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<天下一の補佐役>豊臣秀長の目線で歴史をダイナミックに描く、夢と希望の下克上サクセスストーリー・大河ドラマ『豊臣兄弟!』(NHK総合、日曜午後8時ほか)。ストーリーが展開していく中、戦国時代の武将や社会について、あらためて関心が集まっています。一方、歴史研究者の本郷和人先生がドラマをもとに深く解説するのが本連載。今回は「朝倉家の滅亡」について。この連載を読めばドラマ本編がさらに楽しくなること間違いなし!

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一乗谷を拠点に繁栄

越前の朝倉家は、五代およそ百年にわたって繁栄を続けた大名家でした。

ドラマでは、最後の当主である朝倉義景を鶴見辰吾さん、その従弟・景鏡を池内万作さんが演じています。

拠点である一乗谷は文化的にも栄え、また越前という土地自体も、農業生産力が高く、日本海側の交易によって富を蓄えることのできる、きわめて恵まれた地域です。

地理的条件だけを見れば、そう簡単に崩れるはずのない政権であったと言ってよいでしょう。

それにもかかわらず、朝倉家は驚くほどあっさりと滅亡してしまいます。

では、いったい何が問題だったのでしょうか。

朝倉氏が行った「包摂的な支配」とは

この問いを考えるうえで重要なのは、朝倉の支配のあり方です。


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朝倉氏は、越前国内の地侍や在地勢力、さらには一向宗の門徒といった人々を排除するのではなく、むしろ取り込みながら統治を行っていました。

いわば、多様な勢力を内側に抱え込むことで、地域の安定を実現していたのです。

この仕組みは、平時においては非常にうまく機能します。

対立は表面化せず、領国は安定し、経済活動も滞りなく進む。

百年にわたる繁栄は、まさにこの「包摂的な支配」によって支えられていたと言えるでしょう。

強固な結びつきではなかった

しかし同時に、この仕組みは一つの弱点も抱えていました。

それは、構成要素同士の結びつきが、必ずしも強固ではないという点です。

地侍も門徒も、それぞれが自分の基盤を持ち、朝倉家との関係はあくまで緩やかなものでした。

言い換えれば、「まとまっているようで、完全には一体化していない」構造だったのです。

それぞれが離脱したことで…

こうした体制は、中心が安定している限りは問題を起こしません。

しかし一度、その中心が揺らぐとどうなるか。

たとえば当主である朝倉義景が一乗谷を放棄した(あるいは、せざるを得なかった)とき、それは単なる戦術的な後退ではなく、「もはやこの政権は持たないのではないか」という強い印象を周囲に与えました。

すると、それまで内側にとどまっていた諸勢力が、それぞれの判断で動き始めます。

誰かが命令したわけではなく、また一斉に裏切ったというわけでもない。

ただ、それぞれが自分の領地や家を守るために、離脱という選択を取る。

その結果として、全体が一気に崩れていくのです。

「脆さ」を内包していた

この崩壊は、しばしば指導者の資質の問題として語られがちです。

しかし、それだけでは説明しきれません。

むしろ重要なのは、朝倉家の支配そのものが、安定と引き換えに脆さを内包していたという点にあります。

多様な勢力を包み込むことで成り立っていた体制は、中心が動揺した瞬間に、それぞれが自立して解体へと向かってしまう性質を持っていたと考えられます。

朝倉家とは対照的な信長の統制

つまり朝倉家の滅亡は、外からの圧力だけで起こったのではありません。

その内部構造に由来する必然的な側面を持っていました。

百年の繁栄を支えた仕組みそのものが、最後には崩壊の引き金となった――そう考えると、この「あっけない滅び方」も、決して偶然ではなかったことが見えてきます。

そして、このような包摂的な支配とは対照的に、織田信長は、内側の多様な勢力を整理し、一元的な統制のもとに組み替えることで、同じ戦国の世においてまったく異なる強さを発揮したのでした。