オリックス時代の坂口智隆【写真:編集部】

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運命狂った2012年の右肩脱臼と靭帯断裂…「納得いく打撃」ができなくなった

 野球人生の歯車が狂ったのは2012年だった。今季限りで現役を引退した坂口智隆氏は、オリックスでプレーしていたこの年に右肩脱臼と靭帯の断裂を経験。その後は本来の打撃を取り戻すことができず、ついには退団を選択する。“最後の近鉄戦士”と呼ばれた男の野球人生を振り返っていく連載の第9回は「歯車が狂った大怪我とオリックス退団」。

 2012年。人気、実力と共に“チームの顔”だった坂口氏は大きな目標を掲げていた。首位打者、5年連続のゴールデングラブ賞、そしてリーグ優勝。岡田彰布監督からも「打席では自由にいってくれ。どれだけ打てなくなってもお前は使うから」と、不動の1番打者として起用された。

 開幕直後は「毎年恒例だった」と自らも認める“スロースターター”。徐々に調子を上げていったが、交流戦に入って5月17日の巨人戦(東京ドーム)で事件は起きた。初回の守りで坂本勇人が放った浅い飛球をダイビングキャッチした際、右肩を地面に強打。自ら起き上がることができず負傷退場となった。

「最初はあばらが折れたと思った。さらしを巻いたらいけるかなぁと。でも、起き上がることができないし、右肩をみたらボコって骨が飛び出てる。あ、これはヤバいなと」

 すぐさま病院に向かい検査の結果は「右肩肩鎖関節の脱臼」と「右肩靱帯断裂」の重症だった。5か月間のリハビリを経て、10月5日にDHで1軍復帰を果たしたが「(バットの)トップの位置が変わって、それを戻すためにかなり時間がかかってしまった。それからは納得いく打撃ができなかった」と、打撃不振に陥り、苦しいシーズンを過ごすことになった。

 2013年は規定打席に届かず打率.230。ソフトバンクとの優勝争いを演じた2014年も打率.235と、“安打製造機”と呼ばれた姿は影を潜めた。「今思うと“前の形”を追い求めなければ、そこまで時間はかからなかった。唯一の後悔」と振り返る。当時は糸井嘉男や駿太らがおり、外野の定位置争いがし烈。徐々に出場機会も減っていった。

2015年9月、球団からの呼び出し「この金額か自由契約を選んでくれ」

 2015年は開幕スタメンを勝ち取ったが、5月に出場登録を抹消されると、そのまま1軍復帰を果たせないまま夏を迎えた。9月上旬、神戸にある2軍施設で練習を続けていると「話がある」と突然、球団から呼び出しをくらった。

「なんやろう? って感じでした。クビになるにしても時期的に早い。下交渉の話かなと思って向かった記憶があります」

 部屋に入ると球団幹部が揃っており、当時の年俸7500万円から野球協約上の減額制限を超える大減俸を提示された。「この金額か自由契約か選んでくれ」。数分の話し合いの中で、4年連続ゴールデングラブ賞や最多安打など、築き上げてきた功績は称えられたが、事実上の戦力外だった。

 提示された金額の意味合いは分かっていた。「今までありがとうございました」。その場で、坂口氏は迷うことなく自由契約を選択。部屋を出ると、その日のうちにロッカーを整理し球場を後にした。

「僕のなかでは金額じゃない。勝負できる環境があるか、必要とされているかされてないかが大事。もう1回、勝負したかった。もちろん球団への感謝はありました。ダラダラいってこのままの気持ちでは野球ができない」

 10月1日、球団から退団が発表された。近鉄を含め“バファローズ”で過ごした13年間に自ら終止符を打った。「自分を獲ってくれる球団はあるのか」。期待と不安を抱えながらオフシーズンに入っていった。(橋本健吾 / Kengo Hashimoto)