【山本譲二 我が道番外】「ボート人生」全国24カ所制覇 出合わなかったらビルの2棟は持っていた
人生に「もし」があったら、とたまに考えます。もし、ボートレースと出合わなかったら、間違いなくビルの1棟や2棟は余裕で持っているでしょう。半分冗談ですが、それなりにボートレース協会や関係者の方々に貢献してきたことは間違いありません。
ボートレースとの出合いは、小学3年生のころにさかのぼります。誇張抜きに、自宅から野球場に行くのも、ボートレース場に行くのも大差ない距離だったこともあります。父の武に初めてレース場に連れて行かれました。今はそういう習慣はなくなりましたが、当時はレーサーがボートで入場してくる時、メインスタンドに向かって全員がピーンと右手を上げてあいさつしていました。その姿が実に格好良くて、自分もレーサーになりたいと憧れました。当然、その時は父が熱くなっている姿を見ていただけでした。
高校を卒業して大興製函という会社に就職し、初めて給料をもらいました。確か1万4000円でした。ここまで育ててもらった感謝の気持ちもありましたから、母親に少しお小遣いを渡しました。それを見ていた父が「ワシにもちょっとくれや。譲二、ボート行くぞ」と半ば強引に連れていかれました。
レース場に着くと、父の解説が始まりました。「6コースの清水って男は本番になると強いんよ。来るかもしれんぞ」としきりに言います。そこで6―1、6―2、6―3と100円券を3枚買いました。すると来ました。6―2。たった300円が、なんと1万4000円になりました。わずか2分弱で、1カ月働いた給料の1万4000円になってしまったのです。いわゆるビギナーズラックというものでしょう。これでハマらない方がおかしいでしょう?「ボート人生」の始まりでした。これまでに全国24カ所のボートレース場すべてを回り、ずっと夢を追いかけてきましたね。
歌手になる前、赤坂のクラブでボーイをしていた時代も平和島に通っていました。金もないくせに、中野から2000円ぐらいかけて平和島までタクシーで行って、帰りは大森までの無料バスで帰るパターンが多かったですね。山本譲二になってからも「ボート好き」はすっかり定着しました。スポニチさんにも江戸川のG1レースの時にゲスト予想で呼んでいただき、紙面を飾ったほどです。
ボートレースで最も忘れられないのは、多摩川レース場で大負けして、本当に10円しか残らなかった時です。帰りの車のガソリン代もありません。困り果ててレース場近くのガソリンスタンドまで行き、公衆電話から前川清さんに「多摩川で負けて、レース場のすぐ近くのスタンドにおるんですが」と泣きの電話を入れました。怒るでもなく淡々と「ちょっと待っとき」と言って電話を切った清さん。しばらくすると白いベンツでガソリンスタンドに現れ「これで帰れる?」と1万円札をスッと出して帰って行きました。本当に格好良くて、清さんに後光が差していました。
◇山本 譲二(やまもと・じょうじ)本名同じ。1950年(昭25)2月1日生まれ、山口県下関市出身の76歳。早鞆高3年の67年、夏の甲子園出場。74年に「伊達春樹」として「夜霧のあなた」で歌手デビュー。北島三郎に師事し、78年「山本譲二」として再デビュー。80年発売の「みちのくひとり旅」が81年にかけてロングヒット、ミリオンセラーに。NHK「紅白歌合戦」に計14回出場。
