いかに西部は失われたか:ONCE UPON THE TIME IN THE WEST (『ウェスタン』1968)の時代/純丘曜彰 教授博士
西部開拓というと、西部劇で見るように、「インディアン」の襲撃を受けながらも、人々が西へ西へと押しかけ、太平洋にまで至って終わった、かのように思うかもしれない。だが、西部劇に出てくる無法の「西部」は、アリゾナ・ニューメキシコ準州での、1880年前後のほんの数年の出来事だった。
ナポレオンのルイジアナ売却
そもそも西部開拓の背景には、当時の複雑なヨーロッパ情勢が絡み合っている。英国では、17世紀の国教会による清教徒革命派の迫害、18世紀の清教徒による旧教徒王統派(ジャコバイト)の追放によって、新大陸東岸へのモザイク状の分裂移住が促進された。また、フランスでは、殺人罪を逃れてきたスコットランドの怪しい投機銀行家ジョン・ローが絶対君主ルイ14世に取り入り、会社を作って新大陸南岸からミシシッピー流域ルイジアナを探索。ここは、ネイティヴアメリカン「インディアン」の土地だったが、彼らとの交易は大きな利益をもたらした。
しかし、オーストリア・ハプスブルク家とプロシア・ツォレルン家の七年戦争(1756〜63)において、フランスはオーストリア側、英国はプロシア側に付いたことで、新大陸でもアパラチア山脈を挟んでフレンチ・インディアン戦争となった。結果、プロシア・英国側が勝ったが、このころ英国は、インド太守たちの対立を治めるべく、東インド会社にインド総督を兼ねさせることになり、桁違いの資金を要することとなった。そのため、拡大した新大陸英国領の課税を強化したが、もともと本国と対立していた新大陸の清教徒や旧教徒は激怒。米国独立戦争(1775〜83)となり、これをフランスが支援。
ところが、こんどは先の七年戦争敗退やこの独立支援で財政破綻したフランスで革命が起き、英国やスペイン、オーストリア、プロシアなど、周辺諸国と全面戦争になってしまう。この戦費調達のため、皇帝となったナポレオンは、自分のものでもないインディアンの地、ルイジアナを破格の安値で新生米国に丸ごと売却(1803)。また、本国スペインがナポレオンと戦っているすきに、新大陸の中南米で独立運動が高まり、1212年、メキシコが独立。
米国人は、アパラチア山脈を越え、中西部へ、さらにフランスから買い取ったつもりの、広大で肥沃なミシシッピー流域にまで入り込んだ。しかし、これらの地に住む「インディアン」たちにとっては、寝耳に水。おまけに、流域にはもともと馬がおらず、馬に乗って銃を撃ってきた米国人たちを前に弓矢と徒歩では彼らになすすべも無く、撤退に次ぐ撤退。そして、1830年には「インディアン移住法」で、彼らの土地とミシシッピー川以西とを「交換」することに決めてしまった。
ただ、アーカンソー川上流、大平原のただ中に33年に作られた米国人猟師たちのベント補給所では、インディアン(シャイアン族、アパッチ族、コマンチ族など)との間で平和な交易が行われた。また、米国人は、独立以来の混乱が続いているメキシコの東沿岸部テキサス地方にも進出して、アラモ砦を築き、1836年、新教徒のテキサス共和国として独立してしまう。
侵略してくる米国人と戦うためには、米国人と同様に、大量の銃と馬が必要だ、とインディアンたちは考えた。同じく東部を米国人に侵略されているメキシコが、これに協力した。西海岸のロサンジェルスからリオグランデ川を渡った中西部への出口、サンタフェに通じる「スパニッシュ・トレイル」によって、メキシコ人は銃と馬、そして奴隷(黒人や異部族、ときには米国人)を供給し、インディアンの綿織物などを交換した。また、彼らはしばしば協力してテキサスの米国人の牧場や農場からも物資や奴隷を略奪した。
このころ、東岸部には、ピルグリムの清教徒(カルヴァン系)やジャコバイトの旧教徒のほか、英国教会から分離独立したバプテスト、清教徒革命で追われて来たクエーカー教徒、ツヴィングリ系の再洗礼(アナバプテスト)派(アーミッシュ、メノナイトなど)、などの諸派が数多くやってきていた。これらもまた、アパラチア山脈を越えて中西部に入り進み、孤立する開拓地コミュニティにあって、本部や組織よりも直接の霊感を重視した。
そんな中で、五世紀にすでに米国に来ていた預言者モルモンから直接に使命を受けたというジョセフ・スミス・ジュニアの完全米国オリジナルの復古保守的新興宗教、モルモン教が、中西部北部で爆発的に信者を集め始める。彼らは、なんでもありの新大陸のモラル崩壊には批判的で、一夫多妻や自衛武装、嗜好品禁止を含め、厳格強力な家父長制社会の回復を主張した。この批判的で戦闘的なコミュニティは、他の人々の激烈な反発を招いて、しばしば暴動となった。
ロッキー山脈を越えて
1838年、先の「移住法」に基づいて、中西部のチェロキー族ほかのインディアンたちをミシシッピー西側、オクラホマに強制的に追いやる。この「涙の道」で、一万五千のチェロキー族の三分の一が死んだ。しかし、自主的にはるばるミシシッピー流域までやってきた人々も、大いに失望していた。たしかにそこでは、広大な農地、放牧地は得られた。だが、洪水や竜巻など、自然災害だらけで、こんなひどい土地にむりやり移住させられて怒り狂うインディアンたちも襲撃してくる。そして、ある日突然、数百億匹を越えるロッキー飛びバッタがやってきて、すべての農地農場の穀物を食い尽くしてしまう。おまけに、湿地の蚊が媒介する風土病の寄生虫、マラリアが人々の全身を蝕み、慢性化して苦しめた。
それより西は、農業も放牧もできない、野生のバイソンの大群が暴走するだけの、乾ききった果てしない大平原(Great Plains)。その先には4000メートル級のロッキー山脈の壁が立ちはだかる。しかし、さらにその向こうには太平洋の温和な気候を受けた標高1000メートルのオレゴン高地があることがわかると、それでも人は夢を追い続けた。1843年、いくつもの川を渡り、大平原とロッキー山脈を越えていく「オレゴン・トレイル」が開かれ、人々はミシシッピー流域を捨てて、さらに西の新天地をめざし始める。
中西部北部で急成長する武装保守教団モルモン教のジョセフ・スミス・ジュニアが、みずから大統領になって合衆国をモルモン化すると宣言すると、いよいよ世間の反発が高まって、ついに逮捕。44年、獄中の銃撃戦で殺されてしまう。おりしも、45年、米国はテキサス共和国を併合。くわえて、メキシコが中西部インディアンと通じる「スパニッシュ・トレイル」を潰すべく、メキシコの西沿岸部カリフォルニア地方を奪取しようと、米墨戦争(1846〜48)を起こす。
ここにおいて、米国は、国家反逆的な武装モルモン教団に政府への忠誠を示すように求め、教団のあるインディペンデンス市(現カンザスシティ東部)からドッジ砦、ベント補給所などを足場に、西へ向かう「サンタフェ・トレイル」を切り拓かせ、インディアンとの交易を断ち切らせる。また、テキサス西部では、ロッキー山脈を西に越える要衝、メキシコ軍のツーソン砦も奪取し、これによって、サンタフェからエルパソ(現シウダートファレス)に至る山脈以東の高地、ニューメキシコを米国の領土に加えることとなった。
しかし、この後、モルモン教団は、合衆国に愛想を尽かし、社会や政府の干渉を避けるべく、まだ米国ではないところに独自国家を建設しようと、ロッキー山脈の向こうをめざした。こうして、47年、信者七万人が、プラッテ川沿いに西進。サンタフェから帰還した武装モルモン大隊と合流して「モルモン・トレイル」を切り拓き、山脈を越えて、広大なネヴァダ(大盆地)砂漠に臨むソルトレイクにたどり着く。この乾燥する谷間に、彼らはソルト湖やユタ湖から潅漑用水を引いて、しだいに農地に改良していく。
ジェームズ・マーシャルは、ミシシッピー流域でマラリアにかかり、その療養のため、オレゴン・トレイルの駅馬車で西海岸に至り、米墨戦争に従軍した後、カリフォルニアの製材工場に勤めた。その彼が、1848年、工場の水車の溝で砂金を見つける。この話は、またたく間に全米に広まり、「フォーティナイナーズ」として30万人もがカリフォルニアに押しかけた。いわゆる「ゴールドラッシュ」だ。しかし、採鉱地を自分のものにするのは、早い者勝ち。そこで、彼らは船でパナマに向かった。そして、陸路で太平洋側に出て、ふたたび船に乗ってサンフランシスコに行き、ここから古い「シスキュー・トレイル」をたどって川の上流に分け入っていった。
これに遅れ、長大な「オレゴン・トレイル」や「モルモン・トレイル」を越え、もしくは「スパニッシュ・トレイル」を逆走して、人々が殺到。ただし、これらの道は冬は雪で閉ざされる。このため、サンタフェからリオグランデ川沿いに南下し、ロッキー山脈をピラミッド山の北で越え、ツーソン砦から山麓のインディアンのピナ村(現フェニックス市西)を回り、ヒラ(ソルト)川に沿ってアリゾナ砂漠を横断してカリフォルニアのユマ砦をめざす「南移民トレイル」も試みられるようになった。けれども、これもまた、酷暑と水不足、インディアンの襲撃で、通行は容易ではなかった。くわえて、そもそもゴールドラッシュ・ブームは十年と続かず、もっぱら儲かったのは、砂金探しの連中よりも、彼らに移動手段や生活物資を提供した人々の方だったという。
金ぴか時代と内陸開発
いまだに一攫千金の夢を捨てられない者たちは、「南移民トレイル」を逆に辿って、カリフォルニアのユマ砦から東のアリゾナに入った。彼らは、ロッキー山脈に連なる「迷信(スーパースティション)山地」からも金が出るに違いないと信じていた。しかし、ここは、中西部を追いやられたインディアンたちの最後の領域だった。おまけに、山から流れ出た川さえも跡形無く消え去ってしまうアリゾナ(ソノラン&チフアフアン)砂漠だ。水を確保できるところは、限られている。
ロッキー山脈から流れ出るソルト川(ヒラ川)は干上がっていたが、その湾曲地点、ヒラベント(現ヒラベントの北8キロのところ)では、かろうじて井戸から水が出た。だが、オートマン一家は、1851年、ここで飢餓に陥ったうえに、アパッチ族の襲撃を受けて惨殺され、かろうじて生き残った二人の少女も、顔に刺青を入れられ、56年に買い戻されるまで奴隷として働かされ続けた。また、1858年、ヒラベントに馬車駅ができたが、やはりすぐ焼き討ちあって破壊された。
しかし、すでにカリフォルニアは、海外からの移民も急増して、パンク寸前だった。このことは、米国の合衆国としてのバランスを大きく崩した。大量の黒人奴隷による綿やタバコなどの大規模な農業プランテーションを営む南部に対して、カリフォルニアを加えた北部は、産業革命による工業の進展もあって、爆発的に人口と経済が拡大し、合衆国の中での発言力を増していた。南部が閉鎖保護貿易を主張するのに対して、日本に黒船を送るなど、北部は輸出自由貿易を要求した。
また、ゴールドラッシュも終わって、奴隷の存在は、人権問題以上に、過剰人口の雇用問題でもあった。つまり、奴隷などという、いくらでも激安で輸入できる労働力があったのでは、ミシシッピー流域の農業や牧場で失敗した連中、カリフォルニアのゴールドラッシュにあぶれてしまった連中が、新たにできた都市や工場などで仕事に就けないのだ。かくして、南北戦争(1861〜65)が始まった。
この南北戦争の軍需をテコに、資本主義がさらに飛躍的に発展し、東海岸の海運王ヴァンダービルト(1794〜1877)、コロラドの鉱山王グッケンハイム(1828〜1905)、ペンシルヴァニアの鉄鋼王カーネギー(1835〜1919)、ニューヨークの金融王モルガン(1837〜1913)、オハイオの石油王ロックフェラー(1839〜1937)と、「金ぴか時代 Gilded Age」のタイクーンたちが登場。彼らはこぞって内陸部を開発する鉄道事業に進出していった。
また、南北戦争中の1863年、インディアンのピナ村の東、「迷信山地」の西麓に砂金探しの連中が拠点を築き、対インディアン武装私兵団のジャック・スウィリングがスコッツデール砦に上流から用水を引き込んで、現フェニックス市の礎を築く。そして、南北戦争が終わると、安価な奴隷労働力を失った南部は不況に陥り、いくつものプランテーションが潰れ、退役軍人、元農場経営者、解放(失業)黒人が、厄介な怨嗟を引きずったまま、未開の「西部」、ニューメキシコやアリゾナにやってきた。しかし、ここは、もとより強制移住させられてきたインディアンたちはもちろん、山賊に落ちぶれたメキシコ軍敗残兵も多かった。
おりしも、インドや中国、東南アジア、オセアニアでは、帝国主義の侵略戦争やその後の植民地経営の混乱で、大量の移民が米国に流入。中国からだけでも10万人以上、総勢数十万人がカリフォルニアに渡って来て、「苦力(クーリー)」として鉄道建設に従事した。そして、1869年には、西海岸サンフランシス側から延伸した「セントラル・パシフィック鉄道」と、シカゴ市からミシシッピー流域オマハを抜けて延伸した「ユニオン・パシフィック鉄道」とがモルモン教のソルトレイクシティ近くで繋がり、駅馬車の内陸北部「オレゴン・トレイル」に置き換わった。

また、鉄道は、敗北したテキサスに商機を与えた。ほとんど野生放牧のロングホーン牛でも活況の北部では法外な高値で売れることがわかったからだ。牧場主たちは、夏に十数人のカウボーイグループを雇い、「チザム・トレイル」を北上して、数千頭の牛を二ヶ月もかけて鉄道駅ニュートンまで届けさせた。しかし、牛たちが暴走して見失ったり、また、限られた水場で他の牧場の群れ混ざったり、さらには、悪意で大量の牛たちを盗む連中がいたりで、他のグループといさかいも多く、しだいに武装を高めていく。
無法の「西部」
アリゾナのスコッツデール砦(現フェニックス市)には、西岸部ロサンジェルスや中西部サンタフェから多種多様な敗残者たちが流入。人口は数千人に増えていった。かくして、1876年、その北、水のあるロッキー山脈の標高2000メートルの谷あいに、東西を繋ぐ駅馬車の中継拠点として小さなフラッススタッフの町も開かれる。
しかし、この南、ユマ砦からツーソン砦、エルパソ、そしてサンアントニオ(旧アラモ砦)の間のソノラン&チフアフアン砂漠は、あいかわらず無人の地だった。こんなすさんだところにやってくるのは、肉牛の長距離移動を請け負うカウボーイとは名ばかり。実態は、人の牧場を襲撃する牛泥棒たち。そして、まともなところにはいられないならず者や無法者、西海岸や中西部、テキサスで失敗して落ちぶれた者ばかりで、それも徒党を組んで山賊、駅馬車強盗を生業に生きていた。そして、かろうじて井戸がある、わずかな町や牧場地の奪い合い。

この無法の地の東半、ニューメキシコは「サンタフェ・リング」の一味が支配していた。その中心は、リンカーンという町の雑貨店「ザ・ハウス」を経営する北軍退役軍人ローレンス・マーフィー。彼らは、無人の荒野を、新たに流入してくる農民や牧場主に法外な高額の分割で売りつけ、その返済支払が少しでも滞ると、ごろつきの「ザ・ボーイズ」を使って、強引に作物や牛を奪い取った。同地の軍人や政治家までリングの一味だったので、これに抗議してもムダだった。
1877年、カリフォルニアから来た実業家タンストール、カンザスから来た弁護士マクスィーン、テキサスの大牧場主チザムは、サンタフェ・リングの拠点「ザ・ハウス」の向かいに新たな雑貨店を開いて挑発した。また、サンタフェ・リングの「ザ・ボーイズ」に対抗するため、ビリー・ザ・キッドなど牛泥棒の若者を集めて「レギュレーターズ(用心棒)」を作って、身を守った。しかし、翌78年2月、リングは、タンストールの馬を借金のカタとして押収する裁判所書類を捏造。これに抗弁したタンストールは射殺され、両派の間で「リンカーン戦争」が勃発した。この結果、81年夏までに関係者のほとんどが死んだ。
また、ツーソン砦の南東、トウームストーン、墓石などという不吉な名前の町でも、事件は起こっていた。砂漠の真ん中。流浪するカウボーイたちが密会し、メキシコからの密輸品や盗んできた牛の群れを取引する場所。ここに、1879年、中西部のドッジシティ(サンタフェ・トレイルの旧ドッチ砦)でしくじった保安官、ワイアット・アープ兄弟が赴任し、賭場兼売春宿を開く。
アープ兄弟は、駅馬車強盗のドク・ホリディまで仲間に引き入れてカウボーイたちの密輸貿易の利権まで狙い、81年、OK牧場で決闘。四人で、五人のうちの三人のカウボーイを撃ち殺したが、生き残った二人が後にアープ組を闇討ち。それで、アープはその実行犯のカウボーイをツーソン駅(!)で暗殺。こうして、アープもまた別の保安官に命を狙われることになる。しかし、こんなクズ野郎が生き残って、後にロサンジェルスに移り住み、自分の活躍を映画監督のジョン・フォードに売りつけて稀代のヒーローになる。それが「西部」。
そう、不毛のアリゾナの地にも、目前にまで新時代が迫っていた。すでに前年の1880年には、カンザスシティ市からもうツーソン市まで「サザン・パシフィック鉄道」が開通していたのだ。そして、「セントラル&ユニオン・パシフィック鉄道」や「アトランティック&パシフィック鉄道」と対抗して、「サザン・パシフィック鉄道」もまた、大陸横断路線を企図。そのためにまず、カリフォルニアの海寄りの谷あいの国有地の払い下げを受ける。これを聞きつけた人々は、巨額の立ち退き料を狙って、その建設予定地に牧場を次々と作って不法占拠。補償金目当ての新たなゴールドラッシュとなった。
しかし、あまりの法外な金額の要求に、サザン・パシフィック鉄道側は支払いを拒んだ。1880年末、会社側の4人は不法入植者20数名と話し合いの席に臨んだが、その場で銃撃戦となり、その大半が死んだ。この「ミュッセル・スロウの悲劇」とともに、不法占拠に対する裁判も行われ、入植者の数十名が有罪となる。ところが、世論は会社側を政治と結託したカネの亡者と批判し、服役した入植者たちを資本主義と戦う英雄として賞賛した。とはいえ、もはやカリフォルニアに夢のかけらも残っていなかった。
西部最後の夢
この間にも、最後の「西部」、アリゾナの開拓は進んで行った。翌81年には、「サンタフェ・トレイル」の駅馬車を置き換えた「サンタフェ鉄道」も開通。これが翌82年にはフェニックス市北の中継地、フラッグスタッフを通って、西海岸北部サンフランシスコ市まで直通の「アトランティック&パシフィック鉄道」となる。
また、「サザン・パシフィック鉄道」も、ツーソン市から南移民トレイルに沿ってカリフォルニアのユマ市に接続。こうして、その中間、かろうじて水の出るヒラベント駅は、アリゾナ砂漠の直中にあって、蒸気機関車の貴重な給水所となった。そして、こここそが、映画『ウェスタン(ONCE UPON A TIME IN WEST)』(1968)の舞台。その冒頭の「フラッグストーン」の駅のシーンのままに、ここには新しい町を作るための材木が大量に転がり、あとはうらぶれた給水塔があるだけ。では、あれは実話か。
トーマス・チャイルズ・シニアは、孤児としてモルモン一家に育てられ、時代遅れの砂金探しの山師としてカリフォルニア側からフェニックス市のアリゾナ開拓団に加わった後、結婚して、鉄道駅ができたばかりのヒラベントにやってきた。しかし、妻を亡くすと、子どもたちとともに、その南の荒野、インディアンが墓地としてきたアホ山の北麓の谷、テンマイルウォッシュ、映画でいう「スウィートウォーター」に引き籠もってしまう。
だが、山師の彼には目算があった。ここは砂漠の中で地山が突出しており、その麓は映画の地名のとおり、井戸を掘れば水が出て、牧場経営ができたのだ。それだけではない、金は出なかったが、彼はここで銅鉱石を見つける。おりしも第二次産業革命によって水力や蒸気から石油や電気へシフトしつつあり、発電機やモーターのために銅の需要が激増していた。当初は馬車でちまちまと搬出していたものの、彼は銅で稼いだ金をぜんぶ注ぎ込んで、アホ谷に自前の郵便局と鉄道駅を建てた。映画の物語同様、ヒラベントから鉄道の支線を誘致して、そこに自分の理想の町を作ろうと考えたからだ。
鉄道があれば、銅鉱石の搬出も楽になる。鉄道の支線は、東のツーソン市まで延伸するとされた。しかし、映画で鉄道会社オーナーが生きている間にかなえたいと言っていたように、チャイルズが夢見ていたのは、鉄道でアリゾナ砂漠を縦断し、カリフォルニア湾に面したメキシコのプエルト・ペニャスコまで鉱石を運んで、船でもっと多く輸出することだったのだろう。
だが、実際にアホの町に鉄道が開通したのは、彼が亡くなった後、1916年になってからだった。そもそも、銅の精錬は、大量の鉱毒を生み出す。つまり、彼は自分で自分の夢をダメにした。東のツーソン市に行くにしても、南のペニャスコ港に行くにしても、水が汚染されたアホの町は、もはや砂漠を越えていく蒸気機関車や乗客乗員の水の補給には適さず、その先は断念された。こうして「西部」最後の夢は潰えた。
おわりに
米国を東海岸のニューヨークや西海岸のロサンジェルス、その熾烈な競争の中でアメリカンドリームの実現を求める人々で語るのは、大きな間違いだ。重工業の終焉で「ラストベルト」と呼ばれるようになってしまった中西部北部はもちろん、ミシシッピー流域、大平原、ロッキー山脈、そして、その西の不毛のネヴァダ砂漠やアリゾナ砂漠。その中には、ソルトレイクシティ市やフェニックス市、ラスベガス市など、きらびやかな大都会もないではないが、そのほかのほとんどすべての土地では、夢から取り残された絶望的な敗残者たちが荒野に点々と孤立して、ひっそり暮らしているだけ。それは、もはや開拓の無い、ただ廃墟と化していくだけの「西部」。
