学生の窓口編集部

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歴史の研究が深化して、通説を疑う説が多く登場しています。「聖徳太子って本当にいたの?」なんて話は皆さんもご存じなのではないでしょうか。実は、みんなが知っている歴史上の人物なのに史料がほとんど残っていない、という人はけっこういるのです。

■織田信長の正室「濃姫」は謎の人
戦国時代の英雄・織田信長の正室、いわゆる「濃姫」と呼ばれる女性がいたことは分かっているのですが、彼女がどのような生涯を送ったかは全くの謎です。というのは、濃姫に関する史料がほとんどないのです。

斎藤道三の娘で、織田信長に嫁いだのは分かっているのですが、例えば織田信長が本能寺で死んだとき彼女は生きていたのか、もし生きていたとすればその後どうなったのか分かりません。また「濃姫」というのも「美濃の国の姫」という意味で、本名は分からないというのが定説です。

ちなみに、濃姫について「帰蝶」という名前とされることがありますが、これは『美濃国諸旧記』にそのような表記があるからです。また「帰蝶」は「胡蝶」の誤記(崩して書くと「帰」と「胡」は似ているので)ではないかという指摘もあります。

■石田三成の名臣「島左近」は謎の人
石田三成といえば、関ヶ原の戦いで徳川家康に挑んで敗れた武将として有名ですね。その石田三成には「島左近」という有能な武将が仕えていました。ドラマなどでも、三成の謀臣として活躍する姿が描かれたりします。

が、実はこの島左近も史料がほとんどない、謎の人物なのです。関ヶ原の戦いで死んだ、とされますが、その裏付けとなる史料はありません。関ヶ原を生き延びたという伝聞もあるぐらいですが、これまた確実なものとはされていません。

石田三成に仕えて後には「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」といわれるほどの人材だとされますが、その過去・死はいまだに確実な史料からは読み取れないのです。興福寺の多門院英俊が1566年(永禄9年)に記録した「嶋の庄屋」が、後の島左近ではないか、という説もあるのですが……。
■軍師「山本勘助」は謎の人!
山本勘助は、2007年(平成19年)のNHK大河ドラマ『風林火山』の主人公になるほど有名ですが、これまた謎の人です。武田信玄に仕え、軍師として活躍し、第四次川中島の戦いで戦死、というのが山本勘助について一般に知られていることです。

しかし、最近まで「山本勘助は架空の人物では?」といわれていました。その名前が出てくるのが『甲陽軍艦』、また『川中島五戦記』に限られているようだからというのがその理由です。この両書とも史料的価値は低いとされています。

ちなみに『甲陽軍艦』での表記は「勘介」で、「勘助」が有名になったのは、井上靖先生の『風林火山』によります。

1969年(昭和44年)に発見された『市河家文書』(信玄自身の花押が入っている文書)内に、「カンスケ」の名前が記されていたのです(ただし、表記は「山本菅助」)。これにより山本勘助は実在した! となりました。

しかし、いまだに彼の人生のほとんどは不詳です。

※……『市河家文書』の真偽を問う説もあります。

■信長に仕えた黒人「弥助」は謎の人!
織田信長に仕えた黒人がいたというのは有名な話です。イタリア人宣教師のヴァリヤーノ師が奴隷として連れて来日。信長に謁見した際に、信長が師から譲り受け「弥助」と名付けて武士として取り立て、身近に仕えさせたというのです。

『日本教会史』によれば、弥助の出身地は「ポルトガル領東アフリカ」(現在のモザンビーク)ですが、その本名などは全く分かりません。

「本能寺の変」が起こった際にも、信長の近くにいたため奮戦しますが、衆寡敵せず明智軍に捕われてしまいます。弥助をどうするか聞かれた光秀は「黒奴は動物にて何も知らず、また日本人でもなき故、殺すに及ばず」と言って、弥助を解放しました。