「とりあえず落ち着こう」弟弟子が絶対王者・藤井聡太を破った日、斎藤明日斗はなぜ一人で部屋の掃除を始めたのか〉から続く

 2024年6月20日、第9期叡王戦最終局に伊藤匠七段(当時)が勝利し、全冠を保持していた藤井聡太から初めてタイトルを奪取した。兄弟子の本田奎六段は、この快挙をどのように受け止めたのか。率直な思いを聞いた。

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本田奎六段

本田奎 もう一人の怪物

 久しぶりに会った本田奎六段に、「少し雰囲気が変わったな」と思った。3年前に初めて取材したときには視線や声色に鋭利さを感じたが、この日はどこかフワリとした穏やかな印象だった。話を聞きながら、将棋界と自分自身を俯瞰した視点に驚かされる。

 今回、伊藤が藤井の全冠制覇を崩したことで、棋士の中で神格化された藤井への認識は変わるのだろうか?

「確かにそういう意見もありますね。でも、じゃあ自分は伊藤君に勝てるのか? と言われたら、人間じゃない存在がもう一人増えただけな気がします。将棋の力という意味で」

 本田が伊藤と初めて指したのは、自身が奨励会を受験する時期だったという。伊藤は小学1年生だったがもっと幼い感じで、本田の中では幼稚園生くらいの印象だった。

「自分が上手の二枚落ちで指したのですが、負かされました。普通は奨励会を受ける者が、その手合いであんな小さな子に負けることはないんです。すごいビックリした記憶がありますね」

 三軒茶屋の教室で、席主の宮田は早くから本田に注目していた。将棋の完成度の高さだけでなく、子どもの中にあって礼儀や周囲への対応にも感心させられるものがあった。奨励会三段リーグでは3年半を要したが、プロデビュー後に初めて参加した棋王戦で挑戦者になり、棋界を驚かせた。弟弟子である伊藤は、当時三段リーグにいた。

強さを裏付ける圧倒的な研究量と大局観

「彼とはVSや研究会をしていましたが、その頃すでに自分が勝ち越すことはなくなっていました」

 本田は淡々と話した。自身がタイトル挑戦を決めたときに、三段の伊藤のほうが「すでに強かった」というのだ。その技術の高さを感じる背景に、圧倒的な研究量があることを指摘する。伊藤がプロデビューしたときには、序盤はすでにトップクラスともいわれた。

「彼が叡王戦の前に挑戦した棋王戦第1局で、持将棋定跡の研究が注目されました。他にもう1局、銀河戦での佐々木勇気八段戦でも、違う将棋での持将棋定跡を指しているんです。相入玉で引き分けを目指そうという発想は、私もあるんですよ。でも、その例を見つけるのが基本的には無理なんです。途中で絶対入玉できないパターンが出てきてしまう。でも伊藤君はそれをすでに二つも見つけている」

 現在、居飛車党において伊藤と同じレベルの研究量を持つ棋士は、一人か二人いるかどうかだという。

「ただ研究量と読む力がいくらすごくても、それだけでは勝てない。大局観、要は読まないでもわかる部分が、どれだけ広いかということなんです。そこの形勢を見極める判断力が、彼のほうが正しい気がします」

冷静と情熱

 本田自身のタイトルへの想いはどうなのだろうか?

「八冠の一角が崩れたことで、挑戦権を争っている棋士は思うところがあるかもしれません。でも今の私はそういうステージじゃない。四段になった頃は、ハングリーさとは違った、もっと楽観的なところがあったと思いますが。ずっと藤井さんの無双っぷりを見てきましたからね。この間に、だいぶ達観した棋士は多いと思います。もう藤井さんと戦うという具体的なイメージを持っているのは、上位数%の人しかいない。私は藤井さんに対する気持ちを聞かれても、あまり関係ないという感情です。ただ、自分が戦う相手への闘志はなくなってはいません」

 本田クラスの棋士が、ここまで自らの立ち位置を厳しく見つめていることに驚かされた。デビュー直後の棋王戦挑戦が、その後の自分にのしかかってくるものがあったのだろうか?

「確かにそうですね。なんだかんだで、1年目の成績が一番良かったですから……。あのときは自分でもすごいビックリしたんです。でも、やっぱり伊藤君が挑戦したときとは、別な感じがしますけども」

 これからの自分への課題は何なのだろうか?

「中終盤の力を伸ばすこと、それは間違いないです。ただその方法が、ずっと見つからない。棋士の中でも、わかっている人はいないんじゃないでしょうか。詰将棋とかがそこまで関係あるとは思えないですし、無難なのは実戦ですけど、それは誰でもやっていますから。現状は永瀬さん(拓矢九段)や伊藤君に倣った勉強法をしている感じです」

 本田は声に抑揚を感じさせることなく、整然と話していた。その言葉の裏に、自問を繰り返し幾多の壁を乗り越えてきた重みが感じられた。今は自らを冷静に見つめることで、新たな出発点を探しているようだった。

写真=野澤亘伸

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 将棋棋士の師弟を描いたシリーズ最新刊『師弟 棋士の見る夢』(光文社)には、宮田一門を含めて7つの師弟のストーリーが収録されている。

(野澤 亘伸/Webオリジナル(外部転載))