映画史における『メイ・ディセンバー』の意義深さ 実話ベースの作品に対する“問いかけ”に
トッド・ヘインズが監督を務め、ナタリー・ポートマンとジュリアン・ムーア共演で火花を散らす役柄を演じる、『メイ・ディセンバー ゆれる真実』。その内容は、実話を基にした映画の常識を揺るがせる、異様かつ挑戦的なものだった。
参考:ナタリー・ポートマンとジュリアン・ムーアが共演 『メイ・ディセンバー』7月12日公開決定
モデルとなっているのは、アメリカで1990年代に実際に起き、大きなスキャンダルとなった、通称「メイ・ディセンバー事件」。その事件とは、教職にあった既婚の30代女性が、当時12歳だった少年と不倫関係になったというもの。逮捕された女性は服役中に出産し、出所後に二人は結婚した。その後、2018年に二人の離婚が成立し、女性は末期がんによりこの世を去っている。
ちなみに「メイ・ディセンバー(5月、12月)」とは、暦の上において1年のなかで離れた月同士であることから、転じて年齢が離れた「年の差カップル」を表す言葉であるという。
本作『メイ・ディセンバー ゆれる真実』は、基になった事件とは微妙に設定が変更され、事件当時の少年の年齢が13歳になっていたり当事者の名前が置き換わったりしているものの、当時の報道を知っている人々にとっては、すぐにピンとくる内容であり、監督自身も同事件がモデルであると認めている。
だが、描かれるのは事件そのものではなく、スキャンダルから20年経った、元服役囚のグレイシー(ジュリアン・ムーア)と元少年ジョー(チャールズ・メルトン)との結婚生活だ。そこに、事件を映画化するという企画が持ち上がり、グレイシーの役を演じるという俳優エリザベス(ナタリー・ポートマン)が役柄のリサーチのため密着取材にやって来るところから、物語が動き出していく。
エリザベスは、グレイシーの人物像や事件の核心をつかむため、グレイシー本人や夫のジョー、子どもたち、さらには事件の関係者らと対話を重ね、知られざる真実へと近づいていく。しかし、その試みは意外な方向へと転がっていき、つながったはずの論理はほころびを見せるのだった……。
メタフィクション風の趣向も興味深いが、焦点となるのは、やはりグレイシーとジョーの人間性から浮かび上がる、二人の関係がどのようなものだったのかという部分だ。本作では、グレイシーがジョーの精神を少年時代から結婚後もコントロールしていたという疑惑が描かれる。
ジョーはグレイシーを擁護し、自分と彼女はそのように操り操られる関係ではないと主張しているが、同時に、やはり自分はコントロールされているのではないかという不安をどこかに抱えている。ジョーがその疑問をグレイシーにぶつけると、彼女は「あなたが自分の意志で私を誘惑した」と納得させようとする。
しかし事件を客観的に見て、30代女性と13歳の少年という、大人と子どもの関係において、そのような展開に自然になるのかという点については、疑わしいものがある。少年が無理に暴行に及んだなら話が変わってくるが、基本的に女性の側が毅然とした態度をとれば、そのような関係にはなりようがないはずだからである。
大人が子どもを手なずけて性的な関係へと誘導するような手法を、「チャイルド・グルーミング」と呼ぶ。孤立している傾向にある子どもを選び、優しくすることで特別な信頼関係を結び、行動をコントロールしていくのが、その常套手段である。劇中で描かれるグレイシーとジョーの関係が完全にそうだとは断言できないが、少なくとも「チャイルド・グルーミング」の要件に、多くの部分で重なっているのは確かだ。
劇中では、ジョーが飼っている蝶の幼虫が、さなぎから羽化する様子が映し出される。このシーンが象徴しているのは、30代となったジョーが自分の思考に疑問を感じたことで、ついに精神的な自立を果たそうとするという構図である。つまり、ジョーはいままでグレイシーの願望に従うように誘導され、それを自分の自由意志であると、意図的に誤認させられていたということだ。
そのせいで彼は、本当の意味で“自分で考え自分で決める”経験をすることができず、子どもから大人に精神的な成長を遂げる機会も奪われていたということになる。この悲劇的な役柄を、チャールズ・メルトンは見事に繊細に演じている。
この、大人による子どもの支配というのは、本作にとって非常に重要なテーマである。もともと本作の企画は、本作の出演者であるナタリー・ポートマンが脚本を読み、ヘインズ監督に打診することで成立していったという経緯がある。
ナタリー・ポートマンといえば、子役時代から映画業界で仕事を続けている俳優であり、13歳のときに演技をした映画デビュー作『レオン』(1994年)のマチルダ役で脚光を浴びている。その後、人気俳優となったポートマンは名門ハーバード大学に入学し心理学を専攻すると、大学時代は仕事を減らして学業を優先したのだという。その経験が、現在彼女が参加する社会活動への意識にもつながっていると考えられる。
2010年代以降、ポートマンは自身の仕事で性的な役割が求められることを問題視していることを公に発信し始め、とくに近年は映画デビュー作である『レオン』について、自分のキャリアを築いた重要な作品であることを認め感謝しつつも、作中で自身の役柄がセクシャルなものとして表現されていたことに苦言を呈するようになった。(※)ちなみに『レオン』が子どもに性的な要素を見出す作品であったことは、改稿前の脚本や『完全版』の内容で、より明らかなものとなっている。
ポートマンは、子役時代は夢中で役を演じていたものの、高度な教育を受け勉学に励み、大人としての視点を得て自分のキャリアを振り返ることで、そこに問題があったということに気づいたのである。そしてそれ以来、子どもの頃から業界に入ることのリスクをうったえるようにもなった。つまりポートマンは、ある意味で映画業界のグルーミングを受け、そのことに気づいたという見方ができる俳優なのである。
そんなポートマンが、チャイルド・グルーミングの要素のある題材を映画化にこぎつけようと尽力したというのは、偶然ではないだろう。だからこそ、事件におけるさまざまな点が不確定的に描かれる本作にあってなお、特殊な状況下で子ども時代を送ったジョーの心理については、かなり突っ込んで表現されているのではないだろうか。
しかし本作では、グレイシーの人間性を探ることがメインであったはずにもかかわらず、彼女については断定的な描き方を避けている。結局、グレイシーという人間の本質には到達できないのだ。そして、彼女を理解したと思い込んでいたエリザベスは、演技の迷宮に迷い込むこととなる。
このような趣向の裏には、これまでも作中の登場人物を複雑かつ繊細に描いてきたヘインズ監督が、対象を単純化して描きがちである映画界に対する反発心や、対象をできる限り人間らしい流動的でグラデーションのある存在であることを示そうとする、一種の誠意があることは言うまでもないだろう。
とはいえ、そういった映画づくりの課題は、「メイ・ディセンバー事件」に限らないというのも事実なのではないか。実話を基にした作品では、上映時間の都合上、どうしても単純化をしなければならないところがあるし、見立てが間違うことも当然あるだろう。
そもそも実際の事件を扱うこと自体に不謹慎な部分があるのだから、そういう道を選んだ時点で、事件に真っ正面から向き合って、単純化を経て伝えるべきテーマを提示することが映画には求められ、その内容の責任は監督や製作者が負うべきだと思えるのである。その意味では、今回のヘインズ監督のスタンスは、良く言えば繊細かつ野心的だといえるだろうし、悪く言えば腰が引けていると指摘することもできる。
だがどちらにせよ、本作『メイ・ディセンバー ゆれる真実』が、実話ベースの映画作品全体に“問いかけ”をするようなコンセプトを持っているという点で、映画史のなかである種の意義を持つ内容になったことは確かなところだ。そして本作を楽しむためには、観客一人ひとりが事件や映画づくりについて、思考を深めることが必要とされるのも、間違いのないところだろう。
参照※ https://www.ellegirl.jp/celeb/a84817/c-natalie-portman-doesnt-think-leon-could-be-made-today-19-0529/
(文=小野寺系(k.onodera))
