細木数子と島倉千代子

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 Netflixで4月27日から配信され、大ヒットしているドラマ「地獄に堕ちるわよ」。日本では現在、2週連続で視聴ランキング(シリーズ)のトップを快走している。周知の通り、故・細木数子氏の波乱万丈、毀誉褒貶の人生を「事実に基づいた虚構」として描いた作品である。全体は9エピソードで構成されているが、その中、第6〜8話で詳述されているのが、歌手・島倉千代子との恩讐だ。知人に騙され、4億円超の借金を背負った島倉。そこに現れ、債務を整理し、「恩人」となった細木。一方で、島倉を騙して酷使、搾取し、自身も巨万の富を築いた――。ドラマではこの辺りの経緯がしっかりと描かれていた。では、虚構ではない、事実としての細木と島倉との関係はどのようなものだったのか。「週刊新潮」では、2013年に島倉が没した際、その詳細を取材している。島倉は細木とどのように出会い、なぜ「恩人」と袂を分かったのか。以下、記事を再録し、ドラマよりドラマチックな「昭和芸能史の闇」を明らかにしてみよう。

細木数子と島倉千代子

【前後編の前編】

(「週刊新潮」2013年11月21日号記事を一部編集の上、再録しました)

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【写真】まるで別人…細木数子、“銀座のクラブママ”時代。“死の直前”に入籍した男性とのツーショットも

細木のマスコミ初登場

 化粧気のない顔にサングラスをかけ、憔悴しきった表情の島倉千代子が、同世代と思しき付き添いの女性に手を引かれて現れた。1977年3月22日の晩、東京赤坂のマンハッタンなるディスコで行われた記者会見でのことである。

「大変お騒がせして申しわけありません。うまく言えませんので、今、お世話になっているママに聞いてください」

 島倉が声を詰まらせながらそう言うと、付き添いの女性が語りはじめた。

「守屋氏は島倉の純情を踏みにじって、徹底的に利用したんです。島倉は被害者ですが、加害者の立場に追い込まれて、債権者に迷惑をかけてしまいました。でも、その責任は果たすと言っています」

 それは、あの細木数子がマスコミの前に初めて見せた姿だった。細木の言葉から、島倉が借金をこしらえたこと、その原因が守屋という男だったことがわかる。

怒号が飛び交う修羅場

 島倉が阪神の強打者だった藤本勝巳と結婚したのは、63年のこと。夫婦でクラブを経営するが、蜜月は続かなかった。結婚生活で幸せを感じたのは「1週間だけだった」と島倉は後に語っている。中学を卒業するかしないかで芸能界に入った島倉は、まったく社会生活をしたことがない。阪神のスター選手との結婚は無理だった。クラブ経営による6000万円の負債は島倉が引き受ける形で、2人は69年に離婚した。芸能界に本格復帰した島倉は、実弟を代表にして音楽事務所を設立したが、弟の使い込みが原因で事務所は解散し、弟とは絶縁。このときも負債を引き受け、続いて、守屋義人という眼科医のもとに走る。

 62年に島倉は、ファンが投げたテープの芯が当たって目に重傷を負った。その際、治療に当たったのが守屋氏で、以来、島倉は守屋氏を妄信してきた。弟との事務所が解散してからは、守屋氏が74年、マネージメント会社を作った。

 古参の記者が回想する。

「ところが、守屋氏は不動産業に手を出し、街の金融業者から借金を重ね、振り出した十数億円もの手形を決済できずに、77年2月24日に破産。守屋氏は失踪した。彼に言われるままに3億円近い手形に裏書していた島倉は、一夜にして債権者に追われる身となり、翌日から、彼女が舞台に立っていた新宿コマ劇場には数十人の債権者が押し寄せて、怒号が飛び交う修羅場と化しました」(同)

 その数日後、細木数子の登場と相成るのである。

話ができすぎている

 全盛時の島倉は美空ひばりと並び評されるスター歌手だった。が、美空ひばりとの違いがこんなところにある、と『島倉千代子という人生』の著書があるジャーナリストの田勢康弘氏は言う。

「美空にはすべてを仕切る母がいましたが、そういう人が島倉さんにはいなかった。ほかの家族とは絶縁状態で、傍にいて信頼できる人がいなかったのです」

 かくして、島倉は3年にわたり、赤坂にあった細木の5LDKのマンションで同居するが、そうなった経緯を島倉も細木も当時、概ね次のように語っていた。

 自宅にも債権者が乗り込んできたため、島倉は知人宅に預けられたが、77年2月末日、思いつめてガウン1枚で街をさまよい歩いていると、偶然細木が通りかかった。そして自宅に島倉をかくまったばかりか、同情して借金返済に協力してくれることになった。細木の助けがなければ、島倉はきっと自殺していた――。

 当時、細木は赤坂でクラブ「艶歌」や、ディスコ「マンハッタン」を経営していた。そして3月14日、島倉の代理人として、「艶歌」で第1回債権者会議を開いたとされている。当時を知るノンフィクション作家の塩沢実信氏が言う。

「細木は当時、こんなふうに語っていました。債権者会議では、4億3000万円の手形総額の約3分の1、1億5000万円を現金で用意し、それでよいという債権者には即刻支払うと提案すると、大多数が同意した。こうして島倉の借金は一挙に1億5000万円に減り、債権者も細木ひとりになった――。それを“友情”だと美談に仕立てて報じる芸能マスコミが目立ちましたが、守屋氏の会社が倒産した直後に細木との運命の出会いがあって、あっという間に事態が収拾するとは、あまりにも話ができすぎています」

美談の嘘

 ジャーナリストの溝口敦氏は、細木との“出会いの美談”は嘘だと、こう語る。

「赤坂に安部正明という政界や芸能界、暴力団などに顔が広いフィクサーがいて、その夫人が私に語ったのは、こんな話でした。島倉千代子はコマ劇場の楽屋まで債権者に押しかけられ、困って安部に電話をしてきた。そこで安部は島倉を家に連れて帰り、公演が終わるまで自宅でかくまうことにし、連日、島倉を送迎した。たまたま安部家に遊びに来た細木が島倉の事情を知ると、その送迎役を買って出たというのです」

 街中での偶然の出会いなどなかったのだ。

「細木は当時、クラブやディスコを経営していましたが、あまり儲かってはおらず、安部夫人によれば“その日暮らしだったのではないか”。細木は島倉を送迎し、楽屋でも少しずつ取り入った。そしてコマ劇場の千秋楽、島倉は安部に“お暇をください”と告げる。安部がその言い草に怒ると、玄関口から細木が現れて、慌てて島倉を連れていった。島倉がまたとない金づるだと気づいた細木は、こうして島倉を自分の管理下に置いたんです」(同)

 ちなみに件の「艶歌」は、かつて作曲家の猪俣公章が経営していたが、のちに暴力団の小金井一家の手に渡っている。一家の総長は堀尾昌志という男性だった。

「当時、堀尾の住所は細木が島倉と同居した赤坂のマンションでした。細木は堀尾の内縁の妻で、要は、島倉千代子は債権者の圧力の下から、小金井一家の管理下に移ったのです」

 と塩沢氏。事実、当時の会社登記を確認すると、細木が経営していた中央三光商事の監査役にも、堀尾の名が見て取れる。

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 かくして島倉を自らの管理下に置くことに成功した細木。では、それによって、彼女はどれくらいの富を得たのか。そして、島倉は細木の存在をどのように捉えていたのか。【後編】で詳述する。

デイリー新潮編集部