NHK「風、薫る」では、りん(見上愛)が夫から逃げ、上京するシーンが描かれている。今作のモチーフとなった大関和は、史実ではどうだったのか。ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基に迫る――。

■大関和をベースに、2人に振り分ける作劇

NHK連続テレビ小説「風、薫る」も4週目。直美(上坂樹里)は、鹿鳴館のメイドとして働き始め大山捨松(多部未華子)の知遇を得て華族の女性らで組織される婦人慈善会に参加することに……。

まだまだ看護師としての物語は先になりそうだが、ドラマはかつての大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」「花燃ゆ」のような期待に満ちている。

さて、前作「ばけばけ」では1年余りしか住まなかった松江市に放送期間の大半が割かれたが、今回はりん(見上愛)の故郷である那須の物語はショートカット。3月には、ドラマ化を記念してりんのモチーフとなった大関和の出身地・栃木県大田原市に記念碑ができたのだが、こればかりは仕方ない。創作するにも、資料があまりに少ないのだから。

なにしろ、りんのモチーフである大関和でさえ資料は乏しい。直美のモチーフである鈴木雅にいたっては、看護婦になる以前の詳細な記録は限られている。

結果、ドラマは大関和の来歴をベースに、りんと直美へエピソードを振り分けるというダイナミックな作劇となっている。

■一男一女をもうけるも“夫に不信”、英語習得に励む

でも「大関和の来歴」とやらも、実はよくわかっていない。

例えば、結婚と離婚の問題。プレジデントオンラインをはじめ多くの媒体が言及しているが、資料というものはほとんどない。大関和が書いた『実地看護法』の復刻版には彼女の伝記が記されているが、上京以前の記述は極めて簡潔だ。

(大関和は)城主大関肥後守増裕の一族で、明治維新の変革に際して、城主は自刃、後事を託された父の増虎も苦境に立たされて、家禄はもとより家も屋敷も返上して帰農し、一変した生活を送るようになる。和が10歳の時であった。しかしこの生活も長くはつづかず、やがて一家を挙げて追われるように上京する。

和は年ごろとなって、親同士の決めたかつての家老仲間、渡辺家の息と結婚し、一男一女をもうけるが、次第に夫への不信が高まり、深く傷ついて長女しん、長男六郎の二児を連れて実家に帰ってしまう。(中略)しかし世は正に鹿鳴館時代、元来、社交的な彼女は、直ちに英語習得の必要を思いたち、正美英学塾に通い始めた。
(大関和『実地看護法 覆刻版』医学書院、1974年)

写真=iStock.com/hxdbzxy
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■妾の子が複数いたので「六郎」…逃げるように上京か

この離婚の経緯だが、そもそも結婚相手の渡辺福之進という男は、藩政改革の時に藩兵として出世、戊辰戦争では藩の小隊長にもなっている。廃藩置県の後には陸軍少尉にまで出世した後に病を理由に退職して戻ってきた人物で、既に40歳近い男であった。

大関を研究した亀山美知子によれば、和は、この結婚を拒み、思いあまった末に頭髪を全部剃って、馬を疾走させたと記している。

そんなに結婚を拒まれても動じない、渡辺というのもたいした大人物である。ともあれ、結婚した二人の間に生まれた息子に、渡辺は六郎と名付けた。というのも、渡辺には既に数人の妾がいて、それぞれに子供がいたからである。

衝撃を受けながらも、当時の価値観で「離婚は恥」といわれてぐっとこらえた和であったが「こんな結婚などするか」とばかりに、坊主になって馬で疾走するパフォーマンスをするような女性である。いつまでも、貞淑なフリをして我慢をしているはずなどない。

1880年、長女のしんの出産を理由に実家に帰ると、産後の経過が思わしくないと帰るのを遅らせた。とはいえ、このまま離婚となれば狭い田舎で後ろ指を指されるのは必然である。

逃げるようにしてでも、東京に出るのは最良の道であった。なにしろ、既に零落したとはいえ大関家は藩主にも連なる高位の一族である。亀山も華族となり、東京に住むことが決められている旧藩知事の大関増勤(最後の藩主で子爵となる)などを訪ねたのではないかと記している(亀山美知子『大風のように生きて:日本最初の看護婦大関和物語』ドメス出版、1992年)。

前列右より二人目が大関和。1888年10月26日の卒業記念の撮影と推定(写真=佐波亘『植村正久と其の時代 第5巻』(1938年9月28日発行)/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

■身分が下がったが、コネは使えた“零落士族”

前述の『実地看護法』復刻版に付記された伝記とは、ずいぶんと趣が違う。そもそも和の父・増虎は「苦境に立たされた」とはいえ帰農しただけである。家禄も家も返上した、とある。しかし頼れる旧藩知事は華族になって東京にいる。結婚相手は陸軍少尉にまで出世した男である。息子には「六郎」と名付けるほど妾と子供がいた、というのは確かに問題だが、それはまた別の話だ。

明治の「零落した士族」というのは、つまりそういうことである。ネットワークは生きている。コネは使える。華族の親戚もいる。ただ、お金と身分が以前より下がった、というだけの話である。

つまり、前作「ばけばけ」のヒロインのモデルであるセツの没落ぶりと比べれば天国である。和の場合、赤子を抱えてさめざめと泣いているというよりは、武家の娘のプライドと合体して「くっそ〜、今に見ておれ……」という具合だったのだろう。

ここで重要なのは、現在も残されており多くの書籍で引用されている写真だ。この時期の和は華麗な洋装ということだ。

■英語習得は“外国人との会話に不便を感じたから”

洋装といっても、当時それは一部の上流階級にしか許されない装いである。しかも写真撮影は明治8年時点で3〜7円(週刊朝日編『値段の明治・大正・昭和風俗史 続』朝日新聞社、1981年)。金持ちでもなければ撮影などできない。これが史実の大関和の「苦境」である。

ドラマでは直美が鹿鳴館のメイドとして働いているわけだが、史実と照らし合わせれば、これは、りんのモチーフである大関和の人生を利用している。でも、和はメイドどころか社交を繰り広げる側だったというわけだ。

それにしても、直美は第一話で自ら「みなしご」と言っている。貧困の極みの出自である。

鹿鳴館のメイドというのは、上流階級の文化を身につけた女性が就く仕事である。現代のカフェのアルバイトではない。ドラマは鹿鳴館のメイドをコンカフェのキャストかなんかと間違えているフシがある。

さて、上京した和が英語塾に通うに至った経緯は、史料にはこう記されている。

其頃大書記官鄭永寧氏息永慶氏の厚意によりてイイストラ女史に紹介せられ、常に通訳を通して会話したりしが、彼女は之に不便を感じて英語修行の志を起し……

■上流階級の交際だった

鄭永寧は、もともと明朝から亡命した鄭成功の子孫で長崎奉行のもとで通訳をしていた一族である。維新の後は、明治政府に出仕して通訳官となっていた。

その息子の永慶は、幼い頃から語学の天才と呼ばれ、エール大学に留学し金子堅太郎などと共に机を並べた人物である。しかし、留学中に病を得て帰国、その後も外務省に出仕したが学位がなくては出世も頭打ちだと、心機一転。はじめたのが、日本最初の喫茶店として記録される可否茶館であった。

つまりそもそもが、上流階級の交際である。

鄭永慶はエール大学帰りで日本最初の喫茶店を開いた男だが、それはまだわかる。問題は彼が紹介した「イイストラ女史」の正体だ。この人は、横浜で歯科を開業し「近代歯科の父」と呼ばれたイーストレイクの妻である。このイーストレイク家、息子のフランクの自宅で行われていた聖書を研究する集会は、植村を迎えて教会としての組織を整え、現在も千代田区に存在する富士見町教会へと発展していく(東北学院百年史編集委員会 編『東北学院百年史』東北学院、1989年)。

……和の周囲に、庶民が一人もいない。ちなみに重ねていうが、この時期のもう一人のモチーフである雅の動向はほとんどわからない。

■鹿鳴館や捨松との接点は不明、朝ドラは“創作”

なお、ドラマは鹿鳴館を推しているが、鄭永慶が可否茶館を開業した理由は、鹿鳴館への反逆である。

永慶氏は「よしッ! 俺は、あんな表面だけの欧化主義で馬鹿騒ぎしている社交場なぞを尻目にするような、大衆庶民や学生のための『社交サロン』である知識の共通の広場になるような新しい『喫茶店』を開店して、世の若い世代の者たちのために、一旗あげてみよう!」と決意したのである。
(寺下辰夫『珈琲ものがたり(味のシリーズ 1)』ドリーム出版、1967年)

志は高い。ただし開店費用は、父・鄭永寧が出した。

ともあれ、ドラマでは鹿鳴館でメイドから始まり、大山捨松の知遇を受ける流れで進んでいる。これは、大部分というより、ほぼすべてが創作と言っていい。

前述の亀山の著書によれば、この時期の和の消息はこう記されている。

東京へ出てからの和の消息は詳細にはわからないが、洋装姿の写真が残されており、鹿鳴館時代の当時、和もまた社交界にも姿をみせることがあったのだろう。

そして、現在収集することのできる和の書いた文章や、取材記事などを見ても鹿鳴館に通ったとか、鹿鳴館での婦人たちのバザーで捨松の知遇を得たなどという記述は一切見当たらない。そりゃ、立ち話くらいはしたかもしれないが、和と捨松はその人生においてまったくの無関係。ほぼ、いや……完全に赤の他人である。

■先行研究をたどると“フィクション”

ところが、ドラマの原案である田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社、2023年)では、二人の絡みが描かれている。田中は歴史社会学者であり、この本には「史実をもとにしたフィクションです」と、きちんと書いてある。良心的である。

大関和(写真=『実地看護法 5版』国立国会図書館デジタルコレクション/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

ただ、この鹿鳴館のバザーからの逸話は、田中のオリジナルかというと、そうでもない。尾辻紀子『近代看護への道:大関和の生涯』(新人物往来社、1996年)にすでに登場するエピソードで、田中はこれを丁寧に援用している。先行研究を踏まえた、誠実な仕事ぶりといえよう。

つまり構造としては、尾辻が書いたフィクションを、田中がフィクションと明記しながら引き継ぎ、NHKがドラマにした、ということである。フィクションのバトンリレーとでも言おうか。……パクリではない。走者全員、善意であると筆者は信じている。

フィクションの人物に実在人物を絡ませる作劇手法は、関川夏央・谷口ジローの劇画『「坊っちゃん」の時代』(双葉社、1987年)などでも用いられており、成功すれば傑作になる。ただし失敗すると、大恥である。このドラマが、どちらに転ぶか。「江〜姫たちの戦国〜」の時のように期待してやまない。

■和は「くっそうの精神」で突き進んだか

ここまで見てきたように、大関和の「苦境」とは、旧藩の華族を頼れて、エール大学帰りの知人がいて、「近代歯科の父」の妻に紹介してもらえる、という種類の苦境である。

この時代、離縁されて幼子を抱えた女性の末路は、おおむね決まっていた。実家でひっそり肩身を狭くして暮らすか、さもなくばもっと惨めな道である。

和が「くっそう、今に見ておれ」とばかりに英語塾に通い、社交界に顔を出し、やがて“日本最初の看護婦”へと駆け上がれたのは、彼女の意志と才能によるところが大きい。それは間違いない。

しかし、その意志と才能を発揮する余地があったのは、彼女が上流階級の娘だったからである。

「くっそう」のエネルギーは、誰にでもある。実家が太いヤツが強いのは、明治も令和も変わらない。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)