DV気質のある60代の父親は、40代の頃にうつ病・糖尿病になった。寝たきり状態になることも多いため、母親だけでなく幼い娘も父親の身の回りの世話や介護をした。父親は会社を経営していたが、倒産し2000万円以上の借金を作った。娘は現在30歳。大卒後も父親の介護をし続け、稼いだ給料は借金返済と生活費・介護費で消える。やがて父親はコロナ禍で余命半年の宣告を受けた――(後編/全2回)。
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【前編のあらすじ】
関西在住の井上夏実さん(30歳・独身)の父親は40代でうつ病と診断された。自己愛が強く、自分が蔑ろにされていると感じるや、母親や娘に暴言・暴力三昧。娘が高校生の頃、父親の会社は倒産。2000万円以上の借金だけが残り、父親のうつ病は悪化、ほぼ寝たきりに。母親から身の回りの世話をされるのを毛嫌いする父親の言いなりで小さい頃から面倒を見てきた井上さんは、大学生活と父親の世話を両立し、なんとか大学を卒業。就職後、仕事の忙しさから父親に割ける時間がなくなると、怒り狂った父親は包丁を手に暴れた。命の危険を感じた井上さんは警察を呼ぶと、父親は精神科へ強制入院となり、3カ月後に退院すると、介護が必要になった。

■時間もお金もない

8年前、大学卒業後に就職した井上夏実さん(仮名・現在30歳・独身)の仕事(販売業)は、朝6時から23時の間でシフトが組まれていた。始発で出発することもあれば、深夜に帰ってくることもある。毎日、決まっているのは、仕事の合間を縫って父親のマンションへ通うことだ。

ほぼ毎日行く理由は、20数年前からうつ病、糖尿病を患い、かつて刃物を振り回したことで精神科に強制入院したこともある父親(現在68歳)に命じられて、その身の回りの世話と介護をするためだ。時間的にも体力的にも精神的にも苦痛だったが、それよりも仕事中にもお構いなしにかかってくる父親からの電話が最大のストレスだった。

「一人暮らしで心細い。体調が悪いので、誰かに来てほしい」。電話の内容は、決まってこのような内容。父親は母親が様子を見に行くことを嫌うため、ひとり娘である井上さんが行くしかない。

父方の祖父母は父親が幼い頃に離婚しており、父親は父親の祖母と母親と姉に育てられたという。父親は子どもの頃いじめられていたため、祖母と母親と姉は「かわいそうに!」と言って家では何でも言うことを聞き、甘やかしたようだ。

「車で2時間ほどの場所に伯母(父の姉)が住んでいますが、伯母は父がこうなったのは、私と私の母のせいだと言います。でも私からすると、私が生まれる前からこのような状態なのは明白なので、『曾祖母と祖母と伯母が幼少期に甘やかしすぎた結果では?』と思います。父は子どもの頃に、『駄々をこねたら何でも願いが通る』と感じたのでしょう。自分に関わる全ての人が、祖母や母や姉のように優しく、何でも言うことを聞いてくれると思ったまま大人になり、自分の言い分は今でも通用すると思っている。その結果、思い通りにならなければキレて、少しでも体調が悪ければ、面倒を見てもらって当たり前、やってもらって当たり前と思っているのです」

井上さんにとっての父方の祖母は10年以上前に亡くなっており、離婚後の祖父のことはわからない。伯母は口だけ出してお金も手も出さないタイプのため、井上さんも母親も、伯母は存在しないものとして、できるだけ関わらないようにしてきた。

井上さんが社会人1年目に、精神科を入・退院した父親はまだ59歳だった。老齢基礎年金も老齢厚生年金も支給開始前だ。ただ、精神障害者保健福祉手帳1級と認定されたため、障害年金を月6万円受給されていたが、父親が経営していた会社が倒産し、抱えた借金の返済がある。

そのうえ浪費家で甘いものを好み、1日2箱吸うほどのヘビースモーカーの父親は、タバコやジュース、菓子パンなどにお金を使ってしまう。そのため、井上さんの月給(手取り20数万円)や母親の収入を合わせても、ギリギリ生活していける程度。

井上さんは、父親の介護の合間に必死に働いて稼いだお金が、父親のために消えていく生活に、「友だちと会う時間も、趣味に没頭する時間も、恋愛する時間もない」「自分は何のために生まれてきたのか?」とやりきれない気持ちになった。

次第に、ふと涙が止まらなくなることや、体調がすぐれない日が増えていった。

■父親の糖尿病悪化と副業

2017年、25歳になった井上さんは、自身の健康状態が悪くなり、父親の介護との両立が難しくなってきた。そのため、拘束時間が長く、ハードな販売の仕事を退職し、介護施設の事務の仕事に転職。

2018年夏、66歳になった父親は、糖尿病が悪化し、具合が悪くなることが増えた。その度に「病院へ連れて行け!」と騒ぎ、2週間ほど血糖値コントロールのために入院しては、退院後1〜2カ月で再び具合が悪くなって入院するということを繰り返すようになっていた。

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「父は、私が作る料理が悪いから、私が外に連れ出して運動させてくれないから、糖尿が悪化したと言いますが、自業自得だと思います。私がどれだけ糖質制限食を作っても、ヘルパーさんに甘いパンやお菓子やジュースを買ってきてもらって、好きなだけ食べているのですから。食べ物を取り上げると激怒しますし、注意をしても攻撃されるだけ。ヘルパーさんも父が怖いので、逆らえずに言いなりになるしかないのです」

井上さんは、大抵の暴言には耐えるが、父親の言動があまりにも酷く、感情が抑えられなくなるときもある。そんなときは、「それは違うんじゃない?」と優しく正すが、それでも父親にとっては、「否定された!」と受け取って一方的に怒り出し、暴れ出すことは日常茶飯事。そのうえこの頃は、糖尿病の悪化のため、血糖値が上がると具合が悪くなり、「病院へ連れて行け!」と騒ぐので、仕事やプライベートの予定がつぶれることが増えていた。

また、父親は自分でパソコンを使い、インターネットで糖尿病の治療をしてくれる評判の良い病院を調べては、「ここへ連れて行け!」「あそこの病院がいい!」と有無を言わさない。時には車で片道1時間以上もかかる病院に連れて行かされることもあった。

介護施設の事務に転職したことをきっかけに、「少しでも収入を増やしたい」と思った井上さんは、インターネットで仕事を探し、副業としてライティングの仕事を始めた。

1年ほど経った頃、「いくらお金のためと言えども、どうせなら自分の好きなこともやりたい」と思い、編曲やBGMの作曲、インターネットサイトのコーディング(プログラミング言語を使ってプログラミングコードを記述する作業)の仕事も受けるように。

井上さんの家にはピアノがあり、井上さんは物心ついた頃から曲を聞くだけで音がわかり、比較的すぐに弾けるようになった。学生の頃は吹奏楽部に入り、楽譜の読み方はそのときに覚えた。作曲や編曲は、好きなアイドルの曲を自分で編曲しているうちに、編曲や作曲に自信が持てるようになっていった。コーディングは、本やインターネットで調べるなどして、独学で覚えたという。

2020年12月、仕事や介護の合間に好きなバンドの曲を聴いていたところ、「人生の主役はあなただ」という内容の歌詞にふと、意識が集中する。漠然と、「私の人生を小説にしたら面白いだろうな」と考え始め、とりあえず短編のエッセイのようなものを書き始めることに。そして2021年2月、Amazonから電子書籍を出版。これまでに250部売れた。

■肺がんが発覚

2021年3月、糖尿病で入退院を繰り返していた父親に、肺がんが発覚。ステージ3、余命半年と宣告された。父親は手術による治療を拒否したが、何とか治りたい一心で、毎日のように違う病院を受診。井上さんは、有無を言わさず運転手だ。

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「父は、手術の痛みに耐えられる自信がなかったようです。どこの病院へ行っても答えは同じで、大きな病院でも、『手術以外に治療方法はないし、救える可能性は少ない』と言われました。それでも諦めきれず、毎日のように父が自分でネットで探して見つけた病院に連れて行かされました。拒否すると、何をされるかわからないので……」

父親は、手術をするべきか、他の治療法はないのかと右往左往しているうちに、がんは進行し、手術対象外になった。肺がんが発覚したあとは、肺がんによる不安のため、精神疾患の方も悪化していった。24時間、365日側に誰かがいてくれないと不安でしかたがないという父親は、井上さんや自分の姉、最も信頼している訪問看護師への依存が強くなり、常に誰かに電話をして話していないと落ち着かなくなっていた。井上さんのスマホには、30分に1回着信があり、内容はいつも「俺なんて早く死んだらいいんだろ?」。電話をかけてきても無言だったり、話しかけても何も答えないなど、気分の波もより一層激しくなり、スマホの通知音がなる度、井上さんは心臓が口から飛び出す思いがした。

2021年6月。68歳になった父親は突然物忘れがひどくなり、「洗濯した服と着た服が分からない!」と言って部屋を泥棒にでも入られたかのようにぐちゃぐちゃに荒らしたりなど、今までにない異常行動が増える。

ある日の夜、マンションの管理人から突然電話がかかってきた。聞けば、父親がマンションの集合ポストの一角に座り込んでいるという。井上さんが慌てて向かうと、父親は座ったまま寝ており、なんとか起こして部屋まで連れて行く。とりあえず部屋に入ると、父親はベッドまで自力で歩いて行き、そのまま寝たのでその日は帰宅。

ところが翌朝、「家の鍵がない!」と電話で騒ぐので、井上さんが駆けつけると、マンションのドアに刺さったままになっていた。

「私が父の家から帰る時は、扉に鍵が刺さっているようなことはなかったので、私が帰ってからまた起きて部屋を出たのだと思います」

井上さんは、父親の異常行動が気になり、肺がんの主治医を緊急受診。検査の結果、がんが脳に転移していることが発覚。そのまま入院となった。

■介護の金銭的負担と制度の矛盾

井上さんは、今年の春まで介護事務として施設で働いていたが、今後の父親の介護や自分の生活のことを考え、副業を開始。フリーランスで稼ぐ力を付けてから退職し、現在はフリーランスでライターや音楽関係の仕事をしている。

「介護離職というわけではありませんでしたが、退職すると同時に父の肺がんが見つかり、急速に悪化。毎日のようにあちこちの病院に連れて行けと振り回されたので、退職したタイミングとしては良かったと思っています」

介護施設の事務の仕事をしながら、お金のために副業を始めた頃、睡眠時間は4時間程しかなかった。

「朝4時に起きて副業の仕事をして、8時に父のマンションへ行き、9時から本業。仕事中も父からのメールや電話の対応に追われ、17時に退勤。父の家へ直行し、夕食の支度やその他の家事を行い、20時に帰宅。0時になるまで副業をする毎日でした」

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この他に、通院がある日は、仕事を休んで父親の通院に付き添った。

副業を始めて、金銭的に少し余裕が生まれてからは、保険外で家事代行や民間ヘルパーを増やし、自費でショートステイや宅配弁当を利用。できた時間でまた副業をして稼ぎ、介護の負担は軽減。

ただ、以前、父親が包丁を持ち出して暴れ、強制入院をして、退院したときはまだ59歳。その頃は精神障害者居宅介護等事業のヘルパーと、自立支援医療(精神通院医療)の訪問看護師を入れながら生活することができたが、父親が65歳になると同時に介護保険に切り替わり、介護認定を受けたところ、要支援2と認定。精神疾患の父親にとっては、介護保険サービスではカバーしきれていない部分が多く、「ニーズに合っていないと感じた」と井上さんは言う。

「父が必要としているサービスは、主にヘルパーでした。自立支援の時は週に3回のヘルパーでしたが、介護保険に切り替わり、介護保険内で利用できるのは週2回となりました。残りの1回を自立支援のサービスと併用する形で生活は成り立っていましたが、突然ヘルパー事務所も支援者も変わるので、環境の変化のために父の体調は不安定になりました。65歳という年齢を境に介護保険が優先され、要支援2だと、保険内で使えるサービスも少ないうえ、派遣されるヘルパーさんも精神障害専門のヘルパーさんではないので、父の扱いに苦労していたようでした」

現在父親は、精神科に入院中だ。深夜の徘徊がきっかけで呼吸器内科に入院したあと、がんの緩和病棟に転院したが、緩和ケア病棟でも深夜の徘徊が収まらず、8月に精神科へ移動になった。

■ピンチはチャンス

入院して1週間ほど経った頃、父親は眠れなかったのか、深夜に看護師を呼び、睡眠薬を要求。すでに渡してあったため看護師が拒否すると、たちまち口論になり、父親は激昂し、看護師を蹴って暴れ出す。何とかその時は、他の看護師たちが複数人で押さえつけ、筋肉注射をして眠らせたと聞いたが、またそんな騒ぎを起こさないか、井上さんは気が気でなく、時々父親のことを考えると動悸がしてくる。

「正直、父に肺がんが見つかり、余命半年と宣告されたとき、私は『やっと介護が終わる。介護に終わりってあるんだ』と思い、ほっとしました。私は今年30歳になりましたが、普通の20代のように、バリバリ働いて、恋愛して、友だちと旅行に行くということができませんでした。介護の合間に必死に働いて稼いだお金も、父のために消え、何度も、『私は父の介護をするために生まれてきたのか?』と存在意義がわからなくなりました。介護自体の辛さというよりは、周りと自分を比べてしまい、自分の置かれている状況に悲観していた時期が一番辛かったです」

そんなつらい時期を脱したのは、昨年の4月。コロナ禍に陥り、「働き方」について考えたことがきっかけだった。

それまでもライティングなどの副業はしていたが、もっと「人の役に立つこと、自分だからできることがあるのではないか?」と思い、介護ブログを立ち上げる。ブログやSNSに、介護を通して感じたこと、学んだこと、自分の価値観や生き方について綴っていくと、読者から「元気が出ました」といったコメントが寄せられるようになり、励みになった。

「ブログやSNSを始めるまでは、『なんで私が介護をしなくちゃいけないんだ?』という思いが強かったですが、嬉しいコメントをもらう度に、『私の経験は無駄じゃなかった』と思えるようになり、悲観して打ちひしがれていた状況を脱することができました」

父親には言っていないが、主治医によると、父親は精神科領域の治療をする以前に、がんが進行して亡くなるだろうと言われている。

「両親には、私をこの世に存在させてくれたことに感謝しています。父のお陰で苦労させられた30年間でしたが、それ以上に生きてることへの喜びを感じる瞬間もあります。今はコロナ禍で難しいですが、好きなアイドルのライブに行ったり、美味しいものを食べたり、友だちと喋ったり。何気ないことが幸せで、そういう時間も生きてこそだと思うので……」

写真=iStock.com/bernardbodo
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母親は、いつも井上さんに「ありがとう、ありがとう」と言ってくれるが、父親からはこれまで一言も感謝の言葉はない。

「父がどう思っているか、本当のところはわかりませんが、精神科病棟で最期を迎えるのは父の性格からして不本意だと思うので、徘徊できないレベルまでがんが進行すれば、緩和病棟に戻してあげたいと思っています」

井上さんを支えてきたのは、大好きなアイドルのライブに行くことだった。父親の介護があるため、思うように行けなかったが、「ライブに行くんだ!」という希望があるだけで頑張れたという。

「現実の生活の中心は介護だとしても、せめて心の中くらいは楽しいことを中心に考えるようにすることで、辛さや苦しさを乗り越えてきたように思います」

井上さんは、現在、やりたい仕事で収入を得、父親を介護し、父親の借金を返済している。

「いつか父親の介護が終わったら、長期旅行へ行き、死ぬほどライブへ行きたい。自分で稼いだお金は自分に使いたい。そして思う存分、自分の時間を自分のために使ったら、恋愛もして、結婚もできたらいいかなと思います」

「コロナ禍」をきっかけに、働き方・生き方を考えた井上さん。「ピンチはチャンス」と言われるように、「逆境の状況」を「絶好の機会」と発想を転換して乗り越えることができる人は、本当の意味で強い人だと思わずにはいられない。

他人の手や助言を受けることは必要なことだが、どんなにつらく苦しいときでも、その状況に甘んじるのも打破するのも結局は自分次第となる。それが現実だ。

ヤングケアラーはじめ、現在わが国では介護の問題が山積しているが、当事者たちはそれが解消されるのを、指をくわえて待っている余裕はない。現状から目を背けずに、冷静にひとつずつ解決していくしか道はないのだ。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。
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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)