JR福知山線脱線事故から21年を前にラジオ関西の取材に応じる三井ハルコさん〈2026年4月10日撮影 兵庫県川西市〉

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 乗客106人が亡くなり、562人が重軽傷を負ったJR福知山線脱線事故は4月25日、発生から21年を迎えた。

 当時大学生だった次女が事故車両の2両目で大けがをした、兵庫県川西市の三井ハルコさんがラジオ関西の取材に応じた。

JR福知山線脱線事故から21年を前にラジオ関西の取材に応じる三井ハルコさん〈2026年4月10日撮影 兵庫県川西市〉

 昨年(2025年)12月、 事故車両を保存する施設が大阪府吹田市に完成した。施設は一般には非公開で、内部に入ることができるのは遺族や負傷者、また社員や運輸事業者の安全管理担当者らに限られている。
 事故現場一帯に整備した追悼施設「祈りの杜」(兵庫県尼崎市)での車両保存を望む声もあったが、JR西日本は非公開とした理由を「非常にセンシティブで、興味本位で見られたくないから」としている。

「祈りの杜」2018年9月から一般公開されている 事故現場のマンション跡地を中心に“慰霊の場”とした(兵庫県尼崎市久々知)

 三井さんがラジオ関西の取材や報道番組に出演し、思いを語るようになったのは事故から3年が経った2008年。遺族や負傷者が補償交渉や刑事・民事裁判など多くの課題と向き合っていた時期だ。これまでの取材に対し、事故車両についての発言を控えていた三井さんは重い口を開き、「非公開を続けることは避けてほしい。」と話した。

 一方で三井さん自身は保存施設を訪れていない。その理由は、「時間がすべてを解決してくれるわけではない。事故によって一度壊れた心、傷んだ身体は、そう簡単に元に戻らない。むしろ目に見えぬ“しこり”、無言の“苦しみ”として、重くのしかかっているから」。JR西日本によると、今年3月末までに遺族の約4割、負傷者の約1割が訪れたにとどまる。

 1985年に起きた日本航空ジャンボ機墜落事故をめぐっては、羽田空港にある日航の社員研修施設「安全啓発センター」で事故機体の一部や乗客の遺品が展示されており、一般の見学も可能となっている。それは事故から21年後のことだった。

 JR福知山線脱線事故と同じく、人々の安全神話を根底から覆した大惨事だった。三井さんがかつて、羽田空港の日航安全啓発センターで見た事故機体は、あまりにもインパクトが大きかった。
「機体を見ることは、社会的な出来事として、安全への意識を喚起する“教科書”になり得るかも知れないが、その車両を目にすることによって、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ人もいる。拙速に進めるものではなく、これからも議論を尽くすことが重要だ」と話す。
 ある負傷者は、「私たち負傷者の意見も聞き入れてくれていた」と一定の評価もあるという。

 三井さんは、「遺品や車両についての議論がある程度活発になったのは、これまでJR西日本との衝突や話し合いがあったからではないか」とみている。

事故の記憶を紡ぎ、安全な社会とは何かを問う「空色の栞」にリボンをつける この時の語らいで各人の心の動きを知る〈2026年3月7日撮影〉
今年(2026年)の栞はイギリスの湖水地方がモチーフに いつしか行ってみたい場所として...

 親元を離れている次女は、事故後しばらく、ラッシュアワーの電車に乗れない時期があった。今も一定区間をあえて乗らないようにしているという。 事故現場付近のことだ。 乗れないのではなく、「複雑な気持ちを抱え、意図的にその区間と自身との距離を置こうとしている」。ふだんは次女と事故の話をしないという三井さんだが、母親の目にはそう映るという。

 そして、「会のメンバーの生きざまにも接していたから、我が娘に過度な干渉もなく、突き放すこともなくフラットな関係を持つことができた」と振り返る。

 次女は独自のスタンスでレジリエンスを見出し、今を生きていくことに重きを置いている。

 三井さんをはじめ、事故の負傷者と家族らの有志は、事故から約2か月経った2005年6月、それぞれの思いを話し、共有する「語りあい、分かちあいのつどい」をスタートさせた。
 そして事故の2年後、2007年7月から「補償交渉を考える勉強会」を開催。その後、補償(賠償)交渉などが個別では対処しきれなくなったため、2008年2月に「JR福知山線事故・負傷者と家族等の会」を設立した。今年(2026年)4月で「つどい」が246回を重ねた。8月で250回を迎える。

 こうした取り組みは、情報共有や補償交渉だけを目的にしていたのではない。

 負傷者の回復過程はつらい。身体の回復は果たせても、心の傷は継続することも多く、「レジリエンス(立ち直る回復力、再起力)の過程で、孤独にならなければ」との思いから生まれたものだ。

過去の「メモリアルウォーク」ルートを変えながらも続く 近隣に住む人、自治体の消防や危機管理監、JR西日本の現役の運転士やOBなど参加者も幅広い ※画像は過去(2023年)のようす

 事故から10年間は、考え方の相違や会の進め方、あり方で対立や反発もあった。毎年同じ行事を繰り返すが、1年として同じことはなかった。
 国土交通省・被害者支援室との意見交換、事故の記憶を紡ぐ「空色の栞」の作成・配布、事故現場近辺を歩くメモリアルウォーク…そうした「場」の重要性を理解し、常にケアし続ける手間と時間が必要だ。
 三井さんは運営面で心が折れそうになったこともあった。しかし、いつしか“荷下ろし”をしてくれたメンバーがいたことで、心が通じ合った。

事故から1年、大規模なメモリアル行事を企画 しかしその後、それぞれが持ち味を出して活動しながら思いをつなぐようになった

 負傷者の家族は事故の「当事者」と言えるのか、悩むこともある。三井さんの場合、次女は命を取り留め、いつでも会える状態だから、何とか乗り越えてきた。一方で、手術を繰り返す人、後遺症に苦しむ人もあり、またその家族も精神的・肉体的に壮絶な人生を歩んでいる。「家族や知人を失った方々の気持ちなどを思うと、自分は“当事者といえるのか?”という後ろめたさや負い目があったのも事実」と話す。

 親元を離れている次女は、事故後しばらく、ラッシュアワーの電車に乗れない時期があった。今も一定区間をあえて乗らないようにしているという。 事故現場付近のことだ。 乗れないのではなく、「複雑な気持ちを抱え、意図的にその区間と自身との距離を置こうとしている」。ふだんは次女と事故の話をしないという三井さんだが、母親の目にはそう映るという。

 そして、「会のメンバーの生きざまにも接していたから、我が娘に過度な干渉もなく、突き放すこともなくフラットな関係を持つことができた」と振り返る。

 次女は独自のスタンスでレジリエンスを見出し、今を生きていくことに重きを置いている。

三井ハルコさん(手前)と次女(奥)メモリアルウォークの途中、「祈りの杜」を訪れ献花

 21年経った今も、どんどん発信し、広く伝え続けたい。JR西日本の社員の7割近くが事故後に入社している。今でも大小問わず事故は起きている。手放しで「安全になった」とは言えない状況だ。
 「安心・安全な社会、再発防止...共通の目的がある。私たちが取り組むこと、加害企業であるJR西日本が取り組むべきこと、メディアが伝えること、行政ができること、専門家や学究者による検証・分析といったことが、バラバラではなくリンクすれば。 それもレジリエンスのあり方かも知れない」との考えは変わらない。

 鉄道は性別、年代、さまざまな属性の人が利用し、それぞれの人生を乗せている。「鉄道の車内は社会の縮図かも知れない」と話す三井さん。だからこそ、「事故の負傷者、その人にしかわからない、その人にしか語れない生きざまがある」と訴え続ける。そして今年も「祈りの杜」で、静かに手を合わせる。