「五輪で?1の右SBと言われたい」5年ぶりの大舞台を見据え、変わらぬスタンスで邁進。楽しむ気持ちも忘れずに【パリの灯は見えたか|vol.5 半田陸】
2019年のU-17ワールドカップ。キャプテンとしてチームを牽引し、ラウンド16進出に貢献した。ただ、8強入りを懸けたメキシコ戦は怪我の影響でピッチに立てず。0−2で敗れた試合を、ベンチから見守るしかなかった。
もう一度、あの舞台へ――次なる戦いに向け、走り出した。
パリ五輪世代で期待のタレントをディープに掘り下げるインタビュー連載。第5回目は、ガンバ大阪の半田陸だ。後編となる本稿では、U-17W杯以降のキャリアを追う。
だが7月に左腓骨骨幹部を骨折。戦線離脱を余儀なくされた。だが確かな手応えはある。来年4月に迫った、パリ五輪のアジア最終予選を兼ねるU-23アジアカップ、そして7月下旬に幕を開ける本大会。5年ぶりの大舞台を見据える半田は、今や遅しとその時を待っている。
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2019年のU-17W杯を終え、半田は山形でプロサッカー選手として本格的にキャリアを歩み始めた。まだ高校生だった19年3月にプロ契約を結んでおり、20年シーズンは実質プロ2年目。1年目はリーグ戦5試合の出場に留まっていたが、20年は15試合に出場し、飛躍のきっかけを掴んだ。
試合数を見れば、CBとしてプロの水に慣れたように見える。だが、この頃の半田は転機を迎えようとしていた。ポジションの問題だ。
育成年代やプロ1年目まではCBでプレーする機会が多かった。持ち前の身体能力で勝負できる手応えはあった一方で、世界に目を向けた時に、最終ラインの真ん中でもっと自分が上手くなれるのか――自問自答をするなか、自分が最も活きる場所を模索し、プロ3年目の21年シーズンからSBで上を目ざす決断を下した。
「J2であれば、センターバックでも正直やれる。やられたシーンもそんなに多くなかった。でも、J1のフォワードや海外を目ざしたいと思った時に、自分を輝かせられるポジションはどこなのか。センターバックだと厳しいという考えがあり、サイドバックで勝負しようと決めた」
さらなるステップアップを考え、サイドに主戦場を移した。良き指導者との出会いも、このコンバートを後押しした。
「元々、守備は身体能力でなんとかなっていたので、ある程度できたんですけど、攻撃面はずっと課題だった」という半田は、プロ2年目から指導を受けていた石丸清隆監督(現・愛媛監督)からビルドアップの基礎を学んでいた。
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石丸監督のもとで、“止める・蹴る”の基本的な動作を叩き込まれ、現代的なSBを目ざすためのベース作りに励んだ。21年4月に成績不振で石丸監督がチームを去ったが、新たな出会いが訪れる。後任として指揮官になったピーター・クラモフスキー(現・FC東京監督)と、コーチに就任した川井健太(現・鳥栖監督)だ。
「ピーターや健太さんから引き出しを増やしてもらい、いろんなアイデアを落とし込んでもらった」
SBで戦う術を学んでいる最中だった半田にとって、ふたりの指導は得難いものだった。とりわけ、川井コーチにはお世話になったという。
「自主練習に毎日付き合ってもらった。試合をイメージしながら、自分の課題と向き合うためのメニューを組んでくれた。ほぼ毎日付き合ってくれたし、試合が終われば、次の週には映像を作ってくれて、個人的にミーティングも開いてくれた。試合直後やハーフタイムにもいろんな指示を出してもらった。サイドバックで戦うための術は、すべて健太さんが教えてくれましたね」
知らなかったことを知る――。それがとにかく面白かった。「最初の頃は自分の引き出しが多くなかったので、1個戦術を教えてもらったら、それだけになっていた」が、ポジショニングやボールの引き出し方を知るために貪欲に教えをこう。
大外を回って攻撃に加わるだけではなく、内側のポジションに入ってビルドアップに関与。インナーラップでチャンスに絡む術を覚え、プレーの幅が広がった。
21年はJ2で37試合に出場して3ゴールをマーク。右SBとして地位を確立し、一気に才能が花開いた。翌シーズンは35試合に出場。22年3月に立ち上げられたパリ五輪を目ざすチームでもコアメンバーとして活躍し、右SBの主軸候補として大岩剛監督の信頼を得た。
右肩上がりで成長を続けると、当然見えてくるのは次のステップだ。半田は22年シーズンが終わると、生まれ育った山形を離れる決意を固める。そこで重視したのが、自分の引き出しを増やせるかどうかだった。
「U-21代表で強豪国と対戦して、ヨーロッパのチームと戦うなかで新たな課題が見つかった」という経験も踏まえ、移籍先を熟考した。
「今までやった経験がないサッカーを味わってみたい。そして、もっと自分の引き出しを増やしたかったし、一人ひとりが力をすごく持っているチームという点も含めて移籍を決めた」
そして23年シーズン、半田はG大阪に活躍の場を移し、自身初となるJ1の舞台にチャレンジする。
青と黒の縦縞のユニホームに袖を通した半田に与えられた背番号は3。クラブからの期待がうかがえるなか、開幕から右SBのレギュラーとして安定したプレーを見せる。山形で培ったものを発揮し、3月には初めてA代表に選出された。
デビューは果たせなかったものの、海外でプレーする先輩たちから新たな刺激を受ける場になった。「強度が高いし、選手個々を見ても自分の武器をしっかり示さないと生き残れない」と感じ、とりわけ遠藤航(リバプール)と三笘薫(ブライトン)のプレーには驚かされたという。
「航君は寄せるスピードが違った。Jリーグだと、止まったり、距離を取る人も多いけど、しっかりアプローチして、なおかつボールを奪い切れる。薫君はマッチアップした時に、目を切ったタイミングで動き出してくる。本当にディフェンダーからすれば嫌なプレーだった」
世界で戦う基準を知り、もっと上手くなりたいという感情が湧いてくる。G大阪でもポジションをがっちり掴み、A代表のピッチに立つべく、今まで以上に努力を重ねた。しかし――。
サッカーの神様は簡単に微笑んでくれない。7月14日の練習中に左腓骨骨幹部を骨折。人生で初めて大きな怪我をし、長期間ボールを蹴れないのも初めてだった。
だが、半田は気持ちをすぐに切り替える。「ひと晩、ふた晩と寝れば大丈夫。性格的にも落ち込んだり、ネガティブになるタイプではない」。心を整え、復帰のためにできることを模索。「戻った時に身体がちゃんと動かせるようにしたいし、今以上に強くなりたい」という一心でリハビリに励んだ。
そして、迎えた10月28日。J1第34節のC大阪戦(0−1)で復帰。開始早々に失点に絡んだが、溌剌としたプレーを披露する。その後もピッチに立ち続け、11月にはU-22日本代表にも復帰。17日のU-22アルゼンチン戦(5−2)では先発で起用され、3ゴールに絡んで復調をアピールした。
上々のリスタートだが、半田の想いは変わっていない。幼少期の頃と同じように、向上心を持ってサッカーと向き合っている。
「U-17ワールドカップのリベンジをしたい」。初めて世界を知ってから4年。半田は世界の舞台で戦うべく、パリ五輪に向けて準備を進めている。「自分がさらに成長するために、オリンピックに出たい」という言葉にも力がこもる。
五輪のアジア最終予選を兼ねたU-23アジアカップは来年4月に始まる。韓国、UAE、中国が同居するグループステージを突破し、「3.5」の出場枠を勝ち取れるか。
プレッシャーがかかるが、半田はスタンスを変えない。どんなに凄い相手が来ても、純粋に上を目ざして戦うだけ。楽しむ気持ちも忘れず、自分のプレーを表現するつもりだ。そして、その先のパリ五輪に対しても目を輝かせる。
「パリ五輪ではナンバーワンの右サイドバックと言われるようになりたい。本当に良いウイングがたくさんいると思うけど、全員を完全に抑えたいですね」
半田の冒険は終わらない。誰よりもサッカーを楽しみ、上手くなりたいと願う男は、底なしの向上心で今日もボールを蹴る。
取材・文●松尾祐希(サッカーライター)
