ノンフィクション『真説・長州力 1951-2015』(田崎健太著)が刊行され、稀代のプロレスラーの半生が今再び注目を集めている。「革命戦士」と呼ばれた時代の寵児の素顔をもっともよく知る男――元『週刊ゴング』編集長・金沢克彦氏に、長州力の逸話を聞いた。

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 私はファンの頃から長州力が好きだった。リングネームは本名の吉田光雄、頭はパンチパーマで、レスラーとしてパッとしない時代。この人はすごく強いはずなのに、なぜ陽の目を見ないのかと子供心に思っていた。

 長州力の名が発表されたのは、おそらくテレビの生中継だった。画面上に「長州力」の文字がバーンと出た瞬間に「え〜!」と。なぜなら当時は、ジャンボ鶴田、ロッキー羽田とか横文字全盛。それなのに長州力はないだろうと。

 さらに、長州がマイクを持って挨拶を始めた途端、タイガー・ジェット・シンが客席に現れ、暴れ始めた。会場の視線はシンに注がれ、誰も長州の言葉を聞いていない。私は子供心に「これはないだろ!」と憤りを感じた。だから1982年10月、長州が藤波辰巳(現・辰爾)に「俺はお前の噛ませ犬じゃないぞ!」と叫びブレイクしたときは嬉しかったね。

 86年、私は『週刊ファイト』の見習い記者としてこの世界に入った。当時は選手の控室にも気軽に入れて、レスラーたちはみんな気さくに話をしてくれた。しかし、新日本プロレスを離脱し、全日本プロレスのリングに上がっていた長州だけは、近づきがたい空気を発していた。

 後に私が「長州番」と呼ばれるようになったきっかけは、87年2月のこと。新日本への復帰が噂されていた長州は全日本の大会を欠場し、雲隠れしていた。伊香保温泉にいるという情報をキャッチし現地で張り込み、温泉から上がりお土産売り場に入っていく浴衣姿の長州を見つけた。

「お前はどこのもんだ?」
「ファイトの者です」
「自分のやっていることがわかっているのか?」
「わかっています。大変失礼なことをしています」

 誰から聞いた? なんでわかった? 食らわすぞコラッ!と凄まれた。恐かったけど、レスラーが手を出すことはないと私は思っていた。

 ロビーに腰を据え、コーヒーを注文してくれて、1時間ほど話し込むことになった。長州をキャッチした事実を記事にするかどうか、意見がぶつかった。結局、「長州には会えなかった、とデスクに報告する」と私は長州に告げた。

 ホテルには私だけではなく、他にも一社マスコミが来ており、翌日も朝8時からホテルに張り込むことになっていた。

「明日、朝9時に電話をくれ。部屋番号教えるから。マスコミがどこで張っているか教えてほしい。俺はホテルの裏口から帰る」

 そして、このスクープを胸に秘める見返りとして、ひとつの約束をしてくれた。

「いつか必ずお前の取材を単独で受けるから、男と男の約束をしてくれ」と。

 そして7月、新日本復帰後の北海道遠征のときに約束は果たされた。夜、ホテルのバーに呼ばれて行くと、長州とマサ斎藤の間に座らされビールをガンガン飲まされた。その後、長州の部屋に通され、深夜にもかかわらず熱心に3時間くらいインタビューに応じてくれた。ただ、暑かったのか、長州は浴衣も着ずにスッポンポン、股間を枕で隠していた。せめてパンツは穿いてほしいなと思ったよ(笑)。

 私が89年暮れに『週刊ゴング』に移籍したとき、長州は新日本の現場責任者に就任していた。長州が行なった変革で特筆すべきは、マスコミを控室から締め出したこと。控室は選手の聖域であり、記者にウロウロされたくない、冬に控室で記者たちがストーブにあたってバカ話しているのを見ると腹が立つ、こっちは命がけでリングに上がっているんだと、よく言っていた。長州がそういう常識をつくり、ほかの団体もそれにならった。

 90年代の長州は、『闘魂三銃士』(武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也)を育てるなど現場責任者として新日本を隆盛に導く敏腕プロデューサーだった。武藤敬司が海外遠征から帰国したとき、「グレート・ムタはやらせない、あれは日本にはそぐわない」と言っていたが、ムタを見たいという声が高まると意外と早い段階でムタを登場させた。そういう頭の柔らかさもあった。

 95年10月のUWFインターナショナルとの全面対抗戦では、東京ドームに6万7000人の観客を動員するなど、この時代はやることすべてが成功していた。

 PRIDEが出てきたときも、プロレスが負けるわけがないと言っていた。「PRIDEは一回一回の出来事に過ぎない、プロレスは大河物語としてストーリーを紡いでいって、クライマックスに持っていくものなんだ」と。長州にしか言えない言葉だ。

 自身はオリンピックレスラー(1972年のミュンヘン五輪に出場)であるにもかかわらず、レスリング出身者にはレスリングを忘れろ、相撲出身者には相撲を忘れろと指導。プロは別物なんだという確固たる信念があった。アントニオ猪木が格闘技に惹かれていったのと真逆で、むしろ長州はジャイアント馬場に近いものがあったね。お客さんとの勝負であって、勝ち負けを超えたものがプロレス、「ダイナミックなスペクタクルスポーツ」という言葉を使っていた。それが長州の「プロレス道」だったのかもしれない。

 ところが、総合格闘技が社会的ブームになり、オーナー猪木の司令で新日本の選手が総合のリングに上がるようになると、長州はすごくピリピリしていた。やがて現場責任者を外され、新日本を退社。2002年にWJプロレスを旗揚げしたけれど、この団体はいろんなすれ違いがあり、人間関係が崩れた。運命が狂ったと言うべきか。

 格闘技ブームの只中で「ど真ん中いってやる」と発言したのは、俺の最後の力を見せて全部ひっくり返してやる、俺がもう一回プロレスの凄みを教えてやるという気概に満ちていたと思う。だけど、時代は流れていく。

 WJの唯一のプラスの遺産といえば、今新日本で活躍している石井智宏を育てたこと。長州にとっては、石井はこれからもかわいい弟子だろう。

 新日本時代からよくサイパンで合宿を張り、そのときは長州の気持ちも緩む。晩飯はいつも楽しいものだった。

 長州が「よし! 今日は俺がチェアマンだ」と声を上げる。ロシア式の酒の飲み方で、仕切る人がチェアマン。「じゃあ、次、●●!」と指名されると飲まないといけない。そろそろ私の番が来るなと思ってグラスに酒を残しておくと、「金沢! 次来ると思って残してたろ!」と。なんでそんなところまで見ているんだ(笑)。本当にあの人は人間観察力がすごい。でも、無理強いはしないから、いつも楽しいお酒だったね。

 私が伊香保温泉で会った後、新日本に戻った長州はめちゃくちゃ燃えていた。「長州力のゴールはどこにあるんですか?」と聞いたときの答えをよく覚えている。

「ゴールは見えそうで見えない。天下をとると言っても、何が天下なのかわからない。俺の生き方からいって、そんなに綺麗な天下ではないだろう。藤波にしてもそうだし、自分で自分に釘を刺すことができない哀しい運命(さだめ)があるんだよ」

 つまり、自分の意思では引退できない、プロレス界を背負ってしまっているということ。独り言のようにつぶやいていたね。

 天龍源一郎は猪木・馬場からフォールを奪った唯一の日本人だけど、長州は猪木・馬場を動かした、右往左往させた唯一の男。ここまで人生が物語になる人は、もうなかなかいないだろうね。(談)

スポルティーバ●文 text by Sportiva