要するに現在の困難は、Wikipediaを知の普及の革命的なかたちにした精神によるものだ。それは次のことからもみてとれる。Wikimedia Foundationは、Wikipediaプロジェクトを開始して、インフラストラクチャーによって支援しているが、日々の活動において直接管理しているわけではない。ユーザーたち自身に自己管理させている。「わたしたちは、ジャーナリストたちがWikipediaの『官僚主義』と呼んでいるもののポリシーに介入することはできません。しかし、新しい協力者がやってくるのを促進するためにインターフェイスを変えることはできます」と、Wikimedia Italiaの広報、マウリツィオ・コドーニョはWIRED.itに説明する。この変更はすでに行われたが、いまのところ成果は乏しい。MITの同じ記事が報じているように、新しいWYSIWYG(What You See Is What You Get:見たままが得られる)編集インターフェイスは、項目の改変を簡単にして、慣れないユーザーにも改変できるように考案された。しかし、「ソフトウェアのバグ」によって多くの批判を受けた。そのため結局Wikimediaは、新しい編集ツールを任意にすることを受け入れた。試みは終わっていない。「わたしたちは、わたしたちが気に入った項目の著者たちに感謝することのできる通知システムをリリースしようとしています。このして百科事典に感情や関係の関与を増やします。新機能は11月にイタリア語版Wikipediaにも登場するはずです」と、コドーニョは述べる。しかしコドーニョは、協力者が減少したことと、05年以降に英語版Wikipediaが匿名の使用を減らしたことの間に相関関係があることを指摘している。これが行われなかったイタリアで協力者の減少がなかったことは、偶然ではない。匿名が、初期のインターネットの価値のひとつだったことが思い出される(匿名コメントがオンラインの議論を豊かにするか貧しくするかという問題については尽きることのない議論があるが……)。そして、Wikipediaと多数のインターネットユーザーの距離を示すいくつかの兆候がある。ミラノ-ビコッカ大学によって発表されたばかりのある研究によると、ロンバルディア州の高校生のわずか32.7%しか、オンライン百科事典がどのように機能するかを知らない。その一方で、誰もがどのようにFacebookが機能するかを知っているのだ。他方で、Wikipediaにまだ多くのことが必要なのは疑いない。それは、数多くの代替的な試みがいままでそれほどうまくいっていないからでもある。Wikipediaの消滅は想定にはない。しかし、インターネットユーザー全体(男性、女性、西洋人、非西洋人)にとって、将来Wikipediaが重要かどうかは危機的だ。いい換えれば、社会的イノヴェイターの役割によってインターネットを助けるWikipediaの能力に疑問符が投げかけられている。どうやって抜け出すか? 「数少ない出口のひとつは、Wikipediaを『ネット』のプロジェクトにしておくのではなく、教育やジェンダーのプロジェクトに発展を見出すことのできる活動にすることだと思います」と、ウルビーノ大学の社会学者で、デジタル分野で最も優れた専門家のひとりであるジョヴァンニ・ボッチャ・アルティエリは提案する。「有名な女性の項目の作成に取り組むフェミニストのグループ、日々の仕事で項目を増やすことに取り組むクラス、できれば大学院生に専門分野の新しい項目を執筆する任務を委ねる……。要するに、制度化された市民的・文化的活動の一部にすることによってのみ、元々もっているアマチュア性が生み出すことになったWikipediaの袋小路から脱することが可能となるでしょう」と、付け加えている。要するに、原点にあと戻りする必要はなく、インターネットがたどってきた発展の道のりを進めばいい。現実社会のあらゆるレヴェルへと入り込んでいくのだ。これが最優先の使命だ。Wikipediaが直面しているジレンマ(イノヴェイションへのオープンさと信頼性の必要)は、わたしたちが知り、愛するようになったインターネットが体験しているのと同じものだ。すべてを塀で囲まれた庭に閉じ込めるという誘惑は、常に強いだろう。オンラインでの表現の拘束的な規制や、魅力的なアプリストアは強力だ。時には安全と、あるべきメディアの信頼性の名のもとに、そういった誘惑があるかもしれない。しかし、異なる未来はまだ可能だ。