続・「敗者」たちの叫び(2)――呉法憲、王洪文への拷問
林彪派将軍の呉法憲は回想録で、「自供」をどのようにして迫られたか、具体的には記していない。しかし、同じ林彪派将軍、邱会作の回想録によると、呉法憲は取り調べを受けた際、眠れないようにする注射を打たれたことを認める発言をしている。
このコラムの2回目「『敗者』たちの叫び(2)――林彪グループ(その2)」ですでに述べたように、呉法憲は国家主席問題をめぐって、汪東興(毛沢東の側近)の発言を葉群(林彪の妻)の発言だったと「偽証」している。「さまざまな巨大な圧力」を受けた結果、うそをついてしまったという(『呉法憲回憶録』香港・北星出版社、2006年、下巻788頁)。だが、どんな「圧力」を受けたのか、呉法憲は回想録においてくわしくはふれていない。
その「圧力」の一端がうかがわれるきっかけとなったのは、「四人組」のひとりである王洪文の「証言」だった。「林彪・『四人組』裁判」終了後の1981年夏、邱会作は北京郊外の秦城監獄で呉法憲、王洪文らといっしょに過ごすことができるようになった。言葉を交わすなかで、王洪文が睡眠を妨げる注射を打たれ、打たれたくなければ自供せよと迫られた拷問体験を語った。そのとき、呉法憲が自分も注射されたことを思わず口にしたというのである(『邱会作回憶録』香港・新世紀出版社、2011年、下巻931頁)。
王洪文は1976年10月、毛沢東の後継者となった華国鋒らによって、江青(毛沢東の妻)らとともに拘束された。拘束後、まず人民大会堂の地下室に監禁された。その部屋には昼夜を問わず定期的に音が鳴る装置が取り付けられており、その音は大きくはないが神経を刺激して眠れないようにするものだった。
半年後に移された秦城監獄では、これまた昼夜関係なく2時間ごとに部屋の検査が行われ、眠っていてもそのつど起こされたという。注射もそうだが、眠りたいならば自供せよという拷問だった。王洪文はこうした拷問などによって、1981年夏、邱会作らと口をきくことが許されるようになったとき、脳の障害で系統だった話をすることができなかったという。邱会作はさらに、王洪文が口からあわをふいて板が倒れるようにばったりと倒れるのを目撃したという(同前、下巻930〜932頁)。
「四人組」のなかでは王洪文が最も従順に罪を認めたとされている。だが、その裏にはこのように残酷な仕打ちがあったというべきだろう。そして拷問が、王洪文の命を縮めたことも否定できないだろう。王洪文は1992年、58歳という若さで亡くなっている。江青は1991年に自殺しているが、王洪文よりも年長だった張春橋も姚文元も2005年まで生き延びている。
ジャーナリストの戴煌は、文化大革命中の取り調べに関して、「その凶悪残忍で冷酷、狡猾なことは、中世の宗教裁判所のごとくであり、拷問、強制自白、誘導尋問、でっち上げは公然の秘密だった」と述べ、殴りつけて失明させたり、300ワットの電灯を枕元につるして夜も眠らせなかったりといった具体例を挙げている(戴煌『胡耀邦与平反冤假錯案』修訂版、中国・中国工人出版社、2004年、117〜118頁)。
呉法憲や王洪文がそうした拷問等も受けたかどうかはわからない。邱会作らは呉法憲や王洪文が体験したような拷問は受けていないのだろう。取り調べる側はおそらく、相手を選び、拷問方法も選んだのだろう。(文中、敬称略)(荒井利明)(執筆者:荒井利明 滋賀県立大学教授 編集担当:サーチナ・メディア事業部)
