入団1年目の古田敦也に最悪の評価を下していた野村克也が手のひらを返した“一瞬のきっかけ”とは…「眼鏡のキャッチャーはいらん」「何でこんなサイン出すんだ、ボケ!」
〈「次のスーパースターが出てきたじゃないか」日本の首脳陣は評価しないのに…“三冠王助っ人外国人”だけがイチロー(18)の“恐ろしい才能”に気づいた瞬間〉から続く
1989年のドラフト会議でヤクルトに2位指名された古田敦也だが、就任したばかりの野村克也監督の評価は最悪だった。さらにプロの先輩投手からは「新人にリードはさせない。必死に捕れ」と見下される始末。
【画像】目を合わせずそれぞれが苦々しい表情を浮かべる「野村克也監督」と「古田敦也」の貴重な写真
そこから彼が正捕手の座を射止め、ついには野球殿堂入り捕手に選ばれるまで、いったいどのような困難を乗り越えてきたのか。中溝康隆氏による『プロ野球1年目の分岐点』(PHP新書)の一部を抜粋して紹介する。

古田敦也 ©文藝春秋
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捕手能力の高さに驚いた指揮官
1989年のドラフト会議で、ヤクルトは事前にこの年の目玉選手の野茂英雄(新日鐵堺)を抽選でハズしたら、外れ1位で西村龍次(ヤマハ)、2位で甲子園V右腕の吉岡雄二(帝京高)、そして3位で古田の指名を予定していたという。だが、1位で大森剛(慶應義塾大)を1本釣りした巨人が、2位で狙っていた元木大介(上宮高)をダイエーから1位指名されたことによりこのプランは崩れる。元ヤクルトスカウト部長の片岡宏雄は、そのときの心境をこう語っている。
〈「そりゃそうや。もうこりゃ、あかんと思うたよ。ウチ以上に巨人も捕手が欲しい。大森を上で行ったということは、2位で古田を取りにくる可能性が強くなるわけやからな」(『週刊ベースボール』1989年12月18日号)〉
こうしてヤクルトは2位で古田を指名するわけだが、実は監督に就任したばかりの野村克也は、社会人出身キャッチャーの獲得に乗り気ではなかった。9年連続Bクラスに低迷するチーム事情から、とにかく即戦力の投手が欲しい野村は、古田を推薦する片岡にこう反論したという。
〈「眼鏡のキャッチャーはいらん。大学出で日本代表だからと言っても所詮、アマチュア。プロはそんなに甘くない。それなら元気のいい高校生捕手を獲ってくれ。わしが育てる」(『プロ野球スカウトの眼はすべて「節穴」である』/片岡宏雄/双葉新書)〉
なお、立教大出身で長嶋茂雄の後輩にあたる片岡と野村は当時からそりが合わず、のちに野村本人はこの発言を否定している。
即戦力ルーキーという雰囲気ではなかったが…
しかし、実際に入団直後の古田の扱いは、期待されているとは言い難かった。監督の野村の考えを知ろうとその著書を読破していたが、当初は指揮官に挨拶をしても無愛想な返事だけ。古田自身もヤクルトの米国ユマ・キャンプでは木製バットへの不安を口にするなど、決して即戦力ルーキーという雰囲気ではなかった。
しかし、いざ背番号27が紅白戦でマスクをかぶると、投手陣からは「とても新人とは思えない」と絶賛の声が相次ぐ。捕球してからの二塁送球のタイムを計れば、抜群の速さをみせて賞金をかっさらう。技術だけでなく、パドレスの元新人王捕手サンティアゴに物怖じせず捕球技術や送球方法を聞く度胸のよさもあった。実はキャンプイン後に野村監督も、古田の捕手としての能力の高さに内心驚いていたという。
〈「初めて古田のプレーを見たのは90年春のユマキャンプでした。その時点ですでにスローイングもキャッチングも天才的なほど素晴らしかった。股関節も柔らかく、腰がしっかりと落ちるから安定感も抜群。肩は特別強いとは思わなかったけど、捕ってからがとにかく速い。“あとは配球術だけ教え込めば正捕手としてモノになる”、そう思ったことを覚えていますよ」(『ベースボールマガジン』2021年12月号/1990─98「野村ヤクルトID野球の遺伝子」)〉
前年のヤクルトの捕手陣は秦真司82試合、中西親志76試合、八重樫幸雄15試合とレギュラー不在に悩まされ、盗塁阻止率・268はリーグワーストだった。すると野村新監督は1990年の開幕直後こそ、打力に定評のあった秦を正捕手で起用したが、課題の守備面で不安を露呈し、4月28日の巨人戦からスタメンマスクに24歳の古田を抜擢したのである。30日のカード3戦目で初安打・初打点を記録。チームを勝利に導き、野村監督は「会心のリードや。打ったから言うんじゃない。今日の殊勲者は古田だよ」と働きぶりを絶賛した。
指揮官に必死に食らいついて
先輩選手の栗山英樹と経済問題や社会情勢を語り合う変わり種ルーキーは、5割を超える盗塁阻止率が話題となるが、『週刊ベースボール』記者の直撃にも「重要なのは盗塁阻止率より、相手チームの『盗塁企画数』だと考えています。なぜなら、それが少ないほど走りづらい捕手だと警戒されている裏付けですし」と冷静に答えている。
やがて秦は外野へコンバートされ、ライバルと目された若手捕手の飯田哲也も二塁へ。急ピッチでチーム再編を進めるID野球の中心には、「キャッチャー古田」がいた。正捕手の座を摑むと6月6日の広島戦でプロ初アーチを放ち、オールスター戦にも監督推薦で選出。新人捕手の球宴出場は田淵幸一(阪神)以来、21年ぶりの快挙だった。そんな順風満帆に見えた古田のプロ1年目だったが、本人は野村監督の高い要求に応えようと日々苦しんでいた。
〈「配球一つで試合の流れが変わるので、そういうところを口すっぱく。監督からは『何だ、あの配球は』『何でこんなサイン出すんだ、ボケ』と。試合に出てると、不安ばっかりなんですよ。とくに1年生なんてね。先輩の投手ばっかりで、サインを出しても抑えられるかわからないし、相手はみんなよく打つし。『どうしたらいい、どうしたらいい』って、ずっと不安のなかでやっていました」(『証言 ノムさんの人間学 弱者が強者になるために教えられたこと』/古田敦也・宮本慎也他/宝島社)〉
それでも、一度プロから見放された男は必死に食らいつく。試合中、野村監督に何度も呼ばれて立たされたまま説教をされるので、いつからかベンチでは自分から監督の前に座った。それはルーキーにとって戦いの日々でもあった。上司の叱責から逃げるのではなく、あえて懐に飛び込む。古田は割り切っていた。プロで実績を残すまでは、文句を言ったところで誰も聞いてくれない。
ボヤきが理不尽であろうが、腹が立とうが、偉大な名捕手の監督からなにかを言われたら、とにかく元気よく返事することを心がけた。そして、試合に出続けることで、経験と信頼を積み重ねていったのである。野村監督は、厳しく指導する一方で、年俸700万円のルーキーの働きにこんな言葉を残している。
〈「アイツ、オレよりいい読みをすることがある。いまのウチの投手陣は、捕手のリード次第で生きたり死んだりするレベルなんだ。古田の力で勝敗が左右されるんだよ。そんな状況でオレが使い続けるんだから、アイツを“代理監督”と思ってもらってもいい」(『週刊ベースボール』1990年8月13日号)〉
野村ヤクルト1年目は5位に終わるも、古田は106試合に出場。打率・250、3本塁打、26打点。盗塁阻止率・527(企画数55、阻止29)はリーグトップで、新人捕手として史上初のゴールデン・グラブ賞を受賞した。翌91年には、セ・リーグ捕手の歴代最高打率・340で、落合博満(中日)との熾し烈れつな争いを制し首位打者を獲得。チーム11年ぶりのAクラス入りに貢献すると、プロ3年目の92年には攻守の大黒柱として野村ヤクルト初優勝の原動力となる。
“戦う選手会長”「代打、オレ」
あの野村克也が認めた、グラウンド上の代理監督。瞬く間に、“平成最強捕手”へと駆け上がった古田敦也だったが、その頃にはもう、「メガネの捕手は大成しない」なんて誰も言わなくなっていた。卓越した技術と頭脳と度胸で球界のキャッチャーのイメージを変えた男。現役引退後に古田は自身の野球人生の分岐点とも言える、駆け出しのプロ1年目をこう振り返っている。
〈「私も1年目、ある投手に『新人にリードはさせない。おまえは内角か外角かのサインだけを出して、そこに構えればいい。あとは必死に捕れ』とはっきりと言われました。プライドもあったのでしょう。ただ、そこで嫌がって相手を敬遠したのではプロ失格。だから、『どうすれば信用してくれるのか』と考えました。とにかく話しかけ、試合ではしっかり捕る。それを繰り返していたら、バッテリーを組んで5試合目くらいに『今日からおまえに任せる』と言ってもらえたんです」(「週刊ベースボールONLINE」2016年6月23日)〉
粘り強く物事を考え抜く古田は、2004年の球界再編時には、“戦う選手会長”として最前線で12球団制の維持に奔走。翌05年に捕手としては野村克也以来史上2人目の通算2000安打を達成し、06年からはヤクルトの選手兼任監督で指揮を執り、「代打、オレ」が話題となった。
大学時代のドラフト指名漏れの屈辱から、ついには野球殿堂入り捕手へ。もし、あの時、古田が事前の予定通りパ・リーグの球団に指名されていたら、平成球史は大きく変わっていただろう。振り返れば、その1987年のドラフト会議で話題を独占していた大学生が、古田と同学年の長嶋一茂だった。
(中溝 康隆/Webオリジナル(外部転載))
