イチローはルーキーだった92年、ジュニア球宴でMVPに輝いた【写真:産経新聞社】

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新人時代のイチローに出会った山森雅文さん「これ、絶対やられるわ」

 米大リーグで通算3089安打を放ったイチロー氏は、日本人として初の米野球殿堂入りが決まり、27日(日本時間28日)にニューヨーク州クーパーズタウンでセレモニーに参加した。打撃と並ぶイチロー氏の魅力が、強肩と脚力を生かした外野守備だ。18歳で入団したオリックスにいた守備の達人が、当時のイチロー、いや“鈴木一朗”の姿を振り返ってくれた。(取材・文=THE ANSWER編集部 羽鳥慶太)

「肩が強くて、足が速い。その印象がすごかったです。最初は3年くらいは抜かれないな。大丈夫だと思っていたんですよ。でも途中からもう、これ絶対やられる。抜かれるなと。そう思ったらもう、あっという間でしたね」

 18歳の「鈴木一朗」から受けた印象は今も生々しい。こう口にするのは阪急、オリックスで外野守備の名手として鳴らした山森雅文さんだ。ドラフト4位で入団してきたイチローと出会った1992年、自身は31歳。当時の感覚で言えば、現役生活の終わりを意識する頃だった。

 愛工大名電高では投打二刀流だったイチローは、プロでは外野に専念。そして1年目から1軍のシートノックに参加したことがあった。のちに“レーザービーム”として世界を釘付けにする爆肩を、すでに披露していた。「肩強えな、こいつ……ってね。モーションは大きかったけど、強さがケタ違い。コントロールもいいですし」。当時のイチローは中堅を守ることが多かった。ポジションがかぶる山森さんが、13歳下のルーキーに伝えたチームの伝統があった。

 オリックスの前身は阪急ブレーブス。1975年から日本シリーズを3連覇するなど長くパ・リーグで強豪の地位にあった。特に外野守備は鉄壁で、通算1065盗塁の福本豊を中心に、伝統が息づいていた。

イチローにも『落下地点まではよ行け』と。そう言ったのは覚えていますね」

 どういうことか。福本さんは山森さんによく「もう目を切って、どこに落ちるか、そこだけや。それが一番速い」と言っていたのだという。バットがボールに当たる音がした瞬間に打球から目を切って、大体ここに落ちると想定した地点に走り出せというのだ。極論するなら、打者の癖や配球から考えれば、打つ前にスタートを切れるはずだというのだ。

18歳のイチローが周囲を驚かせた生活習慣「2000どころじゃない」

 練習としては、フリー打撃の際にわざと5メートルほど前に守り、打球が頭上を越えていくようにする。打者と打球を見続けていると、打球が大体どこに落ちるか、自分の感覚と合ってくるのだという。山森さんはのちにロッテのコーチとして、この考え方をゴールデングラブ賞に2度輝く岡田幸文に伝える。イチローの原点も同じだった。

 またイチローのオリックス時代、試合前のノックやキャッチボールで見せる「背面キャッチ」が名物だった。上体を低くして、背中に構えたグラブへ面白いようにボールが収まるのだ。これも元々、山森さんたち阪急の外野陣がやっていた遊びだ。実質的な意味もある。「いつも同じ捕り方をするんじゃなくてということですね。急にボールが変化する場合もあるじゃないですか。グラブをいろんな使い方をしておけば。そこに対応できるかもしれません。イチローはいつの間にか、僕らよりうまくなってましたよね」。

 山森さんは、1986年に外野部門のゴールデングラブ賞に選ばれたこともある名手。西宮球場の外野フェンスによじ登って本塁打キャッチしたシーンが、米国の野球殿堂で「野球史上最も偉大なキャッチ」として紹介されているほどだ。その目を通じて見ても、イチローはあらゆる意味でレベルが違った。日常を見ていると日々「すぐに抜かれる」という恐怖が大きくなっていった。

「朝6時ごろ起きてきて、マシン打って、シャワー浴びて。朝食食べて。2軍の試合に行って試合前に特打、試合終わってまた特打。で、寮に帰ってきてまた打って。晩ごはん食べてまた打って。1日2000本どころじゃない。もっと振ってた。18歳の子どもがですよ」

 超速で進化していく姿も目の当たりにした。「最初は股関節が硬くてね。開脚すると後ろに倒れていたんですよ。ただ練習していたんでしょうね。1年経ったらもう、前に胸がべたっとつくようになっていましたね」。足が速い選手は身体、特に股関節が硬い傾向があるというが、同時に怪我のリスクも背負うことになる。イチローは日々の努力で、これを両立させていた。

「頭のいい子だったので、メジャーに行っても対応能力は十分あると思いました。そうしたらやっぱり、あれだけの選手になった。僕らがどうこういう存在ではなくなった。オリックスに入ってきた時から、その片鱗はいくつも見せていました。能力が高い、反応が速い、やろうとしたことは最後までやる、とね」

1軍定着できなかったイチロー…監督の注文に「できません」と言った日

 イチローは1年目から2軍で打率.366という圧倒的な数字を残し、1軍に呼ばれるようになった。ただ当時は行ったり来たり。2年目には打撃フォームの修正で、首脳陣と対立したこともあった。当時の土井正三監督とのやり取りを、山森さんはすぐ隣で聞いていた。

「王さんはピッチャーが上げたら足を上げるんだから、お前も上げろって言われてね。イチローは『いや、僕できません』って言いましたからね」。今より上意下達の色が濃い時代。監督の言葉に異を唱える19歳は異色だった。

 2軍落ちしたイチローは、後に一世を風靡する振り子打法に挑んでいた。「落とされても、何せバットだけは振ってましたから」。ベンチプレスをやった直後にバットを振り込んだ。スクワットをやっても同じ。どんなにウエートトレーニングしても、必ずバットスイングとセットだった。

 山森さんは思わず「なんでウエートのあとすぐに、バットを振るの?」と聞いた。「体に覚えさせないといけないんだと言ってましたね」。翌1994年、開幕直前に登録名が「イチロー」となった。振り子打法でスターダムを駆け上がり、シーズン210安打を放つと、もう2軍には帰ってこなかった。そして山森さんにとっては、現役最後の年となった。

 今も思い出す場面がある。オリックスの選手たちで行った焼肉店。イチローは白い脂を自分でそぎ落とし、肉の赤身だけを食べていた。「僕らはみんな『ここがうまいのに、もったいない』って言っていましたよ。でも全くブレない。見ているところが違いました」。変わるべき部分は変わり、守るべきものは守る。のちの姿に重なる部分をいくつも、当時から見せていた。

 山森さんは引退後すぐに、日本ハムでコーチになった。敵として見たイチローは、とんでもない脅威だった。打撃はもちろん、右翼からのレーザービームも。「もう、捕ったら(走者は)止めですよ。ストップ。三塁コーチのタイミングとしては、ライトが捕る前にランナーが三塁を踏んでいれば、ほぼ回すんですがね。イチローの場合は全然、判断基準が違いました」。まさに格が違った。

「今、守れて、打てて、走れてって三拍子揃った選手が今、プロ野球もメジャーも少ないじゃないですか。そう考えると彼はものすごく価値がありますよね」。ひたすら一発長打を狙う傾向が強まる球界で、打っても守っても、走ってもプロの真髄を見せたイチロー。その存在は決して色褪せない。

(THE ANSWER編集部・羽鳥 慶太 / Keita Hatori)