(右)出身大学別の社長数トップ10 (左)「日大出身」の主な経営者

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わずか4年間。学べるものには限りがある。だが、出会った仲間とは、終生の縁になる。学生数の多さとは、可能性の広さだ。振り返ったとき、その価値に気付く――。

■「超一流大学卒」よりも目の前の仕事に懸命

日本大学は言わずと知れた日本屈指の総合大学だ。法学部から芸術学部、薬学部まで文系、理系、医歯薬系の14の学部を持ち、通信教育学部を含めた学生数は約7万3000人。毎年、約1万6000人の新入生を迎える入学式は、日本武道館で3度に分けて行われる。「日本一社長が多い大学」としても知られるところだろう。歯学部出身の大塚吉兵衛学長は言う。

「学生の母数が桁外れに多いこともあり、日本のあらゆる場所に卒業生がいる。例えば地方の公務員になる学生も多く、社会の基盤となる部分で様々な人が活躍しているところに、日大の強みがあると思うんです」

では、そんな中、社を背負って立つキャリアを歩んだ人々には、どのような特徴があるのだろうか。大塚学長は次のように続けた。

「日大は良くも悪くも一般的な位置づけの大学。その意味でよく指摘されるのは、得てして自己評価が高くなりがちな超一流大学の卒業生と比べて、うちの卒業生は新入社員の頃からその場その場の仕事に積極的に取り組んでいく力が強いこと。社長にまでなる卒業生は特に最初の数年間の下積み時代、懸命に目の前の仕事をする中から次のキャリアを切り拓いていった人が多いのではないでしょうか」

■「硬式庭球部卒」から自動車開発のプロになる

福島県郡山市に拠点工場の一つがある自動車部品メーカー・エイチワンの金田敦社長は、こうした大塚学長の言葉に深く頷く一人だ。主にホンダ車の骨格部品や金型を製造する同社は、海外にも多くの工場を展開する従業員7000人のメーカー。金田社長は経済学部の出身である。

「僕は郡山の出身。同じ街に工学部や付属高校の日大東北があったので、日大は友達も多い身近な大学でした」

学生時代、金田社長は経済学部の硬式庭球部に所属していた。学内には各学部に同好会があり、仲間は多い。「“硬式庭球部卒”と言いたくなるくらい、テニスばかりをしていた学生時代だった」と彼は振り返る。

「ただ、日大が掲げる『自主創造』の精神だけは、その中で培われたように感じているんです」

金田社長は入学の年、父親を病気で亡くしている。エイチワンの前身となる本郷製作所に就職したのは、いずれ母の暮らす地元に戻りたいと考え、郡山にも拠点のある企業を選んだからだった。

「入社してからは無我夢中でした。というのも、私は経済学部とは全く関係のない畑を歩むことになったからです」

埼玉県の戸田にある工場に配属された彼は、主要取引先のホンダの研究所に通いながら、開発の部署で下積み時代を過ごすことになった。20代のうちには郡山市の事業所にも異動となり、溶接設備や工作機械ロボットの制御の仕事も担当することに。「大学での勉強より、会社に入ってからの勉強のほうがはるかに大変だった」と笑う。

34歳のときにキャリアの転機が訪れる。ホンダの生産拡大に伴ってアメリカのオハイオ州に生産拠点をつくることになり、現地での工場立ち上げを任された。彼は学生時代に出会った妻と2人の子供と渡米した。

「派遣されたときは、英語も苦手でしたから、子供向け絵本から勉強を始めました。州法や税務も勉強しながら工場をつくり、それが終わるとアラバマでの2つ目の拠点工場の立ち上げも担当しました」

帰国したのは6年後の2002年末。以後、経営企画や生産、開発など様々な部署の責任者を経て、49歳で社長となった。

「僕のキャリアはだいたい3年に1度、未経験の部署に行くことの繰り返し。モットーとしてきたのは、『当たって砕けろ、何でも勉強、いつも前向き』の精神です。自分が日大の卒業生なんだなと思うのは、むしろ最近になってのことですね。当時の庭球部の仲間と集まったりすると、校歌がスラスラと出てくるんです。そんなとき、あの『自主創造』という理念が確かに自分の原点になっているように感じるんです」

■「あの4年間がなければ今頃どうなっていたか」

2013年に青森県のみちのく銀行の頭取に就任した高田邦洋氏は、「各ポジションで周りに支えられ、どんな困難にもへこたれず、結果を出してきた積み重ねが、いまの自分をつくった」と語る。

実家が農家という彼は、年長の男兄弟も多く、「家業を継ぐという選択肢はなかった。東京に出て大学に進学することは、自らの将来を自らの手で選び取るために必要だった」と振り返る。

法学部に入った高田頭取が銀行員という道を選んだのは、学生時代に清掃会社の派遣先である外資系銀行でアルバイトをしたことがきっかけだった。顔見知りとなった行員から、夏休み中に都市銀行などを回るメッセンジャーボーイの仕事を頼まれた。

「大手町や日本橋を自転車で走り回り、各所で書類を届けた証しに判子をもらうんです。一般の方が入室できない為替のディーリングルームなどの様子を目の当たりにし、『銀行員も面白いな』と思うようになった。故郷の両親に負担をかけたくないという気持ちもあり、私の学生時代はアルバイトに明け暮れる日々。自由で放任的な学風がそれを許してくれたのは幸いでした」

高田頭取は、就職活動を銀行に絞って地元のみちのく銀行に内定をもらい、1981年の卒業と同時に入行した。以後、県内各地の営業店や経営企画部などを経験し、06年に取締役となる。

「東京での4年間の大学生活がなければ、いまの自分がどうなっていたかは想像できません。日大は東京のど真ん中に校舎があり、全国から大勢の学生が集まる大学ですから、地方出身の私が社会を知るうえでのいい環境だったのでしょう」

■創業の原点をつくった貸レコード店でのバイト

そんな高田頭取が弘前の支店で銀行員としての新人時代を過ごしていた1985年、金田社長と同じ経済学部の3年生にエイベックス・グループ・ホールディングスの松浦勝人社長がいた。彼はその年のある日、学部の休講掲示板の前で高校時代からの友人・林真司氏(同社の代表取締役の一人)と会う。そして、「今、貸レコード店でバイトをしているんだ」と聞いて覗きに行った横浜市港南台のアルバイト先が、後にエイベックス創業の原点となる「友&愛」という店だった。当時の学生生活を松浦社長はこう振り返る。

「1、2年生のときはほぼ毎日学校に行って単位を取り、割とまじめな学生生活を送っていました。それでほとんどの単位を取ってしまったので、3年生からはその貸レコード店でずっと働いていたんです」

松浦社長がダンスミュージックと出合ったのは大学1年生のとき。あるディスコで「ハイエナジー」の大ヒットナンバー「So Many Men,So Little Time」を聴いた。

「衝撃的でした。自分がこれまで聴いてきたハードロックやヘヴィメタルとは全く違う音楽。以来、『他にこういう曲はないか』と渋谷や池袋、新宿の貸レコード店を回り始めた」

それからは学生時代に何千枚というレコードを集めていく。アーティストやプロデューサーの名前、レーベル名を書き出してリストを作るうちに、欧米のダンスミュージックの業界地図もわかるようになっていった。貸レコード店でのアルバイトでは、その知識を大いに役立てた。

正直に言えば、あの頃は将来に悲観的な気持ちもあった、と彼はいまでは語る。「将来は親父の会社(中古車販売業)を継ぐのかな」――数年後の自分の姿を漠然と思い描き、「嫌だな」と感じていた。だからこそ貸レコード店でのアルバイトの日々は、彼にとって大きな喜びだった。

「時給は当時の最低賃金の430円。レストランで働いても時給1000円はあった時代ですが、それでも音楽に携われていることのほうが楽しくて。いつもお店にいて、ああでもない、こうでもないとお客様を増やす方法ばかり考えていました。EXILEのリーダーのHIROと出会ったのも、彼がこの店に来ていたから。その後店長から店の仕事のほとんどを任されるようになって、店舗経営の面白さも知っていきました」

就職活動ではレコード販売店などを受けたものの、望む内定は得られなかった。そこで上大岡駅の近くに20坪の店舗を借りて独立。自らの知識を活かし、2年後には海外のダンスミュージックの輸入盤卸業を始める。「あの頃は毎日が不安でした」と彼は言う。

「でも、先のことを考えている暇なんてない。とにかく考え続けてきたのは、わかりやすいもの、みんなが聴きたいものを作ること。それでイタリアやオランダのアーティストの中に自社スタジオで作ったオリジナルの曲を交ぜ、コンピレーションとして売っていったわけです。当時、マハラジャやジュリアナにいた人たちは、自分たちの聴いている曲が町田の小さいスタジオで作られていることを誰も知らなかったでしょうね」

音源を新たに作る度に、各地のクラブに足を運び、DJブースで「次はこれをかけてくれ」と“営業”を続ける日々。後に日本の音楽業界の一角に食い込んでいくエイベックス創業期の風景である。

「日本の大学の場合、その4年間は一つのことに熱中できる唯一の時間みたいなところがありますよね。どんなジャンルであっても、誰にも負けない知識やノウハウを身に付けるくらい打ち込めば、その後の10年間くらいは最前線の変化についていける。自分が真剣になって一日中費やしたような趣味が、実際の将来の仕事に役に立つようなものだと、それこそ幸せでしょう」

■「キャリアなんて横から割り込めばいい」

松浦社長が港南台の貸レコード店に自分の道を見つけ出したその頃、下高井戸にある文理学部のキャンパスには映画製作に熱中する男がいた。日活の佐藤直樹社長である。

佐藤社長が映画の世界に出合ったのは日大に入学した1981年、サークルの勧誘でごった返すキャンパスを歩いていたときのことだ。校内の芝生で酒を飲んでいる集団がいた。周囲に転がっているのは、当時あった1980ミリリットル入りの瓶ビール「サッポロジャイアント」や一升瓶。彼らと視線が合った佐藤社長は、「文理学部映画研究会」に勧誘された。部室に置いてある数々の機材、当時はまだ色濃かった映画人たちのアウトロー的な雰囲気。先輩たちの勧めでいくつもの名画を見る中で、彼は映画製作の世界に魅了されていった。

「それからの学生生活は映画製作一筋。企画から資金集め、監督選び、キャスティング、上映会の準備まで、すべてやりました。大学時代の経験が僕の人生を決めたようなものです」

映画製作の現場には学生時代から関わっていたが、卒業後はすぐに映画会社へ就職したわけではなかった。

CM制作会社などを渡り歩き、大映に契約社員としてもぐり込んだのは30歳の頃。以後、「平成ガメラシリーズ」に携わるなどプロデューサーとして頭角を現し、同社の国内映画部門を引き継いだ角川映画では、映画製作担当の取締役を務めた。

日活の社長となった現在に至るまで、映画製作についてはある一つの姿勢を貫き通してきたと彼は語る。

「学生時代から、映画作りは“勝つか負けるか”だと思ってきました。商業映画では興行収入で勝利することが最も重要。そのうえで作品としても評価されたい。どんなに努力を積み重ねても負けることはあります。でも、だからこそ面白いし、一生懸命になれる世界だと感じています」

例えば日大時代、各学部の映画サークルを集めて「オール日大」を組織し、「オール日大vs六大学」という上映会を企画したことがあった。

その際にこだわったのは投票による「観客賞」を設けることだった。

「投票になればチケットを売った奴の勝ち。それなら数で勝る日大は強い。同様に体力なら他大学の映画サークルにも勝てると思い、同じ文理学部にある体育学科のランニングバルコニーで毎日トレーニングをしていたくらいなんです。ははは」

佐藤社長はそういって笑いながら、自身のキャリアを次のように語った。

「あの頃からとにかく映画を作るのが楽しくて、その後も同じように映画を作ることを楽しんできたという思いが僕にはある。僕は大学の成績は『優』が2つしかなかった。映画会社やマスコミの就職試験を受けても落ちたはずです。だから、キャリアなんて横から割り込んでやる、ってくらいの気持ちでいいと思っている。同じ土俵に立てれば、あとは勝ち負けですからね」

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日本大学学長 大塚吉兵衛 
1944年、栃木県生まれ。69年日本大学歯学部卒業。73年同大学院を修了。74年日本大学専任講師、79年助教授、93年教授。2011年第13代日本大学総長。13年に総長制から学長制に移行し、現職。
エイチワン社長 金田 敦 
1961年、福島県生まれ。86年日本大学経済学部卒業。85年本郷製作所(現エイチワン)入社(学生時代から勤務)。2008年常務。11年より現職。
みちのく銀行頭取 高田邦洋 
1957年、青森県生まれ。81年日本大学法学部卒業。みちのく銀行入行。99年小柳支店長。2006年取締役、12年副頭取。13年より現職。
エイベックス社長 松浦勝人 
1964年、神奈川県生まれ。83年日本大学経済学部に入学。84年に貸レコード店でアルバイトを始め、86年に上大岡で店舗を経営。大学卒業後、音楽レーベルを設立し事業の多角化に成功。2004年からエイベックス・グループHD代表取締役社長CEO。
日活社長 佐藤直樹 
1963年、北海道生まれ。86年日本大学文理学部卒業。在学中から自主映画の製作を手がける。90年大映入社、2002年角川大映映画に転籍。04年角川映画企画製作グループ部長、05年取締役。05年より現職。

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(稲泉 連=文 遠藤素子=撮影)