「ショート2万、朝まで4万。置屋ではママが…」“ヤバい島”の実態を元ヤクザが赤裸々証言 から続く

【画像】“売春島”の宴会に現れたコンパニオンたち(2005年)

 今も公然と売春が行われ“売春島”と呼ばれている三重県の離島・渡鹿野島――。「ヤバい島」として長くタブー視されてきたこの島の実態に迫ったノンフィクションライター、高木瑞穂氏の著書『売春島 「最後の桃源郷」渡鹿野島ルポ』(彩図社)が、単行本、文庫版合わせて9万部を超えるベストセラーになっている。

 現地を徹底取材し、夜ごと体を売る女性たち、裏で糸を引く暴力団関係者、往時のにぎわいを知る島民ら、数多の当事者を訪ね歩き、謎に満ちた「現代の桃源郷」の姿を浮かび上がらせたノンフィクションから、一部を抜粋して転載する。

(全3回の3回目。#1、#2を読む)


置屋のあった島の路地裏(著者提供)

◆◆◆

“売春島”に降り立ってみると…

 だだっ広い室内の片隅で一人、老婆がコーヒーを飲んでいた。僕と佐津間(仮名)さんと老婆の他に客はいない。しずまりかえった空気のなか、カウンターに立つ店主の女性だけが手を動かしていた。

 窓から見える船着き場にも、賑わうはずのメインストリートにも人影はない。荒涼とした景色のなか、廃業した不釣り合いなほど大きなホテルやスナックが無言で居座るだけだ。その様子から、この島が時代から取り残されているのは明白だった。

 2017年1月のことである。僕は三重県志摩市渡鹿野島の、とある飲食店にいた。

“売春島”の取材を続けていたのだ。

「あのねぇ、夕方のメイン通りには、ポン引きから娼婦から客からもう、まっすぐ歩けんほどいっぱいおりましたわ。置屋も、今もやっとることはやっとるけどもう、見る影もありませんわ」

 同行してもらった佐津間さんが、変わり果てた島の姿に呆然とするかのごとく口にした。

 それは、ひとたび島を歩いて回れば嫌でも実感できることだった。解体途中のプールが放置されたまま廃墟となった大型ホテル。点在する、荒れ放題となったアパートの数々。ときおり住民ともすれ違ったが、乳母車を支えにして歩く高齢者ばかり。それほど人も、そして建物も元気がない。

 いまはヤクザ組織に身を置いている佐津間さんは、稼業の道に入る約30年前、約2年に亘りこの島の内装職人として住み込みで働いていた。島の関係者にあたるため、知人のヤクザ幹部から紹介されたのが、“売春島”の対岸に位置する地元、鵜方地区で暮らす、この佐津間さんだった。

元警察官が置屋の経営者だった

 1983年当時の渡鹿野島には、置屋十数軒、ホテルや旅館が10軒ほど、他にも商店、飲食店、はたまたゲームセンターまで建ち並んでいたのだと、ここへ歩いてくる途中で佐津間さんが昔話をしてくれた。

 同行してもらったのは、他でもない。佐津間さんは当時、“売春島”にあるうどん屋の2階を寝床にしていた。そのうどん屋の店主を訪ね昔話を聞かせてもらうためだった。

 しかし、既にその店は跡形もなくなっていた。また佐津間さんが顔なじみだった住民たちに話を聞こうと訪ね歩いたが、既に亡くなっているのか誰とも出会えず、それも叶わなかった。

「スナックは『恋の坂』、ホテルは『つたや』……島の、ほとんどの商業施設のクロスを張りましたわ。いつからあったかは知らんけど、既に老朽化しとって、その建て直しやリフォームをしたんですわ。

 元々はね、四国の人間が多いんです。どういうわけか、四国の人間が移り住みスナックやら置屋やらの商売を始めたんですわ。大将のKさんはもう亡くなりましたけど、『恋の坂』などみんなそうですわ。そのKさんなど、売春で稼いで金を持っとる四国から来た商売人が、島の人らによくお金を貸しよった。そのカネでみんな、各々商売を始めてね。それでこの島は発展したんですわ」

「その四国の人らはヤクザなのですか」

「いや、カタギの人らです。でも裏で繋がっとりますわ。特に『つたや』さんは、島では有名な顔役でね、よくA組が出入りしとった。ヤクザは……やっぱりA組が多かったね。島で商売しとったA組の姐さんが確か、三重県内で飲食店を経営してるはずや。置屋を経営しとった寒川(仮名)という男も、元はA組の人間ですわ」

 Xが言っていたように、やはりA組が暗躍していたのだ。佐津間さんが続ける。

「でも、元々の地元の人らは悪いことをしていませんでした。ただ食堂とか喫茶店、居酒屋、旅館、渡し船……売春目当てで来る客たちのために周辺産業で置屋に協力しただけでね。

 それと、『つたや』の旦那は元、鳥羽署の警察官やったね。名前は確か、芥川さん。奥さんは置屋の経営者で、芥川さんは30年近く前、そのママとネンゴロになって、その後、『つたや』を開業したんですわ」

 僕は色めいた、これまでの取材成果が点と点で結ばれようとしていたことに。佐津間さんが言う、三重県内で飲食店をする姐さんは、状況からして、Xが言うA組の姐さんと同一人物だろう。単なる噂だと思っていた元警察官の男は、芥川という名前でしかも、実在していたのだ。そして、Kさんを始めとする、四国からやってきた面々。

 その昔、なぜ彼らはこの島で商売を始めたのか――。

古い住宅地図をめくってみると…

 佐津間さんと別れた僕は、急いで島を離れ東京に戻った。知り得た情報を精査するためである。

 その足で、僕は法務局(登記所)に向かった。島に現存する土地と建物の不動産登記簿謄本をしらみつぶしに調べることにしたのである。

 そこで得た『つたや』の謄本には、芥川さんの名前はなかった。所有者の欄には『岡田雅子』の名前が。これが、佐津間さんから聞いた“置屋経営者のママ”で間違いないだろう。

 その『つたや』は、2016年10月に競売にかけられ、所有権は神奈川県横浜市のKという人物に移転していた。既に廃業していることは知っていたが、何があったのだろうか。

『恋の坂』の謄本では、金貸しをしていたというKさんと、その内縁らしき女性、Kという名字の女性の名前もあった。佐津間さんに電話で確認すると、芥川さんと岡田雅子、それにKさんは既に亡くなっているという。が、Kさんの内縁者は今でも島で置屋を経営し、“Kさんの嫁”であることが分かった。

 一歩前進したが、既に重要な取材対象者が亡くなっていることに愕然とした。残るはKさんの嫁、A組の姐さん、そして元A組の置屋経営者、寒川さんだ。

 翌日、“売春島”の遍歴を調べるため、国会図書館で渡鹿野島の住宅地図を閲覧した。現存していた最も古いものは、1968年。以降、古いものは飛び石だが、1990年代からは連続して残っていた。

 住宅地図を広げ、居住者の名前や店舗の屋号をつぶさに調べた。1968年にはホテル、旅館、飲食店が1軒ずつ。あとは民家だけのようだった。

 しかし1977年になると、宿泊施設は6軒ほどに増え、複数のスナックやアパートもあった。

パチンコ屋、ギャンブル場もあった繁華街だった

 1979年にはそれらが増えているばかりか、パチンコ屋『デンスケ』という記述も見られた。さらに1996年にはパチンコ屋がなくなり、代わりに『S』『H』など置屋と思しきスナックが乱立していた。さらに商店、喫茶店、美容院など商業施設が格段に増えている。

 その状況は2000年代初頭まで変わらず2003年、『わたかのパールビーチ』がオープン。そして2016年、多くの宿泊施設が廃業し、置屋も数軒残るのみとなっていた。

 この作業により、島の遍歴が朧げながら見えてきた。まず、パブやスナックを装った置屋ができたのは1970年代のこと。それまでは、宿泊施設はあったものの、寂れた離島だったということだ。

 1980年代に入ると、パチンコ屋が出現するなど飲み屋とギャンブル場が混在する繁華街の様相になる。以降、1990年代にかけて置屋が乱立し、文字通り“売春島”の様相に。ホテルなど商業施設もスクラップ&ビルドを繰り返していた。

 佐津間さんが内装業者として島に関わっていたのはこの時期で、彼の証言では、今から30年前には既に老朽化したホテルやスナックが多く、佐津間さんはその建て直しやリフォームを任されていたという。時代はバブル真っただ中だ。この島も、熱海や伊香保などの有名温泉街同様、好景気に湧いていたと予想できよう。

 それにしても、こんな小さな島にもパチンコ屋まであったとは驚きだ。それほど島は好事家たちを引き寄せていたのだろう。

 そして2000年代に突入すると、パールビーチが整備されるなど“売春島”からの脱却が進められ、それに反比例するかのごとく、現在に近づくにつれホテルや置屋が廃業していくのである。

(高木 瑞穂/Webオリジナル(特集班))