メディアは情報を求めて右往左往した。公道と地続きのエントランス付近の敷地内に入っただけで、居住者から「不法侵入だ!」と怒鳴られた記者もいた。こうした広報対応をとれば、記者たちがそのタワマンのことを同情的に捉えるはずもない。結果、「豪華なタワマンを手に入れた富裕層がひどい目に遭っている」といった庶民が溜飲を下げる一種の“エンターテインメント”になっていった。

被災直後はもちろん、その後半年以上にわたってさまざまなメディアがその被災タワマンに関する報道を続けた。当然、筆者のところにもテレビ出演やコメント取材、あるいは原稿依頼が殺到した。

あの台風19号は、国土交通省の資料によると「死者90名、行方不明者9名、住家の全半壊等4008棟、住家浸水7万341棟」という甚大な被害をもたらした。にもかかわらず、メディアは延々とエレベーターやトイレ、電源が使えなくなったタワマンの惨状だけを繰り返し報道を続けた。なぜなら、世間の関心を集めたからだ。

そのおかげで、「武蔵小杉」という街と「トイレが使えないタワマン」のことは関東以外の多くの人も知るところとなってしまった。

報道では、そのタワマンの名称までは出てこない。しかし、ネット社会の今では誰にでもすぐにわかってしまう。SNSでは具体的なマンション名が飛び交った。

■離婚協議中の妻と35年返済のペアローンで5年前に購入

「このマンション、売却は急がれますか?」

男性がこくりと頷いた。そして、すがるような眼差しを向けてくる。

「実はこのマンションは今、離婚協議中の妻と……」

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聞けば、35年返済のペアローンで5年前に購入したものだと言う。ということは、一緒に来た女性は奥さんではないということか(後でわかったことだが、別居後にお付き合いを始めた女性だったのだ。彼女もどこか不安そうな表情をしていた)。

およそ5年前に購入したタワマンは、当時築7年だった。アベノミクスと黒田日銀総裁の異次元金融緩和で、マンション市場が局地的に高騰を始めた年に建てられたものだった。

「おいくらでお買いになったのですか?」

男性から聞いた額は、新築分譲時よりも15%ほど値上がりした水準だった。

「それでも、あの台風の前だったらさらに1割ほど上乗せして売れましたね」
「はい。私もそのつもりでいたのですが」

男性が苦しそうに答える。

■台風前の相場で売却することはほぼ不可能という現実

「ご存じかもしれませんが、あの台風以後、約10カ月ほどこのマンションの売買が成約した事例がまったく登録されていませんでした。2020年8月になってやっと2件、9月に1件が登録されただけです」

不動産仲介業者が売り物件や成約事例を登録する、国土交通省所管の指定流通機構のサイトを見ながら筆者は説明した。

その直近の3件の成約事例を見ると、いずれも台風前より1割程度は下落している。男性はそのこともある程度知っていた。

「台風前は値上がり分で諸費用を賄おうと考えていたのですが、今の相場ではそれが無理なのかどうかご相談したいと思いまして」

それとなく事情を聞いていくと、離婚協議中の奥さんはなかなか強硬で「台風前の値段で売ってちょうだい」と要求しているらしい。

「先生、何かいい方法はありませんか?」

男性は相変わらず、すがるような目で訴えかけてくる。

「はっきり申し上げますと、台風前の相場で売却することは、日本経済がインフレにでもならない限りほぼ不可能です。それどころか、8月以降のこの3件の成約事例の水準ですら、買い手が現れるかどうかわかりません」

筆者は“現実”を教えるしかなかった。

■不運にも台風被害がほとんどなかった「双子タワマン」が隣地に

不運なことに、台風で被災したタワマンには双子の兄弟のような物件が隣地にそびえ立っている。同じ売り主、同規模、同時期の竣工で、名前も前半部分は同じ、サブネームだけが違う。あの台風直後に「武蔵小杉のタワマンで汚水逆流」というニュースがネット上を賑わせた時、当初はその双子タワーのほうだという誤情報が駆け巡った。

つまり、男性が売却しようとしているタワマンには双子の兄弟が隣に立っていて、そこはなぜか台風の被害がほとんどなかったのだ。

ということは、同じ条件で中古タワマンを探している人は、まずその被害がなかったほうの購入を検討する。被災した男性が離婚協議中の妻と共同所有するタワマンは、買い手側からすると「安ければ考えてもいい」という位置付けになるのが普通だろう。

現に、過去1年で被害のなかったタワマンのほうは10件の成約事例がある。しかも、8月以降にやっと3件成約した被災物件よりも5〜10%成約額が高い。

そのことを説明すると、男性の表情がさらに暗く翳っていった。

■ペアローンは非常にリスキー

台風は避けられなかった。しかし、ペアローンは賢明な判断をしていれば避けられた選択である。ペアローンとは、夫婦共同で住宅ローンを組むことで、それぞれの持ち分に合わせた金額を借り入れ、共同で個別の債務を返済していく仕組みになっている。これは考え方によっては非常にリスキーな仕組みだ。

まず、現在は新たに結婚する3組に1組がいずれ離婚するという時代だ。この男性のようにペアローンを組んだ状態で婚姻関係を解消しようとすると、売却額などで揉めることは簡単に予測できる。何といっても売り主側の2人が同意しないと売買そのものが成立しない。

次に、例えば35年という返済期間中は夫婦のどちらもがマンション購入時と同等かそれ以上の収入を確保し続けなければならない。そういう条件を満たして、やっとローンが完済できるのだ。

この男性の場合、あの台風で被災する前だったら売却によってペアローンがきれいに完済できたうえに、夫婦それぞれが少しくらいは手元に資金を残せただろう。しかし、仮にそのまま離婚せずにこのマンションに住み続けたとしても、ローンを完済できたかどうか疑問だ。

こういう問題に、うまい答えは見つからない。

その昔、ダイエーという巨大な流通チェーンを築いた中内(なかうち)㓛(いさお)氏(故人)は、莫大な借金をしながら店舗をどんどん増やしていった。誰かに借金のことを指摘されると「成長はすべてを癒やす」と答えたそうだ。借り入れが危険なレベルにまで増えても、企業そのものが成長していれば何とかなる、ということだろう。

これを個人のマンション購入に当てはめると「値上がりはすべてを癒やす」ということになりそうだ。

この男性のケースも、ペアローンで購入したタワマンが値上がりを続けていれば、離婚協議になってもさほど悩まずに済んだかもしれない。しかし、マンション市場が永遠に値上がり基調を続けるわけがない。中内氏のダイエーも成長が止まったことで経営が傾いた。

■コロナ禍で確実にマンション市場にも下落圧力がかかる

確かに、台風19号の襲来は予測不能であった。しかし、35年という年月の間には何が起こるかわからない。現に2019年は台風がたくさんやってきた。数十年のうちに台風の当たり年がやってくる確率は少なくないだろう。さらに天災以外でも今回の新型コロナウイルスのように、不動産市場を激変させる出来事が起こる可能性もある。

榊淳司『激震!「コロナと不動産」 価値が出るエリア、半額になる物件』(扶桑社新書)

相談者のエンド男性には「できるだけ早く売るのがいいですよ」と話した。コロナ禍において、8、9月時点で中古マンション市場の相場観はそれほど崩れていなかった。その頃に売却すれば、相場で成約できる可能性があったからだ。

しかし、今後はそうはいかないだろう。コロナ禍で確実にマンション市場にも下落圧力がかかってくる。2020年末から年明けにかけて、住宅ローンを払えなくなったエンドさんたちの任意売却が急増することが予想されるからだ。

そうしたトレンドに陥った場合、「浸水したタワマン」という不名誉な枕言葉がつく武蔵小杉の不動産価値は圧倒的に不利なのだ。台風とコロナのWショックで、「ニューセレブの楽園」は、完全に過去のものになりつつあるようだ。

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榊 淳司(さかき・あつし)
住宅ジャーナリスト
1962年、京都府生まれ。同志社大学法学部および慶應義塾大学文学部卒業。1980年代後半のバブル期以降、四半世紀以上にわたってマンション分譲を中心とした不動産業界に関わる。一般ユーザーを対象に住宅購入セミナーを開催するほか、新聞や雑誌に記事を定期的に寄稿、ブログやメルマガで不動産業界の内幕を解説している。主な著書に『やってはいけないマンション選び』(青春出版社)、『年収200万円からのマイホーム戦略』(WAVE出版)、『マンション格差』(講談社現代新書)、『すべてのマンションは廃墟になる』(イースト・プレス)などがある。
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(住宅ジャーナリスト 榊 淳司)