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<天下一の補佐役>豊臣秀長の目線で歴史をダイナミックに描く、夢と希望の下克上サクセスストーリー・大河ドラマ『豊臣兄弟!』(NHK総合、日曜午後8時ほか)。ストーリーが展開していく中、戦国時代の武将や社会について、あらためて関心が集まっています。一方、歴史研究者の本郷和人先生がドラマをもとに深く解説するのが本連載。今回は「信長包囲網」について。この連載を読めばドラマ本編がさらに楽しくなること間違いなし!

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「反信長同盟」は形成された?

戦国時代を語る時、「信長包囲網」という概念がよく使われます。

テレビ番組でもよく耳にする言葉です。

これは何かというと、十五代将軍・足利義昭が全国の戦国大名に「織田信長を討て」と呼びかけ、それに呼応する形で、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺、毛利氏などが連携し、巨大な「反信長同盟」を形成した、というものです。

第十七回の放送でも、従者に変装し足利義昭が甲斐を訪れ、信玄に信長討ちを要請する場面が描かれました。

しかし、本当にそんなものがあったのでしょうか? 私はこの「信長包囲網」なるものの扱いには、かなり注意が必要だと考えています。

いや、いつも言っていることですが、ドラマや小説の中で、フィクションとしてならもちろんオッケーです。

ですが、研究者が真顔で言ってしまうのは、まずいのではないか、と。

というのは、中世史研究においては、「古文書に書かれていることが、そのまま現実に反映されるとは限らない」と一歩引いて疑うことが、基本だからです。

中世史研究の基本「文書=現実」ではない

学生時代、私は日本史研究室(当時は国史研究室)の石井進先生、史料編纂所の桑山浩然先生から、くり返しくり返し、このことを教えられました。


本郷先生のロングセラー!『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)

例えば、ある武士が将軍から、「土地Aをお前に与える」という文書を受け取ったとします。

しかし、その瞬間に土地Aが本当に自分のものになる、とは限りません。

現地へ行ってみれば、「その土地のボス」的な有力者が居座っているかもしれない。

地元の武士たちが、素直に言うことを聞いてくれないかもしれない。

つまり、中世社会においては、「文書が存在すること」と、「その内容が現実化すること」は、全くの別問題なのです。

ラブレターを何通も書いたからといって…

現代社会に生きる私たちは、どうしても「書類がある、イコール、効力がある」と考えがちです。

土地の登記簿であれ、契約書であれ、日本という国家が強力な行政力と警察力を持っているからこそ、それは実現します。

しかし中世社会は違うのです。命令を文章化したからといって、その通りになる保証はない。そこには軍事力、交渉力、人間関係、在地勢力との妥協など、さまざまな要素が介在します。

私は一般の方にこのことを説明する時、よくラブレターを例として使います。

例えば、男性が女性に向かって、「私はあなたを愛しています。どうか私の愛情を受け入れてください」と手紙を書いたとします。

しかし、どんなに心を込めて、また何通も何通も手紙を書いたからといって、お目当ての女性がその求愛を受け入れるとは限りません。

女性にその気がなければ、断られて終わり、です。

つまり、「文章が存在すること」と、「その内容が実現すること」は違うのです。

信玄は義昭の命令で動いたのか…

これは中世文書も同じです。

足利義昭は、たしかに数多くの御内書(ごないしょ。将軍の手紙に形式が付与された、室町幕府に特有の文書)を発給しています。

信長を討て、朝倉と連携せよ、武田と協力せよ、そうした内容の文書が残っています。

ですが、その文書が存在することと、「巨大な統一反信長同盟」が実際に成立していたことは、別問題なのです。

例えば武田信玄は、本当に義昭の命令によって動いていたのでしょうか。

私はそうは思いません。

武田信玄は、武田家自身の利益のために動いていたと見るべきでしょう。

遠江・三河方面への進出、徳川家康への圧迫、東海道支配。まずそこに現実的目的があったはずです。

政治構想としては極めて弱い

同様に、浅井氏には浅井氏の事情があり、朝倉氏には朝倉氏の事情がある。

本願寺には本願寺の事情がある。彼らは「反信長」という一点では一致していたかもしれません。

しかし、その先にどのような政治秩序を作るのかという点については、ほとんど共通理解がなかったように思われます。

仮に武田信玄が織田信長を倒したとして、その後はどうなるのでしょうか。

結局は、「次は武田信玄が危険だ」という話になるだけではないでしょうか。

つまり、「信長包囲網」が成功した瞬間に、今度は「信玄包囲網」が始まる可能性すらある。

そう考えると、「反信長」というだけでは、政治構想としては極めて弱い。

私は、「信長包囲網」という言葉が、後世の歴史叙述の中で、かなり実体以上に強調されているように感じています。

戦国時代の「複雑さ」を見えなくする危うさ

もちろん、義昭が何もしなかったと言いたいのではありません。

官僚組織がない、直轄軍がない、そうした苛酷な制約の下で、義昭は将軍として、反信長勢力を結びつけようと努力しました。

しかし、それをもって、「義昭を中心とする巨大な統一同盟」が存在したと考えるのは、やや単純化が過ぎるのではないか。

むしろ実際の戦国政治は、それぞれの大名の個別事情、すなわち地域戦略、利害対立、一時的連携、日和見、裏切り等々の連続だったはずです。

私は、「信長包囲網」という言葉は便利ではあるけれども、その便利さゆえに、かえって戦国時代の複雑さを見えなくしてしまう危険があると思っています。

少なくとも、「義昭が御内書を書いた」ことと、「全国規模の反信長統一戦線が実在した」ことは、同じではない。

このことは中世という社会、強力な統一権力が存在しなかった社会をどう見るか、という歴史研究者の「大局観」にもろに関わってきます。

ですからフィクションならばまったく構いませんが、歴史研究に従事する人が言及する場合は、慎重に考える必要がある、と指摘したいのです。