「金正恩委員長、判決文を取りに来てください」 『地上の楽園』という名の誘拐に司法が下した有罪判決

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金正恩委員長、取りに来て」

東京地方裁判所の南側に設置された掲示板。そこに、A5サイズに縮小された文書がひっそりと貼り出されていた。宛名には「朝鮮民主主義人民共和国代表者 国務委員会委員長 金正恩様」とある。

《あなたに対する下記の書類は、当書記官室に保管してありますので、出頭の上その交付を受けてください》

要するに、「金正恩委員長、判決文を東京地裁まで取りに来てください」というメッセージである。これは、通常の手段では書類を届けられない相手に対し、一定期間掲示することで法的に「届いた」とみなすための「公示送達」という手続きだ。

1月26日、東京地裁は北朝鮮に対し、脱北して日本に帰還した原告4名へ計8800万円の賠償を命じる判決を下した。その後、期限までに北朝鮮側からの控訴がなかったため、2月10日をもって、日本の民事裁判で国家を相手取った異例の勝訴判決が正式に確定したのである。

これは1959年から始まった「北朝鮮帰国事業」を巡る裁判で、前述の公示送達は、この判決文を取りに来るよう金委員長へ伝えるためのものだった。

「医療費は無料、希望する職業に就ける。衣食住にも事欠かない」

1950年代後半、朝鮮総連(正式名称・在日本朝鮮人総聯合会)を中心に北朝鮮を「地上の楽園」と謳い、移住を呼びかける大々的なキャンペーンが展開された。日本国内での差別もあり、生活に困窮していた在日朝鮮人らにとって、その呼びかけは希望に見えた。結果として9万3000人以上が日本から海を渡ったが、彼らを待ち受けていたのは、過酷な労働と激しい差別、そして飢餓だった。

以下判決文には、原告たちの凄絶な生活の実態が記されている。

《冬は氷点下30度以下にもなる厳寒地である白頭山付近に配され、耳、手の指、足の指の全てが凍傷になった》

《期待していた北朝鮮での生活と現実とのあまりの落差に衝撃を受け、渡航後間もないころから精神を病み、平成3年に精神病院で死亡した》(原告親族のケース)

《平成6年ごろからは大飢饉が発生し(中略)多くの餓死者が出る状態となった。(中略)動物の餌の中でも最も安い費用の餌を食べるほかないような状態であり、いつ餓死するかという状況の中、子らとともに自殺する寸前まで追い込まれた》

ひとたび渡航すれば出国は許されず、保衛部(秘密警察)の監視下で怯える日々。命がけで国境を越え、日本に逃げ帰ることができたのはわずか200人余りに過ぎない。国交すらない北朝鮮に対し、なぜ日本の裁判所が賠償を命じることができたのか。原告弁護団で主任弁護士を務める福田健治弁護士(早稲田リーガルコモンズ法律事務所)に話を聞いた。

スケールが大きいだけの「誘拐」

2018年の提訴から8年。実は一審の東京地裁で、原告側は完全な敗訴を喫している。そこには大きな法的な壁があった。

「一審で負けた理由は、日本で行われた『北朝鮮へ行こう』という”勧誘行為”と、北朝鮮に渡ったあとに自由を奪われた”留置行為”が、それぞれ別の不法行為(他人の権利を侵害して損害を与える違法な行為)だと判断されたからです」(福田弁護士)

一審の論理はこうだ。勧誘行為は日本で行われたが、すでに20年の「除斥期間(時効のようなもの)」が過ぎており請求権が消滅している。一方の留置行為は、北朝鮮国内で完結しているため、日本の裁判所に裁く権限(国際裁判管轄)がない。

法律のロジックとしては隙がないように見えるこの一審の判決を、弁護団は高裁で覆した。

「一審では『時間と場所と態様が違うから別の行為だ』とされました。しかし、北朝鮮の一連の行為の構図は『誘拐』と同じです。子どもに『美味しい飴玉をあげるよ』と声をかけて車に連れ込み、家に閉じ込めたとします。このとき『飴玉をあげる行為』と『家に監禁する行為』を別の行為だとは誰も思いませんよね。帰国事業も同じで、二国間にまたがるなど桁違いのスケールなだけで、行われていることは誘拐なんです」(福田弁護士)

当時の北朝鮮は朝鮮戦争の影響による深刻な労働力不足に陥っており、だましてでも在日朝鮮人を労働力として確保する狙いがあった。自由に帰国させてしまえば、現地の悲惨な状況が日本に伝わり、帰国事業そのものが成り立たなくなる。だからこそ、だまして連れていき、戻さないことまで含めて、北朝鮮政府のひとつの計画だった。

このように、全体がひとつの継続した不法行為とみなされたことで、「20年」という除斥期間の縛りがクリアされた。不法行為の終了が「原告らが北朝鮮を脱出した時点」と再定義されたため、脱北から20年以内の提訴であれば請求権は消滅しないと判断されたのである。

さらに、加害行為の起点となり、結果が発生した日本にも裁判管轄があると認められた。

「日本の民事訴訟法には、たとえ海外が絡む事案であっても、不法行為の一部が行われたり、被害が日本国内で発生していれば、日本の裁判所で裁くことができるという規定(国際裁判管轄)があります。今回、日本で行われた『勧誘』から北朝鮮での『留置』までが一連の不法行為だと認められたことで、この民事訴訟法のルールが適用され、日本の裁判所で裁く権限があると判断されたのです」(福田弁護士)

こうして高裁で一審判決が取り消されて差し戻しとなり、今年1月26日の地裁で逆転勝訴となったのである。

「いつか責任は取らされる」

ただ、相手は国交のない独裁国家だ。賠償判決を勝ち取ったところで、実際にカネを取り立てることは容易ではない。弁護士として考えれば、割に合わないどころか、完全に「カネにならない」仕事である。

「弁護士費用は1円ももらってないです。8年やってますが(笑)。まあ、そんなもんだと」

そう言って笑う福田弁護士だが、この困難な裁判を引き受けたきっかけは、国際人権NGO『ヒューマン・ライツ・ウォッチ』の知人を通じた相談があったからだという。福田弁護士は、独裁国家による暴挙に対して司法の場で一石を投じるという使命感で、この前例のない裁判を引き受けた。

「深刻な人権侵害国家で生きる過酷さは想像もつかないものです。それに対して、誰かがその加害国家にきちんと責任を取らせなければいけない。世界中で国家によるさまざまな人権侵害が行われていますが、一般論として、当該国家が崩壊しない限り、責任を取らせるのは難しいのが現実です。独裁者は『俺は王様だから好きにやっていいんだ』と思い込んでいるかもしれない。

しかし、深刻な人権侵害に対しては必ず制裁が加わるんだ、いつか責任は取らされるんだ、という事例を積み上げていかないと、大規模な人権侵害を防ぐことはできない。そのひとつの試みとして、日本の法廷を使って、民事裁判で責任を果たさせるという意図で裁判を起こしたのです」(福田弁護士)

勝訴が確定した今、次なる最大のハードルは「8800万円の回収」である。北朝鮮が素直に口座へ振り込んでくるはずもないが……。

「次は強制執行の手続きです。日本国内にある北朝鮮政府の財産、つまり不動産や動産、預金債権などの差し押さえを目指すことになります。現在さまざまな調査をしているところです」(福田弁護士)

そこで、ひとつの疑問が湧く。かつて帰国事業の窓口となった朝鮮総連(正式名称・在日本朝鮮人総聯合会)の資産は対象にならないのだろうか。

「国内法上、朝鮮総連は北朝鮮政府とは別個の団体という扱いになっているため、判決に基づいて直接差し押さえるのは難しいです」(福田弁護士)

回収の見込みについても、

「いやー、それは簡単じゃないですよー」

と、福田弁護士は苦笑した。

圧倒的不利な状況から、法廷で鮮やかな逆転劇を演じてみせた弁護団。独裁国家の隠し資産を暴き出し、原告の手に8800万円を届けるという次なる”スーパーショット”を、彼らは再び放ってみせることはできるのだろうか。

取材・文:酒井晋介