「ついに発売! 現代中国SFの最高峰『三体』をもう手にしたか? :『WIRED』日本版 先行公開(後編)」の写真・リンク付きの記事はこちら

[中国SF『三体』WIRED日本版先行公開 前編から続く]

■ 5 科学を殺す

丁儀が住んでいるのは、新築マンションの3LDKだった。ドアを開けたとたん、汪茲篭烈な酒のにおいに迎えられた。つけっぱなしのテレビの前で、丁儀がソファに寝転び、天井をじっと見上げている。広いリビングを見渡すと、内装はいたってシンプルで、家具も装飾もなく、がらんとしていた。ゆいいつ目を引くのは、リビングの片隅にあるポケット・ビリヤード台だ。

招かれたわけでもなく勝手に押しかけてきた汪茲紡个靴董丁儀はべつだん嫌がるようすも見せなかった。彼のほうも、だれかと話をしたかったらしい。

「ここは3カ月前に買ったんです。なんのために買ったんだろうな。彼女が家庭に入るはずなんかないのに」酔っぱらった丁儀が、笑いながら首を振る。

「きみたちは……」汪茲詫姪澆寮験茲里垢戮討鮹里蠅燭ったが、なんと訊いていいのかわからなかった。

「楊冬は輝く星のように、遠くからぼくを照らしていた。その光はいつも冷たかったけれど……」丁儀は窓際に歩み寄り、夜空を眺めた。その姿は、過ぎ去った星を探しているかのようだった。

汪茲睫曚蟾んだ。いま聞きたいのは、楊冬の声だった。1年前のあの夕暮れ、彼女と目が合ったとき、ひとことも言葉を交わすことはなかったし、その後も結局、彼女の声を一度も聞くことはなかったが。

丁儀はまるでなにかを追い払うように手を振った。

「汪教授、あなたは正しかった。軍や警察と関わってもろくなことはない。あいつらは、なんでもわかってると勘違いしてるただの莫迦だ。物理学者の自殺と〈科学フロンティア〉とは関係ない。そう説明したのに、わかってもらえなかった」

「彼らもいくらか調査したようだね」

「ええ。それも、海外まで範囲を広げて。だから彼らも、自殺者のうちのふたりは、〈科学フロンティア〉となんの関係もないことはわかっているはずです。楊冬のことも含めて」丁儀はその名を口にするのもやっとのようだった。

「丁儀くん、知ってのとおり、わたしはもう、この件に関わっている。だから、楊冬がなぜ……なぜこんな道を選んだのか、その理由が知りたいんだ。きみは……なにか知っているんだろう」汪茲呂燭困佑拭ほんとうに関心のあることを隠そうとして、われながら歯切れの悪い質問になってしまう。

「それを知ったら、もっと深く関わることになる。いまはまだ、うわべだけです。知ったら最後、心の奥まで呑み込まれてしまう。深刻な事態になりますよ」

「わたしは応用研究が専門だから、きみたち理論物理学者ほどセンシティブじゃないよ」

「いいでしょう。ところで、ビリヤードはやりますか?」丁儀はビリヤード台に歩み寄った。

「学生時代は気晴らしに何度か遊んだ」

「ぼくも彼女もビリヤードが大好きでね。加速器の中で衝突する粒子を想像させてくれるからかな」丁儀はそう言いながら、黒と白のふたつの球をとり、黒球はポケットのすぐ横に、白球は黒球からほんの10センチくらいのところに置いた。「黒球を入れられますか?」

「こんなに近けりゃ、だれだって入る」

「試してみてください」

 汪茲魯ューをとって白球を軽く撞(つ)き、黒球をポケットに落とした。

「いいでしょう。今度は、台の場所を変えます」丁儀は戸惑う汪茲棒爾鬚け、ふたりで重いビリヤード台を持ち上げると、リビングの隅の窓ぎわへと運んだ。ポケットからさっきの黒球をとりだすと、またポケットの近くに置き、白球もまた、黒球から10センチほどのところに置いた。

「今度は入れられますか?」

「もちろん」

「やってみてください」

 汪茲呂泙心蔽韻帽球をポケットに落とした。

「もう一度、場所を変えます」丁儀が手を振って促し、またふたりで台を持ち上げて、リビングの三つ目の角まで運んだ。丁儀は今度もまた、黒球と白球を前と同じ位置に置いた。

「撞いてください」

「これはいったい……」

「撞いてください」

汪茲聾をすくめ、3回目も黒球をポケットに落とした。

ふたりはそれからさらに二度、台を移動させた。一度は玄関ドアに近いリビングの角へ、最後はもとの位置へ。そして丁儀は、二度とも黒球と白球を同じ位置に置き、王茲脇鹽戮箸盥球をポケットに落とした。ふたりとも、じんわり汗をかいていた。

「いいでしょう。実験は終了しました。結果を分析してみましょうか」丁儀は煙草に火を点けながら言う。「ぼくらは合計5回、試行しました。そのうちの4回は、異なる空間位置、かつ異なる時間位置で。そのうちの2回は、空間位置は同じだけれど、時間位置が異なりました。ショッキングな実験結果じゃないですか」彼は大げさに両手を広げてみせた。「5回とも、衝突実験の結果はまったく同じだった!」

「なにを言いたいんだ?」汪茲和を整えながらたずねた。

「まず、この驚くべき結果を説明してください。物理学の用語を使って」

「つまり……5回の実験では、ふたつの球の質量は変化していない。置かれた位置も、ビリヤード台を基準座標系とした場合、もちろん変化していない。白球が黒球に衝突する速度ベクトルも基本的に変わりない。したがって、ふたつの球のあいだで交換される運動量にも変化はない。ゆえに、5回の実験すべてにおいて、黒球は同じようにポケットに落ちる」

丁儀はソファのかたわらの床に置いてあったブランデーの瓶をとって、洗っていないふたつのグラスになみなみと注いだ。そのうちの片方をこちらにさしだしたが、汪茲話任辰拭
「さあ、祝いましょう。われわれは自然界の原理を発見したんですよ。すなわち、時と場所が変わっても、物理法則は変わらない。物理法則は、時間と空間を超えて不変なんです。アルキメデスの原理からひも理論に至るまで、人類史上すべての物理法則、人類がこれまでになしたあらゆる科学的発見と思想的成果のすべてが、この偉大な原理の副産物です。われわれに比べれば、アインシュタインやホーキングなど、たんなる応用科学を研究する凡人に過ぎない」

「きみがなにを言いたいのか、まだよく呑み込めないんだが」

「違う実験結果を想像してみてください。1回目は白球が黒球をポケットに落とした。2回目は黒球が脇にそれた。3回目は黒球が天井まで飛び上がった。4回目は、黒球がびっくりしたスズメみたいに部屋の中を飛びまわり、最後にあなたの服のポケットに入った。5回目は、アシモフのあの小説〔短篇「反重力ビリヤード」〕みたいに亜光速ですっ飛んで、ビリヤード台のへりをぶち破り、壁を突き抜け、地球の引力圏を脱出し、ついには太陽系から出てしまった。もしそんなことが起こったら、どう思います?」

丁儀は汪茲鮓つめた。長い沈黙のあと、汪茲言った。

「それが現実に起こったんだね。そうだろう?」

丁儀は両手に持ったふたつのグラスの酒を一気に飲み干した。まるで悪魔でも見るかのようにビリヤード台をじっとにらみつけ、

「ええ、そのとおり。ここ数年で、基礎理論を実験でたしかめるために必要な設備が、とうとう完成しました。高価なビリヤード台が3台、建設されたんです。1台は北米、1台はヨーロッパ、もう1台は、言うまでもなく中国の良湘です。あなたがたのナノテクノロジー研究センターは、そこからずいぶんな金額を稼ぎましたよね。

これらの高エネルギー粒子加速器は、粒子を衝突させるためのエネルギーの大きさを、従来よりひと桁ひきあげました。人類がいまだかつて到達したことがないレベルです。この新しい設備で実験したところ、同一の粒子、同一の衝突エネルギー、同一のパラメーターだったにもかかわらず、違う結果が出たんです。異なる加速器のあいだで実験結果が異なるというだけではなく、同じ加速器で、べつの時刻に実験しても、やはり異なる結果になる。物理学者たちはパニックを起こし、同じ条件で超高エネルギー衝突実験を何度も何度もくりかえしましたが、結果は毎回違っていて、これといった法則性も見つからなかった」

「それはなにを意味する?」汪茲呂燭困佑拭C儀がこちらを見つめたままなにも言わないので、さらにつけ加えた。「ああ、わたしはナノテクノロジーが専門だから、物質のミクロ構造には通じている。それでも、きみたちが扱っている粒子に比べたら、何桁も大きなものを相手にしてるんだ。だから、教えてくれ」

「物理法則は時間と空間を超えて不変ではないということを意味しています」

「で、それはなにを意味する?」

「それはご自身で演繹(えんえき)できるはずです。常少将でさえ、そこにたどりついたんですから。ボスはほんとうに頭がいい」

汪茲倭襪粒阿鯆めながら考えにふけった。都市の夜景がまばゆく光り、夜空の星々もそれに埋もれている。

「それは、宇宙のどの場所においても適用できる物理法則が存在しないことを意味する。ということはつまり……物理学は存在しない」汪茲倭襪粒阿ら視線を戻して言った。

「『この行動が無責任なのはわかっています。でも、ほかにどうしようもなかった』。これは彼女の遺書の後半部分です。いまあなたが無意識に口にしたのは、遺書の前半部分です。『物理学は存在しない』。いまなら彼女のことが多少なりとも理解できるんじゃないですか」

汪茲魯咼螢筺璽病罎ら白い手玉をとると、そっと撫でてから、また台に置いた。「物理学の最先端を探求している人間にとっては、たしかに災厄だな」

「理論物理の分野で業績をあげるには、ほとんど宗教的と言ってもいいような信念が必要になる。そこからたやすく深みにはまるんです」

別れぎわ、丁儀は汪茲法△△觸蚕蠅鯏舛┐拭

「楊冬の母親はここにいます。もし時間があるようなら、会いにいってみてください。楊冬はずっと母親と一緒に暮らしていました。楊冬の母親にとっては、娘が生活のすべてでしたが、いまはひとりぼっちになってしまいました。気の毒で」

「丁儀、きみは明らかに、わたしよりずいぶん多くを知っている。もう少しだけ教えてくれないか? 物理法則は時間と空間を超えて不変ではないと、ほんとうに思っているのか?」

「ぼくはなにも知りませんよ。ただ、想像もつかない力が科学を殺そうとしているような気がします」

「科学を殺す? だれが?」

丁儀は汪茲量椶鯆垢い△い世犬辰噺つめ、それからようやく言った。「それが問題だ」

彼はあのイギリス軍大佐が引用したシェイクスピアの言葉を引いただけだと、汪茲狼いついた。生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。

■ 6 射撃手と農場主

翌日は週末だったが、汪茵淵錺鵝Ε潺礇)は早起きし、カメラを携えて自転車で出かけた。アマチュア写真家として、汪茲もっとも好む題材は、人跡未踏の荒野だ。とはいえ、中年にもなると、そんな贅沢を楽しむ時間はなくなる。たいていの場合は、街角の風景を撮ることで我慢するしかない。

汪茲呂靴世い法都会の街角では珍しく、荒野の空気を感じさせる風景 ── たとえば公園の干上がった池の底、建設現場の掘り起こされたばかりの土、セメントの隙間から伸びている雑草 ── を選ぶようになった。背景の俗っぽい色彩を消すために、モノクロフィルムだけを使う。思いがけず、彼の作風はいつのまにかまわりに認められて、汪茲魯▲泪船絅⊆命寝箸寮こΔ任舛腓辰箸靴人名人になりつつあった。作品は大きな展覧会で二度入選し、写真家協会にも入会した。撮影に出るたび、ひらめきと構図を求めて、気の向くまま、自転車で北京の街をあちこち走りまわる。ときには一日じゅう、そうやって過ごすこともあった。

きょうの汪茲蓮△覆鵑箸覆妙な感じだった。汪茲虜酩は古典的な落ち着きが特徴だが、きょうにかぎって、そういう構図を選ぶのに必要な感覚をつかみきれないでいた。眠りから目覚めかけた夜明けの都市が、流砂の上に建っているような気がした。しっかりした現実のように見えるが、じつは幻想でしかないような……。ゆうべはずっと、漆黒の空間を不規則に飛びまわる、ふたつのビリヤード球の夢を見ていた。黒い背景にまぎれて黒球は見えず、たまに白球の前を通過するときだけ、その存在が明らかになる。

物質の根本的な性質には、ほんとうに法則がないのか? 世界の安定と秩序は、ただたんに、宇宙のある片隅における動的平衡状態、カオス的な流れの中に生まれた短命な傍流にすぎないのか?

科学は殺されるのか?

汪茲呂い弔里泙砲、竣工したばかりの新しい中国中央電視台(CCTV)本部ビルの前に来ていた。自転車を止めて道端に座ると、高々とそびえるA字形の建物を仰ぎ見て、なんとか現実感をとり戻そうとした。朝日を浴びてきらきら輝くビルの尖った先端を目でなぞりながら、底抜けに深い青空を眺めると、脳裏にふとふたつの言葉が浮かんだ。

── 射撃手(シューター)と農場主(ファーマー)。

〈科学フロンティア〉の学者たちは、議論のさい、しばしばSFという略語を使う。これはSF小説を指すのではなく、このふたつの単語の略だ。宇宙の法則の本質を説明するふたつの仮説、射撃手仮説と農場主仮説を意味している。

射撃手仮説とはこうだ。あるずば抜けた腕をもつ射撃手が、的に10センチ間隔でひとつずつ穴を空ける。この的の表面には、2次元生物が住んでいる。2次元生物のある科学者が、みずからの宇宙を観察した結果、ひとつの法則を発見する。すなわち、牘宙は10センチごとにかならず穴が空いている瓠射撃手の一時的な気まぐれを、彼らは宇宙の不変の法則だと考えたわけだ。

他方、農場主仮説は、ホラーっぽい色合いだ。ある農場に七面鳥の群れがいて、農場主は毎朝11時に七面鳥に給餌する。七面鳥のある科学者が、この現象を1年近く観察しつづけたところ、一度の例外も見つからなかった。そこで七面鳥の科学者は、宇宙の法則を発見したと確信する。すなわち、爐海留宙では、毎朝、午前11時に、食べものが出現する瓠2奮惻圓魯リスマスの朝、この法則を七面鳥の世界に発表したが、その日の午前11時、食べものは現れず、農場主がすべての七面鳥を捕まえて殺してしまった。

汪茲和元の道路が流砂のように沈んでいくのを感じた。A字形のビルが揺れているように見える。汪茲呂△錣討道訐をそらした。

こんな不安を消し去るためだけに、汪茲鰐詰やりフィルム1本分の写真を撮り終えた。昼食前に家に帰ると、妻は子どもを連れて外に遊びに出かけていた。昼には戻らないつもりらしい。いつもは撮影後すぐにフィルムを現像する汪茲世、きょうはちっともその気にならなかった。それで、昼食を簡単に済ませると、ゆうべ眠れなかったこともあって、昼寝をした。目が覚めたのは夕方の5時近くだった。そのときになってようやく、午前中に撮った写真のことを思い出し、物置を改造してつくったせまい暗室に入って現像をはじめた。

現像が終わった。汪茲楼き伸ばすべき写真があるかどうかネガをチェックしはじめたが、最初の1枚で奇妙なことに気づいた。その1枚は、大きなショッピング・センターの脇の小さな草地で撮ったものだが、写真の真ん中に、小さな白いものが1列に並んでいる。よく見ると、それは数字の列だった。

 1200:00:00

2枚目の写真にも数字の列がある。
 
 1199:49:33

フィルムのどの写真にも、小さな数字の列がひとつずつある。

3枚目、1199:40:18。4枚目、1199:32:07。5枚目、1199:28:51。6枚目、1199:15:44。7枚目、1199:07:38。8枚目、1198:53:09……34枚目、1194:50:49。35枚目、最後の1枚は、1194:16:37。

汪茲呂呂犬瓠▲侫ルムになにか問題があったのかと思った。汪茲使っている写真機は1988年製造のライカM2だが、100パーセント手動の機械式カメラなので、フィルムに日付を焼き込むようなことは不可能だ。すばらしいレンズと機械構造のおかげで、このデジタル時代にあっても、いまだにプロ仕様カメラの王様と崇められている。

もう一度すべての写真をチェックして、汪茲呂垢亜△海凌字の奇妙な点に気づいた。背景の色に自動的に対応している。背景が黒ければ白の数字列、背景が白ければ黒の数字列。観察者が判別しやすいように、背景と対照的な明度を使っているらしい。16枚目の写真を見たとき、汪茲凌澗,びくんとした。同時に、暗室の冷気が背筋に伝わってきたように感じた。この1枚は、古壁をバックにした1本の枯れ木が被写体だ。古壁はまだら模様で、写真でも白と黒が入り混じっている。こんな背景では、数字の列が黒でも白でも、ふつうなら、すべての字がきちんと判読できることはありえない。しかし、数字の列はなんと縦に並び、しかも曲がりくねっている。枯れ木の幹の深い色に合わせたように文字色は白く、まるで枯れ木の上をくねくねと這う細長い蛇のようだ。

汪茲藁鵑吠造鵑誠字のパターンを調べはじめた。はじめは番号が振られているのかと思ったが、数字と数字の差は一定ではない。それから、コロンで分けられた三つのブロックが、時刻の時、分、秒を表しているのではないかと思い当たった。汪茲六1撞録用のメモをとりだした。そこにはすべての写真の撮影時間が分単位で書き記してある。両者を照らし合わせてみると、写真それぞれに現れている数字列の時間差と、実際に撮影した時間間隔とが一致しているのがわかった。しかし、フィルムの数字は明らかに、現実の時間の流れとは逆向きに時間を計時している。ということは、答えはひとつしかない。

カウントダウンだ。

カウントダウンは1200時間からスタートして、現在はまだ、残りが1194時間ある。

現在? フィルムの最後の1枚を撮ったあの時から、このカウントダウンはまだ継続しているのか?

汪茲楼甜爾鮟个董⊃靴靴ぅ皀離ロフィルムをライカに装填した。部屋の中で適当に何度かシャッターを切り、最後にベランダに出て外の景色を撮影し、フィルム1本分を撮り終えると、カメラからとりだし、暗室にこもって現像した。現像されたフィルムには、あの数字のゴーストがどの写真にも現れていた。1枚目は、1187:27:39。前のフィルムの最後の1枚を撮影してからこのフィルムの最初の1枚までの時間間隔はまさにこのくらいだった。それ以後の1枚ごとの時間間隔は3、4秒だ。1187:27:35、1187:27:31、1187:27:27、1187:27:24……まさしく、汪茲写真をつづけて撮影した間隔とぴったり一致している。

ゴースト・カウントダウンはまだ継続している。

汪茲呂發Π貪戰メラに新しいフィルムを装填して適当に撮影し、そのうち何枚かはわざとレンズ・キャップをつけたままシャッターを切った。撮り終えたフィルムをとりだしているとき、ちょうど妻と子どもが帰ってきた。現像する前に、汪茲3本目のフィルムを急いでカメラに装填すると、妻に手渡した。「このフィルムをぜんぶ撮り切ってくれ」

「なにを撮るの?」妻はびっくりして夫を見た。これまで汪茲蓮△海離メラに、他人には指1本触れさせなかった。もちろん、妻も息子も、そんなものにはまるで関心がない。彼らの目にしてみれば、ライカM2は、1台2万元以上もするくせに、なんの面白味もない骨董品にすぎなかった。

「なんでもいい、好きに撮ってくれ」汪茲魯メラを妻の手に押しつけると、自分は暗室に向かった。

「じゃあ、豆豆(ドウちゃん)、あなたを撮ってあげるわね」妻はレンズを息子に向けた。

汪茲稜称△砲箸弔爾麌垉ぬなイメージが閃き、ぞくっと身震いした。亡霊じみたカウントダウンの数字が、息子の顔の前に、首吊り用ロープの輪っかのように浮かんでいる……。「だめだ! 豆豆は撮るな。ほかのものならなんでもいいから」

カシャッというシャッター音がして、妻が1枚目を撮ったのがわかった。すると、妻が叫んだ。「これ、1枚撮ったら、もうシャッターが押せなくなっちゃったんだけど」

汪茲郎覆亡き上げレバーの引きかたを教え、「こうやって、毎回、自分でフィルムを巻かなきゃいけないんだよ」と言ってから、暗室に入った。

「ほんとにめんどくさいのね」医者をしている妻には、1千万画素のデジタルカメラがすでに普及しているいま、まだこんな時代遅れのバカ高い機械を使っている夫の気が知れなかった。しかも、白黒フィルムだなんて。

フィルムの現像が済み、薄暗いセーフライトのもとで、汪茲魯粥璽好函Εウントダウンがなおも継続しているのを確認した。行きあたりばったりに撮ったでたらめの写真、レンズ・キャップをつけたままシャッターを切った何枚かも含めて、その1枚1枚にはっきりと現れている。1187:19:06、1187:19:03、1187:18:59、1187:18:56……。

妻が暗室のドアをノックし、撮り終わったことを告げた。汪茲楼甜爾鮟个謄メラを受けとった。フィルムを巻きとる手がひどく震える。いぶかしげな妻の視線にもかまわず、汪茲魯メラからとりだしたフィルムを持って暗室に戻り、しっかりとドアを閉めたが、動揺のあまり、現像液や定着液を床にこぼしてしまった。フィルムはすぐに現像され、汪茲鰐椶鬚弔屬辰董⊃瓦涼罎乃Г辰拭

頼む、出てこないでくれ。おねがいだ。おれの番が来たんじゃないと言ってくれ……。

ルーペを使って濡れたフィルムをチェックしたが、映っているのは妻が撮った室内のようすだけで、カウントダウンの数字はなかった。シャッタースピードの設定が遅く、手ぶれでぼけている。だが汪茲砲箸辰討蓮△い泙泙任妨た中で最高の写真だった。

汪茲楼甜爾鮟个涜腓く息を吐き出した。全身、汗びっしょりだった。妻はキッチンで食事のしたくをしていて、息子はどこかべつの部屋で遊んでいる。汪茲呂劼箸螢愁侫,忘造蝓⊂し冷静になって、論理的に考えはじめた。

まず、この一連の数字列は、異なる撮影間隔を正確に、しかも時間の流れに沿って記録している。まるで知性を備えているような数字列だ。ぜったいに、フィルムの問題ではない。なんらかの力がフィルムを感光させたとしか考えらない。いったいどんな力だ? カメラの問題か? なんらかの装置がなんらかの方法でカメラに組み込まれた? 汪茲魯譽鵐困魍阿掘▲メラを分解してみた。内部をルーペで観察し、塵ひとつついていないピカピカの部品をすべて点検した。だが、なんの異常もなかった。レンズのキャップをつけたまま撮影した数枚の写真のことを考えれば、もっとも可能性のある感光源は、カメラ外部の、強い透過力を持つ放射線だが、これもやはり、技術的には謎だらけだ。放射線源はどこなのか? どうやってピントを合わせているのか?

すくなくとも、現代の科学技術の水準に照らすと、この力は超自然的なものとしか思えない。

ゴースト・カウントダウンがすでに消失していることをたしかめるべく、汪茲呂泙織薀ぅにフィルムを装填し、1枚ずつでたらめに撮影した。今度は考えながらだったので、非常にゆっくりとしたペースになった。ようやくすこし落ち着きをとり戻していた汪茲蓮△修離侫ルムを現像した瞬間、また狂気の淵へと押しやられた。ゴースト・カウントダウンがまた出現している。写真に表示されている時間からすると、カウントダウンは一度たりとも停止していない。妻が撮ったフィルムには現れなかったというだけだったのだ。

 1186:34:13、1186:34:02、1186:33:46、1186:33:35……

汪茲楼甜爾鮟个董家から飛び出すと、隣家のドアを激しく叩いた。ドアが開き、引退した張(ジャン)教授が現れた。

「張先生、お宅にカメラはありますか? デジタル式のじゃなくて、フィルムを使うやつです!」

「きみみたいな大写真家が、ぼくのような年寄りからカメラを借りるって? あの2万元もするやつは壊れたのか? うちにはデジタルカメラしかないよ……どうした、体の具合でも悪いのか、顔色がひどいぞ」

「いいから、貸してください」

張教授は部屋に戻ると、すぐにごく一般的なコダック製デジタルカメラを持ってきた。「ほら。データのバックアップはとってあるから、本体に残ってるのは消してくれても──」

「ありがとう!」汪茲魯メラをひっつかむと急いで部屋に戻った。実際のところ、家にはほかに、アナログカメラ3台とデジタルカメラ1台があった。だが、よそから借りたカメラのほうが、もっと信頼できる気がした。汪茲魯愁侫,肪屬い討△辰2台のカメラと、数本のモノクロフィルムを眺めながら少し考えた。その後、自分の高価なライカにカラーフィルムを装填し、食事を運んでいる妻にデジタルカメラを渡した。

「早く、何枚か撮ってくれ。さっきみたいに!」

「なにしてるの? あなた、顔色が……いったいどうしちゃったの?」妻はおびえたように汪茲鮓つめる。

「いいから。撮れ!」

妻は手に持っていた皿を置いて、汪茲里箸海蹐砲笋辰討た。瞳の中は先ほどのおびえに加えて、心配そうな表情も浮かんでいる。

汪茲郎覆貿悗鮓けて歩いていくと、コダック製のデジタルカメラを食事中の6歳の息子に渡した。

「豆豆、お父さんのために撮ってくれ、ここを押せばいいんだ。そうだ。これが1枚目、また押してごらん、そうそう、もう1枚だ。こんなふうに撮っていってくれ、なにを撮ってもいいぞ」

豆豆はすぐに操作に慣れた。面白がって、休みなく撮影しまくる。汪茲録箸鯔櫃掘▲愁侫,ら自分のライカをとって、撮影をはじめた。父子ふたりはパシャパシャと狂ったように写真を撮っていたが、残された妻は次々に光るフラッシュの中、なすすべもなく立ちつくしていた。目には涙がにじんでいる。

「ねえ、最近、仕事のストレスが大きいのは知ってるけど、でもこんなこと……」

汪茲魯薀ぅの中の残っていたフィルムを撮り終えると、息子の手からデジタルカメラを奪いとった。ちょっと考えてから、妻に邪魔されないよう、ベッドルームに入ってデジタルカメラで何枚か写真を撮った。撮影するときはファインダーを覗き、液晶画面は見ないようにした。結果を知るのが怖かったからだ ── 遅かれ早かれ、知ることになるのだが。

汪茲魯薀ぅのフィルムを持って暗室に入り、ドアをしっかりと閉じて作業にかかった。現像が終わり、フィルムをチェックする。手の震えがひどすぎて、ルーペを両手で持つしかなかった。フィルム上では、やはりゴースト・カウントダウンがつづいていた。

汪茲楼甜爾鯣瑤喀个掘⊆,縫妊献織襯メラの写真を調べはじめた。カメラ本体の液晶画面で再生すると、たったいま撮ったデジタル写真のうち、息子が撮ったものにはカウントダウンが現れていない。それに対し、自分で撮った写真にはカウントダウンがはっきりと映り込み、フィルムの場合と同じように数字が変化している。

違うカメラを使ったのは、カメラもしくはフィルムから問題が生じたという可能性を排除するためだった。あまり考えもしないまま息子に撮影させ、その前には妻にも撮らせたが、それによって、さらに不可思議な結論が得られた。カウントダウンは、汪莠身が撮った写真にだけ出現している!

汪茲麓棄(やけ)になって、現像したフィルムの山をつかんだ。それはまるで、からみつく蛇か、なかなか外せない絞首台のロープのようだった。

この問題を自力で解決できないのはわかっていた。でも、だれを頼ればいい? 大学や研究所の同僚たちはダメだ。彼らも自分と同様、技術畑の人間で、テクニカルな思考回路の持ち主だ。今回の件は、技術の範囲を超えている。汪茲歪彰凝にそうさとっていた。丁儀はどうだろう。だが丁儀は、彼自身、精神的危機に直面している。汪茲最後に思い出したのは〈科学フロンティア〉だった。彼らの中にはものごとを深くつきつめて考える思索家がいて、しかも科学技術に凝り固まらない、広い心を持っている。汪茲蓮⊃酋匁法淵轡Д鵝Ε罅璽侫Дぁ砲謀渡辰鬚けることにした。

「申博士、少し相談があって、おたくに伺いたいのですが」汪茲論擶詰まった口調で頼み込んだ。

「来れば」申玉菲はそれだけ言って電話を切った。

汪茲篭辰い拭たしかに申玉菲は、日ごろから必要なこと以外、口にしない。〈科学フロンティア〉の一部の人間は、彼女のことを女ヘミングウェイと呼んでいるくらいだが、いまの彼女は、なんの用かとさえたずねなかった。汪茲呂修里海箸任曚辰箸垢戮なのか、それとも不安に思うべきなのかもよくわからなかった。

汪茲聾汁したフィルムをまとめて鞄に放り込み、デジタルカメラを携え、妻の不安な視線を背中に痛いほど感じながら家を出た。いつもなら自分で車を運転して行くところだが、今回はたとえ街の灯がさんさんと輝く都会でも、ひとりにはなりたくなかったので、タクシーを呼んだ。

申玉菲は比較的新しい通勤路線の沿線にある高級別荘地に住んでいる。このあたりの外灯はかなり少ない。別荘は、釣りができるように魚が放流された小さな人工湖を囲むように建ち並び、とりわけ夜になると、田舎のような雰囲気があった。

申玉菲は見るからに裕福な暮らしをしているが、汪茲呂修了餠盡擦なんなのか、いまだに知らなかった。以前の研究での地位や、現在の勤め先から考えて、それほど多くの資産があるはずはない。もっとも、彼女の家は、〈科学フロンティア〉の集会場になるだけの広さがあるとはいえ、豪華なところはまるでなく、会議室を備えた小さな図書館のような内装だった。

リビングに入った汪茲蓮⊃酋匁砲良廖Å伽(ウェイ・チョン)を見かけた。40歳くらいで、誠実な知識人の雰囲気を漂わせている。彼について汪茲知っているのは、名前くらいだった。申玉菲が紹介してくれたときも、名前しか聞いていない。魏成はどこにも勤めていないらしく、いつも家にいた。〈科学フロンティア〉の議論にも関心がないようで、家を訪ねてくる学者たちに対しても、まったく気にかけるようすがない。ただし、なにもしていないというわけでもなく、明らかに家でなにかを研究している。ほとんど一日じゅう考え込んでいて、だれかと顔を合わせるとうわのそらで挨拶し、階上の自室に戻る。魏成は一日の大半をそこで過ごしている。汪茲楼貪戞△燭泙燭2階の部屋のドアが半開きになっていたとき、無意識に中を覗いたことがあった。魏成の部屋には驚くべきものがあった。ヒューレット・パッカード製のミッドレンジ・ サーバだ。このマシンは汪茲凌場のナノテクノロジー研究センターにもあるから、見まちがえるはずがない。その深いグレーの筐体(きょうたい)は、数年前に発売されたIntegrityサーバ rx8620だ。100万元もする計算設備がなぜ自宅に置いてあるんだろう。魏成は毎日ひとりでそれを見ながら、いったいなにをしているのか。

「玉菲は上でちょっと用を済ませてから来るので、少しだけお待ちください」魏成はそう言って、こちらが気づまりにならないように配慮してか、汪茲劼箸蠅鮖弔靴董⊂紊粒へと上がっていった。汪茲和圓弔弔發蠅世辰拭だがいてもたってもいられず、魏成のあとを追って階段を上がると、魏成があのミッドレンジ・ サーバが置いてある部屋に入っていくのが見えた。魏成は汪茲ついてきたのを見ても、気にするそぶりすら見せず、向かいの部屋を指して言った。「彼女はそこの部屋です。どうぞ」

汪茲その部屋のドアをノックすると、施錠されていないドアがすこしだけ内側に開いて、隙間ができた。申玉菲がコンピュータの前でゲームをやっているのが見えた。驚いたのは、彼女がVスーツを装着していることだった。Vスーツは、いまゲームマニアのあいだで大流行しているインターフェイスで、ヘルメット型の全方位ヘッドマウントディスプレイと触覚フィードバック全身スーツで構成されている。全身スーツは、ゲーム中の感覚刺激をプレイヤーに伝える。こぶしで殴られたり、刀で切られたり、炎に焼かれたり。酷暑や厳寒も体験できるし、肉体が風雪にさらされる感覚までリアルに再現する。

汪茲蓮⊃酋匁砲凌燭Δ靴蹐卜った。ゲーム映像はヘッドマウントディスプレイ上に360度映し出されるので、コンピュータのモニター上にはウェブブラウザが表示されているだけで、とりたてて派手な動きは見られない。そのとき、史強がURLやメールアドレスを見たら記録しておけと言っていたことを思い出して、汪茲鰐軌媼韻里Δ舛縫▲疋譽好弌爾鯒舛い拭ゲームのURLに使われている単語はとても風変わりで、すぐに覚えられた。

www.3body.netだった。


『三体』
(2019年7月4日発売 2,052円/劉 慈欣:著、立原透耶:監修、大森望/光吉さくら/ワン・チャイ:訳、早川書房刊)

物理学者の父を文化大革命で惨殺され、人類に絶望した中国人エリート女性科学者・葉文潔。失意の日々を過ごす彼女は、ある日、巨大パラボラアンテナを備える謎めいた軍事基地にスカウトされる。そこでは、人類の運命を左右するかもしれないプロジェクトが、極秘裏に進行していた。数十年後。ナノテク素材の研究者・汪茲蓮△△覯餤弔望圭犬気譟∪こεな科学者が次々に自殺している事実を告げられる。その陰に見え隠れする学術団体〈科学フロンティア〉への潜入を引き受けた彼を、科学的にありえない怪現象〈ゴースト・カウントダウン〉が襲う。そして汪茲入り込む、三つの太陽を持つ異星を舞台にしたVRゲーム「三体」の驚くべき真実とは?

本書に始まる《三体》3部作は、本国版が合計2,100万部、英訳版が100万部以上の売上を記録。翻訳書として、またアジア圏の作品として初のヒューゴー賞長篇部門に輝いた、現代中国最大のヒット作。

劉 慈欣|りゅう・じきん/リュウ・ツーシン
1968年、山西省陽泉生まれ。発電所でエンジニアとして働くかたわら、SF短篇を執筆。『三体』が、2006年から中国のSF雑誌《科幻世界》に連載され、2008年に単行本として刊行されると、人気が爆発。中国全土のみならず世界的にも評価され、2015年、翻訳書として、またアジア人作家として初めてSF最大の賞であるヒューゴー賞を受賞。今もっとも注目すべき作家のひとりである。