手芸店やコーヒーショップを経営 まさにゼロからの起業─。子育てが多少なりとも落ち着いてきたこともあり、手芸が得意だったからかもしれませんが、今で言うショッピングモールのような商業施設に自分のお店を出店したのです。お店自体はそこまで儲かっているわけではなかったと思うのですが、そこそこの経営ができていたようです。

 ですから、小さい頃はセーターなども母が編んでくれていましたので、母から買ってもらった記憶は全くありません。さらにどこで知恵をつけたのか、自宅を使って洋裁教室も始めました。母が講師を務めるわけではなく、あくまでも場所貸しです。近隣のファンづくりにも抜かりがなかったようです。

 つくづく母は逞しい女性だったと思います。例えば、10年ほど続けてきた母の手芸店が入居する商業施設が取り壊されることになりました。そのときに母は特段取り乱す様子もなくコーヒースクールに通い始めました。すると、今度はコーヒーショップを開店。お客様をもてなす母のアウトゴーイング(社交的)な性格もあったと思いますが、どこか起業家としての側面を持っていたように思います。

 そんな母ですが、わたしの大阪府立鳳高等学校や京都工芸繊維大学への進学については、何ひとつ口を出しませんでした。大学を卒業して中堅商社の稲畑産業に就職が決まったときは息子が安定した道を進んでくれているとホッとしたようです。

 ただ、唯一、母がわたしの進路に対して「そんなに焦らんでも気楽に生きろや」と小言をこぼしたことがありました。それはわたしの起業です。商社のサラリーマンだったわたしが33歳のときに半導体関連の仕事で米シリコンバレーに赴任しました。1993年から98年までのことです。この間に、運命の出会いが起こります。

 それがオープンソフトウエアとして誰もが無料で使うことができる基本OS「リナックス」との出会いです。これには衝撃を受けました。当時はマイクロソフトやオラクルのOSが全盛で、それぞれライセンスを得て使うという閉鎖された形が当たり前でした。ところがリナックスは誰もが自由に使えて様々なプログラムを好きなように作れる。可能性を感じました。

 米国と日本で仕事を通じて知り合ったメンバー4人のうち日本にいた1人が98年に現在のサイオスの前身となるノーザンライツを設立し、リナックス事業を開始。そして99年にわたしが帰国して社長に就任したという経緯になります。ですから今にして思うと、起業という選択肢を選んでいるところに、父・母と同じ血が自分にも流れているのだなと気づかされます。

 ちなみに、そのときの父は反対もせず、「お前の人生や。全ては自己責任。自分で考えろ」。最終的には母も同じような考え方をしていました。わたしから言わせれば、起業も含めて好き勝手やっていた母に何か言われる筋合いはないのだけれど、というのが本心にありましたが(笑)。



バドミントンのシニア大会で入選 そんな母の逞しさや行動力はその後も留まることを知りませんでした。商売に続いて今度はスポーツにも励みだしたのです。40代になると、体力づくりの一環として地元の体育館に通っていたそうですが、そこでバドミントンに出会ったのです。それからというもの、母はバドミントン三昧の生活を送ります。

 そして練習もさることながら、大会にも出場していました。しかも70代になってもシニア大会に出場し、今から10年ほど前の全日本シニアバドミントン選手権大会では全国3位の成績を収めたのです。さらには79歳での最高齢選手賞も受賞。これには大変驚きました。

 その後、母に言われて母が出場する試合を見に行くと、とにかく母は有名人。「喜多京子さんですよね?」と言われて一緒に写真撮影をしていました。地元・堺市の市長から賞状も贈られており、マスコミに取り上げられることもしばしば。あちこち興味を覚える一方、これだと思ったことには一途に取り組むのが母の性分なのでしょう。

 母は現在92歳。父は他界していますが、相変わらずのせっかちな性分は変わらず、実家に帰るときに、そのスケジュールを伝えると「はよ帰りね」とつつかれる。そんな母の血がわたしの中で脈々と流れているのだなと感じている今日この頃です。


きた・のぶお

1959年大阪府生まれ。京都工芸繊維大学工学部卒業。82年稲畑産業入社。90年代の米国赴任中にLINUXと出会い、帰国後の99年にノーザンライツコンピュータ社長に就任。2002年テンアートニとの合併に伴い、新生・テンアートニ社長(現サイオス)に就任。17年持ち株会社移行により現職。Web DINO Japan理事などを務める。