「経済力」で大坂町人が大名に”圧勝”する時代の到来…「太閤記もの」ブームに対抗するべく徳川幕府が打ち出した”苦肉の策”

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大阪のシンボル・大阪城を築いた豊臣秀吉。百姓の出自ながら天下統一を果たし、大阪のまちの礎を形づくったこの英傑を、大阪人は親しみを込めて「太閤さん」と呼び愛してきた。

「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」の句に象徴される知略家な一面を持つ武将、派手好きでコテコテな"大阪人気質”の元祖--。そんなイメージで語られがちな秀吉だが、その人物像は、実は時代とともに少しずつ姿を変えてきた。

大阪というまちの歴史とともに揺れ動いてきた「秀吉像」とは一体何なのか。その変遷を紐解く一冊『大阪人はなぜ太閤さんが好きなのか』より一部抜粋・再編集してお届けする。

「大名貸し」の登場

武士を軽んじる風潮の背景には、豪商たちがその経済力で圧倒するようになったこともあったはずだ。江戸中期に入り凶作続きで多くの藩が財政難に陥ると、こぞって大坂の豪商たちから金を借りるようになる。いわゆる「大名貸し」だ。

大名らは豪商に頭を下げ「金を貸してくれ」と頼むのである。豪商らがうんと言わなければ、藩財政が破綻してしまうのだから、どの大名家も必死だった。司馬遼太郎は『大坂侍』でこう書いた。

〈天下の征夷大将軍などと威張っている徳川家でも台所は火の車で、大坂商人から金を借りてやっと息をついている。三百諸侯のなかで、大坂から借金をしていない大名などは一人もいないくらいだ。近頃は、幕府方だけでなく、官軍と称している薩長まで、多額な倒幕軍費を借りに来ている〉

かくして封建社会の頂点に立つはずの大名と大坂商人の関係は、「大坂の豪商一度怒って天下の諸侯懼るるの威あり」と江戸後期の儒学者・蒲生君平が嘆くまでになった。

「太閤記もの」が大人気に

経済力を手にした町人らは、さらに文化の担い手としても武士に取って代わっている。それを演出したのが、元禄年間の大坂に登場した二大スター作家である浮世草子の井原西鶴と人形浄瑠璃の近松門左衛門だ。

このうち近松は、世話物と呼ばれる町人社会に取材した、義理人情や恋愛などの葛藤を描き空前のヒットを呼んだ。越前の武士の家に生まれた近松だったが、武士を町人よりも上とする身分意識に懐疑的で、世話物『夕霧阿波鳴渡』で「侍とても貴からず、町人とても賤しからず、貴いものはこの胸一つ」と大坂の町人の心意気を示している。

町人文学の隆盛は江戸前期に木版印刷の技術が大きく広がったことによるところが大きい。これにより大量印刷が可能となり、まず京都、ついで大坂、そして江戸へと3都で続々と版元が現れ、町人らの読書欲を満たしていった。

この出版インフラのもとで大坂で脈々と受け継がれてきた反徳川、反権力の感情が、町人文学の世界で豊臣家による統治を懐かしむ思慕の念と結びついて秀吉の伝記である「太閤記もの」と呼ばれるジャンルを生み出し、それが大坂を中心に大ブームを生むようになる。

「太閤記もの」のはしりは、寛永3年(1626年)に儒学者・小瀬甫庵による秀吉の一代記『太閤記』が印刷されたことにある。この『甫庵太閤記』を底本に、その後、さまざまなバージョンの太閤記が出版されるようになり、なかでも寛政9年(1797年)に出版された『絵本太閤記』は、絵入りの庶民向けの簡易な内容が大ウケして、5年間で7編84冊も刊行される江戸時代屈指の大ベストセラーとなる。

人形浄瑠璃や歌舞伎などでも太閤ものは数多く上演。特に歌舞伎では木下藤吉郎と名乗っていた青年期を題材にした「出世奴」と呼ばれるものが人気を博した。出自を乗り越えて秀吉が立身出世を遂げるストーリーが大坂の町人らの喝采を浴びたのである。

幕府のお触れで主役を明智光秀に変更

この「太閤記もの」ブームに危機感を募らせたのが幕府である。秀吉人気が高まることは、豊臣家を滅ぼした徳川にとって当然ながら都合が良くないからだ。

享保7年(1722年)、幕府はお触れを出している。

「権現様の御儀は勿論、惣じて御当家の事、板行・書本自今無用に仕るべく候」

家康のことはもちろん、徳川家のことを印刷して本を出版することは今後まかりならんというわけだ。

江戸時代、幕府の開祖である徳川家康を批判的に扱うことは厳しいタブーとされていた。家康が豊臣家から権力を簒奪したと描くなど断じて許されないことは言うまでもなく、秀吉と並べて家康をこき下ろすようなこともダメだ。そんなことを許せば、大活躍する秀吉の傍らで家康がまるで脇役のようになってしまう。『絵本太閤記』は幾度も発禁処分を受けた。

秀吉を英雄視することに神経を尖らせる幕府による統制は続き、人形浄瑠璃『絵本太功記』では主役を明智光秀に変え、役名は「武智光秀」。準主役の登場人物は羽柴秀吉ならぬ「真柴久吉」。そもそもタイトルからして「太閤」ではなく「太功」だ。ここまですることで、かろうじて上演を認められていた。

【後編を読む】たった“1日”で幕府から新政府に寝返り…政治権力に全く身を捧げない自由奔放な「大坂町人」の実像

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