医者から「顔の原形がなくなる」、母親はショックで失神…“顔に大きな穴が空いた”希少がん患者の男性(22)が明かす、幼少期の過酷な治療
〈「これ、さすがにおかしいぞ」小2で顔面に“希少がん”発覚→右あご摘出→“顔に大きな穴が空いた”22歳男性が語る、病気が発症した経緯〉から続く
小学2年生で極めて稀ながんである「明細胞性歯原性悪性腫瘍(めいさいぼうせいしげんせいあくせいしゅよう)」を発症し、15年にわたって闘病を続けているもりひさん(22)。
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症状の進行によって顔面に穴が空いてしまったという彼に、“装置”と呼ぶ人工顎の装着、病と戦うもりひさんを支えてきた家族と友人たち、中学3年生での再発と重粒子線治療について、話を聞いた。(全5回の2回目/3回目に続く)

もりひさん ©杉山秀樹/文藝春秋
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「装置がガタガタ動いちゃう」右の上顎を全摘出して、人工の顎を入れている
――関西の大きな病院を回られているのですか?
もりひ 大阪国際がんセンターでも手術しましたし、阪大病院、近大病院、大きなところは全部行きましたね。
――6年生で再発して右の上顎を全摘出するまで、悪性腫瘍の疑いは出ていなかった。
もりひ 「どっちかやろうな」みたいな感じだったと思います。エナメル上皮腫と明細胞性歯原性悪性腫瘍って、見分けがなかなかつかないらしいんですよ。やっぱり見極めが難しかったんでしょうね。
まあ、どっちかわかっていたとしても、結局やることは同じで、摘出になっていたでしょうけどね。
――右上顎を摘出して、人工の顎を入れたわけですか。
もりひ そうです。上顎を歯と一緒に作ってるんですよ。チタンか何かで。それがなかったらもうご飯も食べられないし、しゃべれないし、何もできないです。もう、この上顎と歯はもはや装置ですね。
――装置に慣れるまでは、食べたり、しゃべったりするのは大変そうですが。
もりひ けっこう難しかったですね。この装置がガタガタ動いちゃうとしゃべれないんですね。だから、ベロの奥で押さえながらしゃべる。いろいろ試すうちに、話し方がわかってきましたね。
――学校の友達は、右上顎を全摘出したことにどんな反応を。
もりひ ほんといい奴らばっかりで、普通に接してくれるんですよね。なんも気にしてなかったです。学校に戻ってきても、「おお、帰ってきた」みたいな雰囲気だったし。退院して次の日には、もうみんなで鬼ごっこしてましたもん。
――ご自身も混乱や恐怖はあっても、気分を切り替えられたところが。
もりひ 意外と楽観視しがちな人間なので。それでも、手術はイヤな思い出ですけどね。やっぱり手術ってね、やばいっすよ。「俺が何したんやろ」って、罪を犯した気分になりますからね。
先生も親も「これ終わればなんとかなるから」とかなだめるけど、こっちは「いや、終わっても痛いし」と思ってるから(笑)。無機質な病室とか、大人になってもイヤですからね。
「再発したっていうのが、一番クラッてなった」母親は検査結果を聞くたびに失神
――子供心に両親も辛そうだなと感じていましたか。
もりひ 僕なんて耐えるだけなんでね。親って見ているだけしかできないから、一番辛いですよ。「自分の子供がそうなったら」と考えると、ちょっと僕は耐えられないですね。自分が医者だったら何かできますけど、親は何もできない。一般人ですから。
ただただ、子供の「痛い、痛い」を聞かされることしかできないんですよね。親だってなんも悪いことしてないのに、どうして自分の子供がそんな目に遭わなきゃいけないのかっていう。
――病気のことで親に当たってしまうことも。
もりひ そうですね。でも、僕がイライラしている理由が病気ってなると親も言いづらいとは思うんですけど、でもそこは割り切って叱ってくれていたんじゃないですかね。
病気だからって「何でも言うこと聞いてくれるわ」なんて僕が思うようになっていたら、今こんなふうに生きられてないから。そのあたりの教育の線引きは、親ながら神がかっていましたね。甘やかさず、怒るところはしっかり怒ってくれて。
――お母さんが検査結果を聞いて失神されたこともあったそうですね。
もりひ 母は検査結果を聞くたびに病院で失神してたんで。再発したっていうのが、一番クラッてなったんでしょうね。うちの母、貧血なのもあったし。
一方の父は、もう黙って先生と状況確認して。両方の親が失神してたらダメじゃないですか。だから「俺がしっかりしないと」ってところがあったと思います、父は。
――弟さんはどうでした。
もりひ 僕が病院ってなると両親がいなくなって、家に1人残されるじゃないですか。それがかわいそうで。父の妹夫婦がいるんですけど、2人が弟を遊びに連れていってあげたり、面倒を見てくれてて、すごく助かってましたね。
弟も優しくて気を使ってくれて、僕が頑張ってるから自分は大丈夫なんてことも言ってくれますし。
「噛む力もないし、痛いし」右上顎を全摘出してからの苦労
――右上顎を全摘してから、日常生活で大変だったことは。
もりひ 免疫は落ちますね、確実に。しょっちゅう熱出してたんで。あと、食べづらいです、やっぱり。右が全部ないんでね。それに慣れるのに半年、いや1年かかりましたね。噛む力もないし、痛いし、みたいな感じでした。
――どれくらい入院を。
もりひ 1、2週間やったかな。傷口が安定するまで入院でした。夜は1人なんで、寂しいんですよ。しかも小児病棟だったから、ちっちゃい子たちがギャン泣きして病棟に響くんです。
小6だとお兄ちゃんの扱いになるから、甘えたこと言ってられないし。ギャン泣きを聞いて凹んでましたけど、「あんな小さい子たちも頑張ってるしな」なんて考えて。
――右上顎全摘の際、やっと医師から「がん」だと告げられたわけですか。
もりひ いや、お医者さんから「がんですよ」と聞かされなかったです。治る、治らないという話もなかった。まあ、時の運というか「やってみないとわからない」って雰囲気でした。
「病院の先生になりたいとは考えなかった」小6の時に思い描いていた将来の夢
――そうした状況のなかで、どんな将来の夢を思い描いていました?
もりひ その頃から接骨院の先生やったらしいです。野球とかソフトボールをやっていたんですけど、自分に才能ないことぐらいは小学校6年生ぐらいでは気づいていたんで。
あと、人としゃべるの好きやし、だったら接骨院の先生だと。なぜか病院の先生になりたいとは考えなかったんですけど。
――どうしてでしょうね。
もりひ どっちになりたいと聞かれたら、自分に優しいほうを選ぶじゃないですか。今は病院の先生とは仲良くなって、めっちゃ親身になってくれるんですけど、小学校6年生のときは冷たい印象があって。
そのお医者さんは別として、機械的に診る方が多いですね。ヒトというよりは、ブツとして接するというか。でも、ヒトとして診ていたら、たぶんその人が壊れちゃうと思いますよ、お医者さんは。情が入っちゃうと無理でしょう。
中3で再発、医者から「顔の原形がなくなる」と言われ…
――右上顎手術の後は、症状も落ち着いたのですか。
もりひ いや、そこからが大変でしたね。中学校3年生で左側に再発したんですよ。で、これ以上顎を取ったら顔の原形がなくなるって言われて。要するに、今みたいな状態になることを恐れたんですよ、お医者さんは。
で、こうなることを恐れた結果、重粒子線治療をやろうってなったんです。結局こうなっちゃいましたけどね(笑)。
だけど、中学生の頃にこの状態になってたら、今どうなっていたのかわかりませんから。その選択は間違ってはなかったんじゃないですかね。
――重粒子線治療というのは。
もりひ 放射線を2カ月間当ててましたね。まだできたばかりの治療だったんですけど、ピンポイントで放射線を当てるという。それの副作用がえげつなくて。がんと重粒子の影響、どっちもあるから、こんな感じで穴があいているんじゃないかって言われてて。
――放射線の副作用で、皮膚が焼けてしまうような。
もりひ 細胞の治癒能力がなくなるんですよ。放射線を当てるから、血流がない状態になる。がんでなくなったところは、ほんまやったら治ってきてくれるんですけど、そこが治らない。細胞がどんどん死んでいって。
最悪のコンビなんですよね。重粒子とがんの再発って。
「この痛さから逃げるためには飛び降りるしかない」
――抗がん剤の選択は。
もりひ 当時はなかったです。あまりにも再発していくスピードが速かったらしくて、「もうこの方法しかない」と、重粒子になったみたいですね。
――放射線を当てた直後、症状はどうなりましたか。
もりひ 4年間ぐらいは別になんともなかったんですよ。副作用も、口がちょっとずつ開きづらくなって、顔が赤くなったぐらいで。でも、4年後ぐらいに顎骨(がくこつ)壊死といって、口の中にばい菌が入ったんですね。
重粒子を当てていない状態なら、免疫となる細胞がそのばい菌を倒してくれるんですけど、その細胞がないもんで、ばい菌がどんどん広がっていって、歯茎がどんどんなくなっていって。
――歯茎は腫れただけでも痛いですけど、それが壊死すると。耐え難い痛みだったのではないですか。
もりひ いや、もうえげつないですよ。このときが一番ほんまにもう、自殺する間際まで行ったかもしれないです。ほんとに痛くて。辛いとかじゃなくて、この痛さから逃げるためには飛び降りるしかないってなって。
撮影=杉山秀樹/文藝春秋
〈「皮膚が枯れて、ドス黒く変色し…」「顔にパチッと穴が空いた」“世界的に珍しい病気”になった22歳男性が語る、治療中の“壮絶すぎる痛み”〉へ続く
(平田 裕介)
