同じ自動運転バスでも人型ロボットが運転したほうが安心? 利用客は自動運転バスにまだまだ「抵抗アリ」だった

この記事をまとめると
■熊本市のアンケートでは自動運転バスへの抵抗感が示された
■複雑な交通環境や運転経験が不安心理を生み出している
■ヒューマノイド運転士が現実的な代替案として注目される
自動運転バスに広がる違和感
全国的に自動運転バスの実証実験が行われているが、先日興味深い報道があった。熊本県熊本市では同市内JR南熊本駅から花畑広場前を結ぶ路線での自動運転バスの実証運行について利用者アンケートを行った結果、「自動運転バスの走行に抵抗感がある」と答えたひとが76%、さらに47%が実際の乗車中に「違和感を覚えた場面があった」と答えていたとしていた。
昭和のころに比べれば日本における道路などの運転環境はかなり改善されているともいえる。しかし、実際に日常生活で自家用車を運転していたり、過去に運転していた経験のあるひとから見れば、改善されたとはいえど、自転車や歩行者なども加わり複雑な道路環境のもと、事故のないように安全運転を心がけてきた経験があるだけに、自動運転と聞いたその時点で「大丈夫なのかなあ」と思うのは自然の反応ともいえよう。

また、自分の運転技量は別としても、他人が運転するクルマに同乗して不安を覚えるといったこともあるので、今回のアンケートにおける抵抗感や違和感も、システムそのものに対するものなのか、前述したように自分の経験に基づいた先入観のようなものに基づいた回答なのかは、さらに深堀りする必要があるかもしれない。
筆者が運転中、右折レーンで右折待ちしていると、最前列の路線バスが対向車がいないのにもかかわわらず一向に右折しようとしないシチュエーションに遭遇したことがある。ようやく右折した路線バスをよく見ると自動運転バスであった。右折している路線バスの正面には右折待ちしている対向車がいたので、これを前進してくる対向車と認知して曲がろうとしなかったようなのである。
いまは実証実験の段階が大半であり、自動運転バスの周囲を走るクルマのドライバーもよくわからず様子見しているが、本格営業運行すれば「自動運転バスは右折に時間がかかる」など挙動がわかるようになり、この独特の感覚を嫌がるドライバーによって、右折待ちする路線バスの後ろから路線バスを無視して右折するなど危険な状況が顕在化するかもしれない。

バス業界では、自動運転化とともに海外からの技能実習生によるバスの運行も積極的に進めている。自動運転では自動運転システムを搭載したバスによる無人運行が最終到達点ともいわれていたが、ここ最近、映画『ターミネーター』などでもお馴染みのヒューマノイドが既存の運転席のしっかりあるバスを運転するという自動運行がふたたび注目されてきている。
ヒューマノイドが運転を担う新たな形
先日も中国での旧正月である春節中の現地のテレビ番組などで、すべてヒューマノイドによるお祝いのパフォーマンスといったものが放送されて話題になっているが、それどころかすでにヒューマノイドが工場で製品を作っているという話まである。
少子高齢化が加速度的に進む中国だが、独特の政治体制を考えれば、「働き手が足りないから……」と海外から広く働き手を受け入れると、反政府活動を誘発し政情不安になりかねないという判断もあるのか、ヒューマノイドの開発や実用化では世界トップをいっているともいわれている。

出生率が世界最低水準となる韓国のヒョンデも先ほど、工場内軽作業とはなるものの、自社開発したヒューマノイドを使うと発表したら、生身の工場作業員との労使問題に発展したとの報道があった。さらにはヒューマノイドの開発及び生産に名乗りをあげる企業が世界的に増えてきているようである。
無人運転バスでは専用車両及びオペレーティングするシステムなどの導入が必要となる。ヒューマノイド運転士でも本体や関連システムの導入が必要となるが、現状の有人運転タイプの一般的なバスでも数千万円するとされる(路線バス)車両は現状保有している車両で賄えるので、導入コストの問題にもなるのだが、無人運転に対してヒューマノイド運転士によるバスの運行というものが、経済的にも実用化へのスピードも含めて現実味を帯びてきているともされてきた。

前述した自動運転に対する違和感や抵抗感に戻るのだが、「誰も運転しない(いまは補助員が運転席にいるかもしれないがいずれ無人になる)」バスよりも、愛想よくプログラミングされた、たとえヒューマノイドであろうが、「誰かが運転している」バスのほうが乗客の安心感は得やすいのかもしれない。
1980年代に青春時代を謳歌していた筆者だが、そのころ映画やテレビドラマで「未来のもの」とされていたものがドンドン当たり前のように日常生活に入ってきている。ヒューマノイドが映画のように自我に目覚めて人類を攻撃してこないことを祈るばかりである。



