路線の新規開業や改良工事によって、今では見られなくなった鉄道の「日常風景」がいくつかあります。人によっては懐かしく思うかもしれませんが、現在と比べると、不便に思えるようなものも。

懐かしい風景、しかし今思うと不便だった

 首都圏の鉄道風景は、新規開業、改良工事などにより、かつての姿から大きく様変わりしました。古き良き風景の消滅は寂しい反面、当時の「日常」は、今考えると大変不便だったと思えるものが多くあります。

東京駅と上野駅で分断されていたJR幹線

 都市圏の鉄道ネットワークは、中京圏では米原〜豊橋、関西圏では敦賀〜播州赤穂など、古くから一体的な運転が行われていました。首都圏でも横須賀線と総武線は一体的に運転されていますが、一大幹線である東海道線と宇都宮線・高崎線は、つい最近まで、それぞれ東京駅と上野駅をターミナル駅として別々に発着していました。


上野駅に停まる札幌行き特急「北斗星」。北へ向かう多くの長距離列車が発着した上野駅の風景も変化(画像:写真AC)。

 そのため、東京都心を挟んで南北を移動する際には、いったん山手線もしくは京浜東北線に乗り換えて東京〜上野間を移動する必要がありました。

 2001(平成13)年に湘南新宿ラインが開業、渋谷や新宿を経由して南北の幹線を結ぶルートが形成されました。そして、2015(平成27)年に上野東京ラインが開業し、東海道線と宇都宮線・高崎線は完全に一体となり、東京駅と上野駅は通過点となりました。

駅一つ分ずれていた渋谷駅埼京線ホーム

 JR渋谷駅の埼京線ホームは、1996(平成8)年の開業以来、山手線のホームの南端よりもさらに南側に位置していました。

 そのため、ハチ公口から埼京線や湘南新宿ラインを利用する場合、山手線のホームの北端から、のべ電車11両分ほどの距離を延々と歩き続ける必要がありました。ガイドブックでは、「いったん山手線に乗り、恵比寿もしくは池袋まで行って乗り換えたほうがいい」と書かれることもあったほど。

 このような異様な配置になったのは、埼京線が元々貨物線であり、すぐ東隣に東急の渋谷駅のターミナルビルがあったことから、山手線の渋谷駅ホームに並行して埼京線ホームを設置する用地が確保されていなかったためです。

 2020年に、渋谷駅周辺の再開発とともに埼京線ホームは山手線と同位置に移転。埼京線の「大きくズレたホーム」は、新宿駅を残すのみとなりました。

今では当たり前の移動手段も、当たり前ではなかった

 現在は乗り換えなしで移動できる方法も、思い返せば昔は存在しなかった、そんな例もあります。

渋谷で止まっていた東急東横線

 東急東横線の渋谷駅はかつて地上2階にあり、線路が駅構内で途切れる、東武の浅草駅のような純然たるターミナル駅となっていました。当時の東横線は、15分間隔で手前の中目黒から日比谷線へ電車が乗り入れていく以外は、渋谷〜桜木町間で運行されていました。


地上時代の渋谷駅(画像:写真AC)。

 当時、横浜方面から東横線で新宿や池袋に向かう場合、必ず渋谷から山手線に乗り換える必要があり、ラッシュ時は渋谷駅で東急とJRとの乗り換えを行う大行列が見られました。2001(平成13)年に湘南新宿ラインが開業し、横浜駅から東京副都心へ直通する電車が走るようになると、東横線はJRに対して利便性で遅れをとるようになりました。

 大きく変化したのが、2013(平成25)年の東京メトロ副都心線との相互直通運転開始です。渋谷駅は2008(平成20)年開業の地下駅に切り替えられるとともに、副都心線および西武池袋線・東武東上線への乗り入れが基本となり、渋谷駅は単なる通過点にすぎなくなりました。

空港島まで行かなかった京急空港線

 1956(昭和31)年、京急穴守線(現:空港線)に「羽田空港駅」が開業しました。しかしこの羽田空港駅は名ばかりで、いわゆる空港島の手前、海老取川の西側にある小さなターミナル駅にすぎませんでした。空港ターミナルへのアクセスも悪く、1964(昭和39)年の東京モノレール開業後はほとんどアクセス鉄道の意味を成していない状態でした。

 1993(平成5)年に現在の天空橋駅が「羽田駅」として開業し、東京モノレールとの乗り換えが可能になりました。そして1998(平成10)年、現在の羽田空港第1・第二ターミナル駅まで延伸開業を達成し、40年近い月日を経て、京急空港線はようやく羽田空港へ直接アクセスする路線へ昇格したのです。

ようやく悲願達成、これから「当たり前」になっていく風景

 利便性向上のための改良工事には、長い年月がかかったものもあります。近年その工事が完了し、まだ新鮮さが残るものの、これから新たな日常風景となっていくであろう例を紹介します。

地上を複線で走っていた、都内の小田急線

 都内の小田急線は長らく、現在の京王線の明大前駅周辺のように、密集した住宅地を縫うように2本の線路が走る風景でした。朝夕のラッシュ時には、1本の電車の遅延があっという間に後続に波及していき、優等列車も前の電車を追い抜くことができず、ノロノロ運転は日常茶飯事となっていました。


1992年撮影、地上時代の小田急小田原線経堂駅。こじんまりした駅施設に、留置線も見える。牧歌的な風景(国土地理院の空中写真を加工)。

 1964(昭和39)年、東京都の都市計画により、代々木上原〜和泉多摩川間の連続立体交差事業がスタート。しかし、沿線住民との調整などがスムーズに進まず、計画の具体化から事業着手まで、長時間を要することになります。

 2002(平成14)年に梅ヶ丘〜和泉多摩川間の高架化・複々線化が完了。それからさらに16年後の2018年に、東北沢〜梅ヶ丘間の地下化・複々線化が完了しました。1989(平成元)年の喜多見〜和泉多摩川間の着工以来、30年近くかかった複々線化がようやく実現できたのです。
 
 複々線化完了後のダイヤ改正では、平日朝のラッシュ時で21本増、同夕夜の時間帯で39本増というすさまじい大増発が行われ、混雑率が緩和されるとともに、列車の定時性も大幅に向上することになりました。